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はじめての月給は「但し」つき|1920(大正9)年4月20日(火)|4月21日(水)|

📗 1920年(大正9年)。旧制中学を卒業したての18歳の祖父が書いた日記を、孫である私が106年後の同じ日に公開しています。
師範学校を受けたけど不合格。「来年こそ!」と誓いつつ、親戚の家に居候しながら、正式採用ではない「代用教員」として田舎の小学校の子どもたちに勉強を教えていた、そんな18歳の春の話です。


🧭 この日のあらすじ

4月20日(火)
記事なし

4月21日(水)
3・4年生を連れて、高山町まで遠足。
天気は快晴。城山で弁当を食べる。

帰り道、大雄寺の前でドン。正午を知らせる時報砲だ。

漆垣内を通って丹生川小学校へ帰校。
夕方には雹が降り、雷が鳴って急に寒くなった。

そしてこの日、祖父は初めての月給を受け取る。
ただし、27円20銭。


📅 日記本文

3、4年、高山町に遠足。
天気良くて遠足には好日なり。
城山にて弁当食う。
大雄寺でどん。
漆垣内を通って帰校。
夕方、雹降る。
寒くなる。雷鳴る。
月給を受く(但27円20銭)


📌 背景メモ

高山町
祖父の地元。丹生川小学校からは徒歩約7.4km。
遠足では3年生(8〜9歳)の子どもたちも、往復で15km弱の距離を「歩いて」往復しました。
子どもたちと弁当を食べた城山は、祖父の実家のすぐ近くで、祖父にとっては広い庭のようなところ。

日記の「大雄寺でどん」、これは城山公園付近で鳴らされていた時報砲の音。
正午をドンと知らせる、当時のお昼のサイン。

これが、「ドン!」の正体

『目で見る飛騨の100年:写真が語る激動のふるさと一世紀』
岐阜郷土出版社 1989年

月給
日記にも、巻末の家計簿にも、ちゃんと27円20銭と書いてある。几帳面か! 
現代の価値に直すと10〜15万円くらいらしい。
代用教員の初任給、こんなものだったようです。


💭 孫のつぶやき

4月20日は、「記事なし」とだけ書いてあるページ。
この日記は1月1日に始まっているのだけど、初の「記事なし」でした。
何があったんだろう。いや、何も無かったのか。

そして翌日、初任給、27円20銭。
わざわざ「但し」と書いているのが気になる。ガッカリ? 照れ?

106年を飛び越えて伝わった気がする、こういう行間。