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春の日曜日、青年たちは帽子をもらって町へ消えた。|1920(大正9年)4月18日(日)|4月19日(月)|

📗 1920年(大正9年)。旧制中学を卒業したての18歳の祖父が書いた日記を、孫である私が106年後の同じ日に公開しています。
師範学校を受けたけど不合格。「来年こそ!」と誓いつつ、親戚の家に居候しながら、正式採用ではない「代用教員」として田舎の小学校の子どもたちに勉強を教えていた、そんな頃の話です。
ちなみに今日は風邪をひいています。


🧭 この日のあらすじ

4月18日(日)― 謎の帽子配布、そして祭り準備
宿直明けの朝。丹生川青年会のメンバーが全員、学校に集合してきた。
なぜか帽子を受け取り、そのまま町へ。……何をしに行ったのかは日記に書いていない。謎である。
7時半に高山の実家へ帰り、お祭りの準備を手伝う。
11時には下宿先の石松家へ出発。このあたりから喉がかゆくなってくる。風邪のはじまり。

4月19日(月)― 薬を飲んで、でも仕事はする

朝から37度の熱。煎じ薬を飲んで登校。
算術の授業はうまくできた。
ただ「もう少し生徒の態度・礼儀(操行)にも目を配ればよかった」と反省。
風邪でも授業をこなして反省までする。
18歳にしてなかなかやるな、祖父よ。
夕方は会議、夜はお風呂。ザ・代用教員の日常。


📅 日記本文

4月18日(日)
朝、丹生川村青年、皆本校に来て、帽子をもらいて町に行く(4時半ころ)
7時半、内へ行く。
内にては祭準備をなす。
11時石松に出発す。
風邪をひいて喉かゆし。

4月19日(月)
朝7度。煎を飲んで登校。
今日は算を教える。
かなりに出来た。
もう少し操行に注意すればよし。
3時打合会あり。
6時家に帰る。
夜、湯に入る。


📌 背景メモ

青年会
今でいう「地域の若者コミュニティ」みたいなもの。ただし国に管理されていました。
村単位でバラバラに活動していた青年会は、1915(大正4)年の文部省・内務省の合同訓令によって村単位に統合され、名称も「青年団」に統一されることになりました。
その後、大日本連合青年団という全国組織の末端に組み込まれ、従来の青年会は「支部」として活動することに。
自主的なサークルだったはずが、気づいたら国のピラミッド組織の一番下にいた、という感じです。
とはいえ大正9年の時点では、講師を呼んで講演会を開いたり、村の史跡に看板を立てたりと、まだ比較的のびのびと活動していた時代でした。

下の写真は「丹生川村史」(1962年)より。
総会のあと、小学校の校庭でスウェーデン体操をしている青年会の様子です(この日記の3年前)。
帽子はかぶっていませんが、こうして集団で行動している様子を見ると、この日も総会のあと、揃いの帽子を受け取って町へ出かけたのかもしれません。

1917(大正6)年4月10日、丹生川青年会総会
午後は運動が行われ、小学校教員の指導で瑞典(すえいでん)式体操が行われました

操行(そうこう)
今でいう「生活態度」の通知表欄みたいなもの。
礼儀・出席・素行などをまとめて評価したもので、当時は進学や就職にも影響する、けっこう重要な項目でした。
18歳の祖父が子どもたちの「品行」を採点している……なかなかシュールな光景です。


💭 孫のつぶやき

「帽子をもらって町に行く」の謎、調べてみたんですが答えが見つかりませんでした。
大正時代は成人男性が外出するとき帽子をかぶるのは常識で、青年会が揃いの帽子を支給することもあったようです。
4月は新年度の始まり。おそらく新しい帽子を受け取って、高山の街での集会か何かに出かけたのでは……と想像しています。
でも結局のところ、わかりません。祖父よ、もう少し詳しく書いてほしかった。