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日本の歴史に強く影響した朝鮮半島の『三韓』

日本を単一民族国家と言う保守層がいる

もうそんな戦前の話は辞めて欲しい


原日本人と新日本人


紀元前3Cごろまでの日本には、縄文文化色の濃い先住民族(南は球磨民族、東はアイヌ民族)しかいなかった

そこに、主に紀元前3C~紀元後3Cの間に、弥生文化の倭人が割り込んで来た、と言うのが正解だ

先住民は主に自然の食材が豊富な山の中や海沿いに住んでいた

獣を狩猟したり、木の実や自然の野菜などを取って移動しながら暮らしていた

だから、あまり平野や盆地に生活の痕跡が無かった


その平野や盆地に稲作を持つ弥生式文化の民族が入って来た

川沿いに田んぼを作って定住した

定住する理由は屯倉(みやけ/食糧倉庫)という食物保存手段を持ち、食料に不自由しなかったからだ


明らかに違う文化の移住者だった


では、日本人(倭人)のルーツは誰なのか?


昔、日本史で習った事があるだろう『任那』という土地が朝鮮半島の南端にあった

ハッキリとは書かれていないが、任那は日本の領地のような表現だった


任那と言う呼称が付く前は、三つ韓の国が存在していた(紀元前3C~)

中国の史実に見られる三韓

推測するに、任那が倭国の領地と言うのではなく、『出身地』というのが正解だと思う

つまり、紀元前、3Cから、日本民族の祖が徐々に日本列島に渡って、稲作文化を持つ村々を築いていった

そして、その村々がまとまって『国』を形成していった

半島から日本に船で渡ると

海・風が穏やかなら九州へ、吹き荒れるなら出雲へ到着した

で、九州(天津神)の一団と出雲(国津神)の一団が起こった

それが国譲りの戦いを起して、統一大和が出来て、飛鳥に都を置いて、天皇と言う統一政権が誕生した

そして、共通の出身地である弁韓(任那)から、多くの移民を倭人を受け入れた

その弁韓(任那)は実際には10に上る小国の集まりの総称

そして、その場所は加羅(から)とも呼ばれていた

日本語で出身を意味する「から」だ


高句麗の膨張と日本への移民

現在の朝鮮民族は東北の高句麗族だった

日本列島に倭人が移住し国が形作られた頃、南韓三国の名称もそれぞれ変った

馬韓は百済に、辰韓は新羅に、弁韓は任那となった

百済は日本に仏教文化を伝えた友好国

新羅は当初、倭国に朝献していた半属国の時代もあった

7C初頭、推古天皇の御代に、任那の危機に幾度かヤマト軍を派兵した記録があるが、任那はやがて新羅の管理下となる

その南朝鮮の国々が、7Cに高句麗から攻撃を受けて、にわかに滅亡する

二国の高官や貴族の一部は倭国に渡って来た

仏教を持つ蘇我氏・秦氏もその一部だろう


高句麗を受け入れる者は朝鮮人となり、高句麗に相容れない者は倭国に渡って日本人となった


まとめ


簡単に言えば

大陸から倭人が朝鮮半島の南に集まって渡海する拠点(任那)を作った

倭人に関連する百済と新羅が半島南部を経営した

そこに別文化の高句麗が侵入して朝鮮半島を制圧した

多くの南韓人は日本列島に逃れてきた


と言うのが、日本の根幹になるのだろう





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