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立てば芍薬、後ろはちびっ子、歩く姿は新米先生|1920(大正9)年6月9日(水)|6月10日(木)|

📗 1920年(大正9年)の日記です。書いたのは18歳の祖父、読んでるのは106年後の孫(私)。
師範学校に落ちて、親戚の家に居候しながら代用教員をしていた初夏。
今日は芍薬を見に行く話です。

🧭 この日のあらすじ

6月9日(水)
3時間目からお昼まで、子どもたちを連れて正宗寺に芍薬を見に行く。
女学校の生徒たちも来ていた。
赤、ピンク、白、色とりどりに咲いて美しい。
午後は授業なし。

6月10日(木)
高等小学校2年生の理科の授業を参観した。
ボール掛けを作った。


📅 日記本文

6月9日(水)
○3時より正午まで、正宗寺に芍薬を見に行く。
実科の生徒が行っていた。
紅、もも色、白など美しく咲いている。
午後、授業無し。

6月10日(木)
高2年の理科参観。
ボールカケヲ作ル。

📌 背景メモ

正宗寺(しょうそうじ)

今も岐阜県高山市丹生川町北方にあるお寺です。
祖父の下宿先・石松家(祖父の母の実家)の菩提寺でもあり、祖父にとっては馴染みの場所でした。

明治から大正にかけて、14代目の都築霊源住職が境内に芍薬を植え始めました。
祖父が訪れた1920年は、ちょうど植え始めた頃。
今では約500株が咲く「芍薬寺」として知られています。

ところで、この芍薬を植えた霊源住職にはちょっと好きなエピソードがあります。
のちに、霊源住職の後を継いで正宗寺15代目住職・山田霊林師となる少年が、11歳でこの寺に入門した時の話です。
知らない寺、知らない大人たち、兄弟子たちに囲まれた霊林少年は、心細かったのでしょう。

そこで霊源住職は、毎晩そばに呼んで、いろいろな話を聞かせてくれたそうです。
しかも少年のリクエストは「女性の出てくる話」。母親を思い出せるからでした。

私が禅門に入ったのは十一歳の晩春、雨もよいの夕暮れであった。
母に送られ、師に迎えられて、山の町から二里離れた村里の禅寺に行く、道端の水田で蛙が頻りにないていた。
師匠はそのとき五十を幾歳とは超えていなかったが、十一歳の私の眼には、大変な年寄りに見えた。
兄弟子も五人いた、雲水坊さんも幾人もいた。
師匠は小さい私を特にいたわって、夜になると側に呼んで私の好きな話をして下さった。
私の好きな話、それは女性の話であった、女性の話でさえあれば、それが母のことを聞かせて貰っているように感じられて嬉しかった。
師匠は頗る厳格な古禅僧であった。
規矩準繩を尊び、その風格に、今樣がかったところの少しもない人であった。
この人が私に毎晩、女性の話をしてくれるのである、さぞ骨が折れたであろうと今それを思う。
いろいろ聞いたその話、今も忘れないでいる話が幾つもある。
婆子焼庵の話、了然尼の話、歌女の話、女子出定の話、鄭娘の話、女子倫笋の話、新婦騎驢の話、台山婆子、劉鐵磨、慧春尼、これらを師匠は幾たびとなく話してくれた。
しかし、これらの話は禅の公案として一人前の禅僧でもその真義を掴むには苦しむところのものである。
それを十一歳の私に話す師匠の骨折りは一通りではなかったであろう。
勿論私にその話の深い意味など分かろう筈がない。
ただ話の主人公が女性であるというので、私にはそれが母のことを話されているように感じられて、ただ嬉しかったのである。
それからは、もう四十年の歳月を経過している。
師匠も逝き、母も逝ってしまった。
しかし晩春から初夏にかけての季に入ると、その頃のことが偲ばれて、師匠から聞いた話が心に浮かぶ。

山田霊林著「禪學夜話」第一書房
1942


成長した霊林少年は、正宗寺の15代目住職を務めた後に、駒澤大学総長、そして曹洞宗総本山である永平寺の75世貫首まで務めることになります。

毎晩「女性の出てくる話」をねだった11歳の少年が、後に曹洞宗のトップになるのですから人生はわかりません。

芍薬を育てた住職は、人も育てていたんですね。

実科
高山実科高等女学校(現在の岐阜県立飛騨高山高等学校)です。この日記の3年前にできたばかりの新しい女子校です。
この日記の年からは高山高等女学校と名前を変えましたが、祖父はまだ「実科」と呼んでいますね。

尋常小学校も旧制中学校も男子のみだった時代。
女子と接する機会といえば家の母と妹くらいだった祖父にとって、これは結構な洗礼だったのでは。

高2年
祖父が勤めていた丹生川小学校は「尋常高等小学校」。
尋常小学校(今の小学校にあたる)と、その上の2年制・高等小学校が一緒になった学校です。
祖父自身は尋常小学校を卒業後、旧制中学校に進んだ組なので、高等小学校は「通ったことのない学校」を教える立場で見ることになりました。


💭 孫のつぶやき

正宗寺は今は「芍薬寺」としてちょっと有名。この季節はコンサートもあるみたい。

そして背景メモで書いた霊源住職と霊林少年の話。
いつのまにか「霊源さま、息子を…ありがとうございます涙🙏」と霊林少年の母の気持ちになっていた私。
(のちの曹洞宗総本山トップになるお方やぞ!ザクとは違うのだよ!)

…さて、祖父の話。
気になるのは「実科の生徒が行っていた」の一文。
さらっと書いてるけど、キャッキャしている女学生がいっぱいいる中に、ちびっこを引き連れた18歳のやせっぽっちな先生が地味に紛れ込んでいたわけです。
午後は授業なし。
晴天。芍薬。女学生。

なんだかな、祖父よ。

翌日は理科の授業を見学して、ボール掛けも作ったらしい。
何のために、どこに、なぜ…は一切不明。
最近フットボールにテニスに野球にと忙しい祖父のこと、ボールを種類別にしまっておきたかったのかもしれません。
知らんけど。