急募:チーム蚕(かいこ)【未経験者歓迎、猫も可】|1920(大正9)年7月2日(金)|7月3日(土)|7月4日(日)
📗 1920年(大正9年)の日記です。書いたのは18歳の祖父、読んでるのは106年後の孫(私)。
旧制中学を出たばかり。
小学校の教員を目指して受験した師範学校は、不合格でした。
来年こそ!と思いながら、親戚の家に居候しつつ田舎の小学校で非正規の代用教員をしていたころの話です。
🧭 この日のあらすじ
7月2日(金)
放課後はテニス。
7月3日(土)
午前授業のあとテニス。帰宅すると、蚕の「やとい」はすでに終わっていた。
実家へ帰るつもりだったが、雨のため取りやめ。
7月4日(日)
朝は蚕のやといを手伝い、実家へ。
用事を済ませて夕方に石松家へ戻り、夜は裏二階の壁を貼る。
📅 日記本文
7月2日(金)
放課後テニスをなす。
7月3日(土)
放課後、テニスをなし、3時半家に帰る。
かひこのやとい既に済みいたり。
家に帰らんと思いたれども、雨降りしため、おく。
(※「おく」は飛騨弁で「やめておく」の意)
7月4日(日)
朝少しやとひの手伝いをなしたる後、我家に帰る。
色々用事を済まし、午後5時、石松に出発す。
夜、裏二階の壁を貼る。
📌 背景メモ
かひこのやとい(蚕のやとい)
蚕が糸を吐いて繭(まゆ)を作る時期を「やとい」と呼んでいたらしい。
専門用語では「上蔟(じょうぞく)」、または「お蚕(かいこ)上げ」という。
蚕の繭が、絹糸(シルク)の材料となる。
養蚕農家にとって、これが一年でいちばんの稼ぎどき。
大正時代の生糸はアメリカへの主要輸出品で、蚕糸業は空前絶後の黄金期まっただ中。
丹生川でも村ぐるみで組合を組織し、養蚕に取り組んでいた(ソース:丹生川村史)。
繭の出来は死活問題、とまではいわないけれど、大事な現金収入だったはずだ。
蚕はデリケート。温度・湿度・清潔さに常に気を配り、桑の葉を1日3〜4回与え続ける。
養蚕農家ともなると数千から数万頭(蚕は「匹」ではなく「頭」で数える)を飼育するから、その世話はなかなかの重労働である。
そしてやといの時期になると、作業は一気にクライマックスを迎える。
合図は蚕自身が出す。桑を食べなくなり、体が乳白色から飴色に透き通り、頭を左右に振りはじめたら「繭を作りたい」のサインだ(熟蚕という)。このタイミングを逃さず、まぶし(蔟・繭を作らせる格子状の台)のそばへ運んでやる。あとは蚕が自分で好きな小部屋を選んでよじよじ入っていく。
とはいえ気まぐれな生き物で、これを何千何万頭と管理するのだから、そりゃ人手がいる。
ちなみに「やとい」が終わる時期には過労で倒れる人が続出した、という記録も残っている。笑えない。
祖父が6月28日から手伝いに入ったのは、ちょうどこの「お蚕上げ」の時期だったみたい。
ところがこの年の6月28日、丹生川を記録的な大水が襲った。
床上浸水14軒、橋の流失32か所、損害見込み5万円(岐阜県高山測候所「大正九年六月廿八日洪水報告」)。
祖父の日記によれば、翌29日も電灯がつかなかった。
それでも蚕は待ってくれない。

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💭 孫のつぶやき
6月28日の夜、丹生川は停電していた。橋が32本流れた夜のこと。
石松家の中では、おびただしい数の蚕(かいこ)が飴色に透き通り、頭を左右に振りはじめていた。
やといのサインだ。
ったく、水害で大変なときに…ちょっとは空気を読んでくれよ!蚕さんよ!
停電の暗闇の中、蛍かごの光をたよりに、蚕を「まぶし」のそばへ運ぶ。あとは蚕が自分で小部屋を選ぶ。
よじよじと格子を這い上がり、気に入った区画へするりと入る…
はずなのだが、わりと勝手に脱走する。
気に入らない部屋からまたよじ登って出てきて、タンスの隅だろうが柱の陰だろうが、囲まれた空間があれば繭を作りはじめてしまう。
「ほら、あっちはダメダメ」
「こっちに入って」。
暗闇の中の、幼虫強制移住。無限連れ戻し地獄。
あっちもこっちも蚕の幼虫だらけ。
発狂しそう。夢に出るわ。
蚕については素人の祖父。
石松家の蚕チームの一員として三日連続で手伝いに入ったのは、たぶん夜の見張りのローテーションを組むためだったんじゃないか、と勝手に思っている。
今なら「タイミーさん、今日だけ来られます?」案件である。
石松家の繭がドルに換わって太平洋を渡っていた時代の話。
祖父が世話をした蚕の繭が、マレーネ・ディートリッヒのシルクのドレスになっていたかもしれない。

イラストにしてみました


