帳祝とぜんざい、そしてシベリヤ|1920(大正9)年1月11日(日)|
📓 1920年、17歳だった祖父が書いた日記を、 孫である私が、106年前のこの日に紹介しています。
仮名遣いは今の表記にしています。
読めない字や謎ワードも時々ありますが、100年前の味ということで、ご理解ください。
🧭 この日のあらすじ
帳祝(ちょういわい。下記📍背景メモで説明してます)の日なので、朝ごはんはぜんざい。
こたつで物理を勉強するが、難しく感じている。
親戚の石松あやさんが訪ねてくる。
近所の吉助さんに、小作地や寺への用事を頼む。
夕方は新聞を読み、国内外の情勢に目を通した。
📅 日記本文
本日は帳祝であるから、
朝、小豆汁の餅を食す。
終わりてこたつにて物理を見る。
困難であった。
10時ごろ、石松のあやが来た。
吉助さん桐生及び善光寺国分寺に行ってもらう。
夕方図書館にて、
新聞を見る。
「シベリヤ増兵問題」
「虚職者〜」
あり。
支那貿易は
今は振るわざれども、
今後良くなる
というようなるもあった。
📌 背景メモ
帳祝(ちょういわい)
正月十一日、商いをしている家で、新しい年に使う帳簿を綴じ直し、気持ちも新たに一年の商いを始める習わしです。
石松のあや
祖父の母の実家、石松家の人。
吉助さん
近所に住んでいて、よく手伝いを頼んでいた人。
桐生(現在の高山市桐生町)
祖父の家が持っていた小作地の一つがあった場所です。
戦後の1946(昭和21)年に始まった農地改革によって小作地はなくなりましたが、
一部の土地は「自分たちで耕作する」という条件で、手元に残すことができました。
祖父は、慣れない畑仕事がなかなか大変だったと、後年語っていたそうです。
シベリヤ増兵問題
第一次世界大戦後、日本はロシア革命の混乱の中で、
シベリアへ軍隊を派遣していました。
この日記の書かれた1920(大正9)年ごろには、兵をさらに増やすべきかどうかが、国内で議論になっていました。
💭 孫のつぶやき
今日の帳祝の日記を読みながら、祖父の母の姿が、自然と思い浮かびました。
祖父の母は、祖父が9歳のときに夫に先立たれましたが、金融業や酢・麹の販売、さらに小作地からの小作料を生計の糧として、女手一つで祖父とその妹を育て上げました。
日記にしょっちゅう登場する、祖母の母の実家である石松家や、遠縁の大洞家、そして今日の日記に出てくる吉助さんなど、周りの人たちの助けもきっとあったのだと思います。
シンママ、ワーママという言葉もなく、女性は選挙権もなかったこの時代に、家を切り盛りしながら子どもたちを育てた祖父の母は、やはり、超カッコいい女性だったのだと感じます。
祖父の家には、黒々とした墨で書かれた古い「大福帳」(今で言う帳簿)が、壁にかけられていました。
子どもの頃は特に気にも留めていませんでしたが、あれは祖父が、母の仕事と生き方に寄せていた、静かなリスペクトの表れだったのかもしれないと、今になって気がつきました。
