ならば、次の一手|1920(大正9)年3月18日(木)|3月19日(金)|3月20日(土)|
📙1920年。旧制中学校を卒業したばかりの17歳の祖父が書いた日記を、孫である私が2026年の同じ日に紹介しています。
小学校教員を目指して受験した師範学校は、不合格でした。
そこで翌年の再受験までの間、母の実家近くの小学校で、非正規の「代用教員」として働くことを考えます。
地元で顔の利く親戚に履歴書を託し、その小学校へ採用の口利きをお願いしました。
しかし、どうやら簡単にはいかないようです。
🧭 この日のあらすじ
3月18日(木)
母は丹生川の実家・石松家へ。
自分は英語の勉強。
夜、大洞屋のおばさんが来る。なんだか寂しい。
うきや(判読難)、吉野、寿崎からご祝儀が届く。
3月19日(金)
数学の勉強。
3月20日(土)
母、石松家から帰宅。
丹生川小学校では新しく教員を入れられないとの話。
こうなれば郡視学に聞くしかない。
母は夜、松原郡視学のもとへ。
自分は石松家の頼母子講に行く。
寿崎からの祝儀のお返しをする。
日記本文
3月18日(木)
母、石松に行かる。
英語をなす。
夜、大洞屋のおばさん来らる。
何だかさみしい。
うきや、吉野、寿崎より来る。
3月19日(金)
数学を行う。
3月20日(土)
母、石松より帰らる。
丹生川には教員を入れることはできない由。
この上は郡視学に聞くより仕方なし。
母、夜、松原郡視学の処に行かる。
石松の頼母講に行く。
寿崎よりの祝儀を返す。
📌 背景メモ
郡視学(ぐんしがく)
郡内の小学校を監督する教育行政の責任者です。
今でいえば「教育委員会の現場トップ」のような存在でしょうか。
教員の配置にも影響力があったようです。
頼母子講(たのもしこう)
地域の人たちが毎月お金を持ち寄り、順番にまとまった金額を受け取る仕組みです。
金融機関が十分でなかった時代の、いわば“地域版ローン兼コミュニティ”。
お金だけでなく、人間関係も回していました。
寿崎(すざき「洲崎」)
字は異なりますが、祖父の家と付き合いのあった「洲崎」家と思われます。
飛騨高山で江戸時代から続く老舗料亭「洲さき」は、現在も知られる存在です。

家族のお祝い事で利用したことがあります
💭 孫のつぶやき
大洞屋のおばさんは、卒業のお祝いを持って来てくださったのかもしれません。
この日も、いくつか祝儀が届いています。
お祝いをいただくたびに、
「ああ、本当に卒業したのだな」と実感したのでしょうか。
理由は書いていませんが、この一行は、区切りの寂しさのように思えます。
丹生川小学校での代用教員への道は、あっさり閉ざされました。
地元の有力者の口利きでもダメ。なかなか世の中は甘くありません。
母は次の手へ一直線。
郡視学に直談判。
一方、17歳の本人は母の代理で頼母子講へ出席。
母は走り、息子は勉強と地域行事。
これはもうチームプレイです。

6歳の祖父と、その母。
日本髪に剃り眉、お歯黒。
いかにも“昔の既婚女性”の姿ですが、
この人、かなりのシゴデキです。

画家バルテュスも、アトリエの鍵につけていたそうです

