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100年越しの勘違い|1920(大正9)年7月31日(土)|

📗1920年、旧制中学校を卒業した祖父。小学校の先生になろうと師範学校を受けたものの、まさかの不合格。  
師範学校リベンジを狙いつつ、仕方なく(?)田舎の親戚の家に下宿しながら、非正規の代用教員として小学校の教壇に立つことに。  
そんな代用教員生活、初めての夏休みがやってきました。  
この日記を、孫である私が106年後の2026年、同じ日付で紹介しています。


🧭 この日のあらすじ

下宿先の石松家より、家に帰る。
図書館で、金色夜叉の続きを読む。
中学の同級生、牛丸に会う。
夜は国技館で活動写真を観る。


📅 日記本文

石松より帰る。
図書館へ行き金色夜叉を読む。
牛丸に会う。
夜、国技館に行き、活動写真を見る。


📌 背景メモ

牛丸周太郎
牛丸さん、1週間前(1920年7月23日付)の官報で、
第四高等学校 理科甲類 本年九月一日ヨリ高等科へ入學ヲ許可スへキ者
としてお名前が載っていました。
祖父に会った時は、合格を知ってまだ日が浅いタイミングだったみたい。

ちなみに第四高等学校とは、現在の金沢大学のルーツで、全国に8校あったナンバースクールの一つ。

そして牛丸さん、第四高等学校卒業後は東京帝国大学理学部地質学科に進学されています。当時の超エリートコースですね(帝大…カッコいい響き)。

でも9月入学なの?
当時は、旧制高等学校と帝国大学だけが9月入学でした。
小学校や中学校、師範学校は4月入学だったので、少し不思議な制度です。
しかも翌年から4月入学へ変更されたため、牛丸さんは最後の9月入学世代でした。

国技館(国伎館)
お相撲の土俵はありません。高山にかつて存在した芝居小屋(映画館)です。
大正2年にオープン。
こけら落としには上方歌舞伎の片岡長太夫の一座を招いて行われ、歌舞伎俳優たちが高山入りした日は、市内の芸妓すべてがずらりと並んで派手に出迎えたんだそう。(参考:『明治大正俗聞史』 長尾量平 芸社 1978年)

マツケンサンバみたいな連中が道の両側でお出迎え。オーレ!
(注:妄想です)。

国技館こけら落とし公演の広告

💭 孫のつぶやき

数日前は同じ図書館で同級生の多田さんに会い、浪人生同士で傷を舐め合うトーク(?)を繰り広げていたばかりなのに、この日は同級生の牛丸さんに遭遇。高山のインテリ系男子、図書館しか行くところがない問題。

しかも牛丸さん、エリート校合格したてホヤホヤ。師範学校落ちて代用教員やってる祖父とは対照的です。
気まずくないのか気まずいのか、日記からは一切読み取れません。祖父、こういう時に感情をログに残さないタイプ。

(ちなみに牛丸さん、のちに岐阜大学教授になり、うちの母がまさかの教え子だったという、時空を超えたご縁もあったりします。)

そして最後にひとつ、どうしても言いたいことが。
祖父が「国技館」と書いてるこの建物、正式名称は「国館」です(×技、○伎)。
相撲、関係ありません。土俵もありません。ただの芝居小屋(のちに映画館)です。

でも祖父だけじゃなく、参考にしたいくつかの昭和の資料も皆「国技館」表記だったので、たぶん高山中の人がずっと誤字ってた説。

当時すでに全国区だった両国の国技館の存在感に、地元の娯楽の殿堂が完全に飲み込まれた説、提唱していきたいと思います。

『目で見る飛騨の100年 : 写真が語る激動のふるさと一世紀』
岐阜郷土出版社 1989年
この本も「国技館」って書いてる…