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37名の17歳の地図|1920(大正9年)2月2日(月)|

📓 1920年、17歳だった祖父が書いた日記を、 孫である私が、2026年の同じ日に紹介しています。
仮名遣いは今の表記にしています。
読めない字や謎ワードも時々ありますが、100年前の味ということで、ご理解ください。

🧭 この日のあらすじ

ねぶと(化膿性汗腺炎)のため見学していた体操を、この日ようやく再開。
しかし、翌日からは定期試験。
試験勉強に追われる中、物理がとにかく難しく、気持ちも時間も余裕がない。


📅 日記本文

はじめて体操をなす。
明日より試験があるので、忙しい。
物理は非常に難しい。
家に帰りて、復習の後、歴史、国語をなす。
夜、雨降り出す。

📍背景メモ

母が持っている同窓会名簿によると、1920(大正9)年3月の卒業生は37名でした。

そのうち、最終進学先が記されているのは18名で、東京大学3名、早稲田大学3名、金沢医専3名など、全国でも難関とされる学校への進学者が目立ちます。

一方で、進路が空欄の卒業生も半数以上おり、卒業後すぐに就職したり、家業を継いだりした人も多かったと考えられます。

その中で、祖父を含む2名が進んだ岐阜師範学校は、学費の負担が少なく、小学校教員への道が開ける、当時としては現実的で堅実な進路でした。

この学年には、全国トップレベルの大学や医専に進学した生徒もいます。
そうした進路を選べた背景には、学力だけでなく、都会に子どもを送り出すだけの金銭的余裕や、地元にとどまらず希望する道に進ませたいという、家庭側の意識や覚悟もあったのではないでしょうか。

斐太中学校
1920年3月卒業生
最終進学先内訳(同窓会名簿で公開されているもの)

東京大学3、
早稲田大学3、
金沢医専3、
岐阜師範2、
(以下は1名のみ)
明治大学、明治大専、京大附専、東京高商、慈恵医大、宗教大学、中央大学

💭孫のつぶやき

同じ学年37人の進路を見ると、東京大学に3人、早稲田に3人、医専にも複数います。
まだ鉄道も開通していない山の中の旧制中学校とは思えません。

一方で、進路が書かれていない人も半分以上います。
進学するのが、当たり前だったわけではありません。

そんな中で、祖父が選んだのは岐阜師範学校でした。
卒業式で優等賞をもらうほど成績も良かったので、本当は大学に行きたいという気持ちもあったのではないかと、想像してしまいます。

叔父が京都の美術学校に進学していたことを思うと、高山を離れて学ぶ未来も、決して遠い話ではなかったはずです。

それでも、父親を早くに亡くしていた祖父にとって、遠くの街へ進学することは、現実的な選択ではなかったのかもしれません。