橋が流れた夜、ほたるは光る|1920(大正9)年6月28日(月)|6月29日(火)
📗 1920年(大正9年)の日記です。書いたのは18歳の祖父、読んでるのは106年後の孫(私)。
旧制中学を出たばかり。
小学校の教員を目指して受験した師範学校は、不合格でした。
来年こそ!と思いながら、親戚の家に居候しつつ田舎の小学校で非正規の代用教員をしていたころの話です。
🧭 この日のあらすじ
6月28日(月)
大雨で、丹生川村の橋がほぼ全滅した。2つの橋を除いて、全部流された。休校。
校内に残っていた者たちは、昼食を済ませてから、小木曽の仮橋を渡って家へ帰る。
午後は、学校の地図を描いた。前に作ってあったものと取り替える。
夜、蛍の光をたよりに(たぶん)、蚕の手伝い。
6月29日(火)
午後4時、帰宅。
蚕の手伝い。
水害のせいで、電灯がつかない。
📅 日記本文
6月28日(月)
大雨のため丹生川にては今橋およびこのの橋の外皆抜け落ちて流れしため、休校となる。
教室内のものは昼食をすまして小木曽の仮橋を渡って家に帰る。
午後、学校の地図を描く。
前おきの新しいのと替える。
夜、ホタルおりての○(判読不能)、かひこ(蚕)の手伝いをなす。
6月29日(火)
午後4時家に帰る。
蚕の手伝いをなす。
水害のため、電灯つかず。
📌 背景メモ
早朝、滝のような雨が降り、小八賀川が氾濫した。
『洪水報告 大正9年6月28日』(岐阜県高山測候所編、1921年)によると、この日、丹生川村で流された橋は32箇所。
32本。橋が流される、という事態がそもそも想像しにくいのに、32本。
それでも登校してきた子がいたから、祖父たちは付き添って仮橋まで遠回りして送り届けたのだろう。
下宿先の石松家は養蚕もしていた。2日続けて手伝いに加わっている。
何をしたかは書いていないけど、桑の葉を運ぶくらいはできたんじゃないかと思う。
💭 孫のつぶやき
6月13日の日記に「亀くんと蛍をとる」とある。
その時の蛍なのか後から補充したのかはわからないけれど、電灯がつかない夜、かごに入った蛍の光を頼りに蚕の手伝いをしたのかもしれない。
勝手な想像だけど、そうだったらいいなと思っている。

