見出し画像

真夏の夜の八百屋|1920(大正9)年7月20日(火)|

📗 1920年、旧制中学校を卒業して代用教員として働き始めた18歳の祖父が書いた日記を、孫である私が、106年後の2026年、同じ日付で紹介しています。
翌年の師範学校再受験を見据え、田舎の親戚の家に下宿しながら、小学校の教壇に立っていた時期の記録です。


🧭 この日のあらすじ

(勤務先の小学校は夏休み。実家に滞在中)
朝、下宿先から実家に戻る。
小屋名から来た人が、うちに泊まって行った。
夜市に行く。


📅 日記本文

朝、家に帰る。こやな(小屋名)の人とまらる。
夜市に行く。


📌 背景メモ

小屋名の人
祖父の家から8kmほど離れたところに小屋名という地名があります(現在は高山市久々野町小屋名)。
小屋名の人、が誰なのかは謎ですが、祖父の母の知り合いかな?

夜市
「夜市」と聞いて、台湾みたいな屋台街を想像した人。
残念でした。
大正時代の高山の夜市で並んでいたのは、野菜、果物、日用品。

この日記と同じ年(大正9年)の高山の夜市の広告コピーによると、

「美しい野菜物や、つやつやした果物類、さては御家族で必要な日常品の店が美しう並んで皆様のお出を待っております」

『明治大正俗聞史』長尾量平 芸社 1978

と紹介しています。
つまり夜のスーパー、いや夜の青空市場に近い存在だったようです。
この版画のおばあちゃんも、売っているのはやっぱり野菜。

『いろは歳時記:飛騨弁版画集』
岩島周一 岐阜日日新聞社 1985


たこ焼きも焼きそばもチョコバナナもありません。
……いや、それ以前の問題でした。
たこ焼きは、まだこの世に存在していません。

たこ焼きは、1933年(昭和8年)に大阪で生まれ、1935年(昭和10年)に今の「タコ入り」になったとされています。
祖父がこの夜市を歩いた日から、たこ焼き誕生までは、まだ13〜15年待たねばなりません。

しかし、そのさらに十数年後。戦争による灯火管制で、高山の夜市そのものが姿を消してしまいます。

ちなみに現在の高山は、夜市ではなく朝市が有名です。
宮川沿いと、高山陣屋前の広場の2箇所で毎日開催されています。
昔ながらの野菜や花、漬物などのほかに、最近はエスプレッソやさんを見かけました。
賑やかな朝市にエスプレッソの香りがふっと漂ってくるのも楽しい。

宮川朝市 川べりで一服もおすすめ

💭 孫のつぶやき

「夜市」って聞くと、チェンマイや台北で見た、屋台がひしめく賑やかな夜を思い浮かべるんだけど、当時の高山はどうやら野菜と日用品を売る、静かな夜市だったみたい。

それでも灯火管制で消えてしまったのは残念。
夜市、見てみたかったな〜
もしタイムトラベルができたら、1920年の夜市でたこ焼きを売りだそうと思います。
そしたら私は今頃、富豪だったのでは。
…たこ焼き器も一緒に持って行かないとだけど。

それと祖父。
「小屋名の人が泊まる」とだけ書いて終わるの、情報量が少なすぎます(そして伏線回収は多分ない)。