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海軍記念日。18歳、祝言でお酒を注ぐ|1920(大正9)年5月27日(木)|

📗 1920年(大正9年)の日記です。書いたのは18歳の祖父、読んでるのは106年後の孫(私)。
旧制中学を出たばかり。
小学校の教員を目指して受験した師範学校に落ちて、来年こそ!と思いながら、親戚の家に居候しつつ田舎の小学校で代用教員をしていた、初夏のころの話です。


🧭 この日のあらすじ

今日は海軍記念日。朝、講堂で堤先生から日本海海戦の話を聞く。

午後は下宿先の石松家の祝言(結婚式)のため、3時に帰宅。
夜8時すぎ、折敷地(おしきじ:同じ丹生川村の、さらに山奥の地)からお嫁さんが到着し、一同で出迎えた。

夫婦の三三九度の盃、その後は親族の盃も続き、祖父はお酒を注ぐ係として働く。

18歳、完全に結婚式スタッフである。


📅 日記本文

海軍記念日なるにより、朝、講堂にて堤先生より日本海海戦の話あり。
本日は、石松の祝言なるにより3時帰宅す。
8時少し過ぎに、折敷地より嫁来らる。
一同、出迎えをした。
夫婦盃済みて後、親類1人1人の盃あり。
我は酒を注ぐ役をなす。
11時に寝につく。


📌 背景メモ

祝言(しゅうげん)
祖父の日記では祝言そのものの様子はあまり詳しく書かれていません。
でも、飛騨の昔の婚礼風習を調べてみたら、なかなかディープな世界でした。

明治のはじめごろまで、飛騨には「火まぜ」という風習があったそうです。
婚礼の夜、花嫁は実家の囲炉裏の火を移した松明とともに婚家へ向かい、迎える側も松明を持って出迎える。
そして両家の火を合わせ、その下を花嫁がくぐって家に入る。
ロマンチック♡と言いたいところですが、この火、かなり重要です。
火元になる「とね」は囲炉裏にくべる一番大きな薪で、この火を絶やすと縁起が悪いどころか、離縁につながることもあったとか。
ただの演出ではなく、かなり本気の儀式だったようです。

さらに祝言の夜には、村の若者たちがやってきて、縁起物の島台(飾りもの)を持ち込んだり、即興のお笑い寸劇(仁輪加)を披露したりして、お酒をごちそうになるのがお約束。
が、酒が足りないと小石を投げる人たちまでいたらしく、明治4年には高山県庁から石投げ禁止令が出ています。
…祝いの席とは。

そして丹生川の山奥では、祝言を済ませても花嫁はすぐには婚家に入らず、1年ほど実家で暮らす地域もあったそうです。

理由はかなり現実的。農家の娘は大事な働き手だからです。
嫁に出すことを「手間を貰った」と表現した、という話まで残っています。

子どもができてから正式に婚家に入るのが普通、という地域もあったそうで、「結婚」のかたちも今とはずいぶん違っていたようです。

参考:桑谷正道『飛騨の系譜』日本放送出版協会、1971年


💭 孫のつぶやき

「火まぜ」。オリンピックの聖火みたい。
祖父が日記に書いた祝言では「火まぜ」をしたかどうか書かれていませんが、石松家一同でお嫁さんを出迎えた、と書いてありました。

背景メモにある飛騨の祝言の慣習は、明治のはじめごろの話なので、祖父の日記の時代にはすでに消えていたものもあったかもしれません。

そして「我は酒を注ぐ役をなす」という一文を読んで、「お!」と思いました。
私は学生時代、神社で巫女のアルバイトをしていて、神前結婚式で新郎新婦の三三九度や親族への盃に御神酒を注ぐ役をやっていたんです。106年前の祖父と、同じことをしていたんだなあと。

それにしてもこの春の石松家。出産、葬儀、婚礼が立て続けです。

そして、日本海海戦。
日露戦争(1904〜1905年)での日本の勝利を決定づけた海戦で、1905年5月27日〜28日 に行われました。
東郷平八郎率いる日本海軍が、「東郷ターン」という作戦でロシアのバルチック艦隊を破った戦いです。
祖父の日記は1920年なので、たった15年前の出来事です。大国ロシアに勝った誇らしい出来事として、生々しく語られたのでしょうね。
私はNHKドラマ「坂の上の雲」で知りました。
先日、横須賀の「記念艦三笠」に見学に行ってきたのですが、VRで体感する日本海海戦がめちゃくちゃよかったです。
興味ある方はぜひ。

「俺のターン!」