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友よ、お前もか|1920(大正9)年4月25日(日)|

📗 1920年(大正9年)。旧制中学を卒業したての18歳の祖父が書いた日記を、孫である私が106年後の同じ日に公開しています。
師範学校を受けたけど不合格。「来年こそ!」と誓いつつ、親戚の家に居候しながら、非正規の「代用教員」として田舎の小学校の子どもたちに勉強を教えていた、そんな18歳の春の話です。

🧭 この日のあらすじ

(週末帰省中) 旧制斐太中学の同級生・多田の家を訪問。
時計のこと、杉下のこと、「半○○」(判読できず)問題について相談。
そこで耳に入ってきたのが「杉下と野中、入試落ちたらしい」という話。
…同志よ。
午後は下宿先の石松家に戻り、そのまま学校へ。
宿直の夜は誰もおらず、百科事典を眺めて過ごす。


📅 日記本文

多田に行き、時計、杉下、半○○の事を相談す。
また杉下、野中が受からなかった事を聞く。
午後、石松に行く。
宿直にて学校に行く。
誰もいなかった。
百科事典を見る。

📌 背景メモ

多田(多田喜久男)
同級生の多田さんは、祖父の母方の親戚でもあるという近い関係。
斐太中学校卒業後は東京高等商業学校(現・一橋大学)へ進み、商社・兼松に入社。
1936(昭和11)年頃には豪州(オーストラリア)兼松の電信担当責任者として、なかなかの大仕事をやってのけている。

当時、日豪間の電信はイギリス経由の海底ケーブルが主流で、コストも高く利益も海外に流れる仕組みだった。そこで多田さんが目をつけたのが、日本とオーストラリアのほぼ中間に浮かぶトラック島(現・チューク島)の無線電信局。「ここを中継基地にすれば、大部分を国内電信扱いにできて料金は半額以下になる」という、誰も思いつかなかったアイデアだ。

1936(昭和11)年に自らトラック島へ出張して実地検証。法律上グレーな部分は現地の会社と交渉して乗り越え、同年3月からトラック島経由の電信運用をスタートさせた。さらに自社で開発した7字タイプの暗号がオーストラリア政府の認可を受け、日豪両社で実用化。三井物産が同じルートの利用を申請してきたのを退けるほどの独占状態を築いた。

(参考文献:藤村聡「兼松は語る〜『兼松史料で読み解く戦前期の歩み』」神戸大学経済経営研究所刊2011年)

さっきから頭の中で中島みゆき「地上の星」が鳴り止まない。
多田さん、あなたは完全にプロジェクトXの人です。


杉下(杉下延郎)
豪農の分家に生まれた同級生。
この日の日記に「受からなかった」と記されているが、その後は金沢医学専門学校(現・金沢大学医学部)へ進み小児科医に。
高山市内で開業し、小児病の研究論文も発表するほどの医師になった。
復員後は市の要職もこなし、高山市史にもその名が残っている。

18歳の春に試験に落ちた青年が、のちに高山市史に載る医師になる。人生、どこで花が咲くかわからない。

野中(野中勇夫)
同窓会名簿にはお名前のみ。詳しい情報がなく、残念ながらわからなかった。

💭 孫としてのひとこと

杉下も野中も落ちたと聞いた祖父、どんな顔をしていたんだろう。
「俺だけじゃなかった」と少し楽になったんじゃないかな。
その夜ひとりで百科事典を読んでいた姿が、なんとも言えない。

そういえば祖父の家には立派な表紙の百科事典が何冊もありました。
あれ、昭和の家には必ずあったやつ。
読んだことある人、ほぼいないやつ(いや、祖父なら読んだかも)。

そして。
多田さん、杉下さんのような人が日本を支えてくれていたんですね。
それにしても、この日おしゃべりしていた18歳が数十年後にそんな人物になるとは、祖父も知る由もなかっただろう。