弟
「姉ちゃん、遅いよ」
晃太が呼ぶ。
「ごめん、ごめん」
腕に持ったバッグを振り回すようにして走り寄る。
勢いが付きすぎて、止まるときに前のめりになった。
「ごめんね」
千津子は、晃太の隣に立っている、洋輔にも言った。
「出がけに、アパートの大家さんにつかまっちゃって。
あまり素っ気なくするのも悪いから、少しおしゃべりに付き合っていたら、遅くなったのよ」
「姉ちゃんは時間通りに来たことがないんだから」
ふくれっ面で言う晃太に、
「ほら、千津姉(ねえ)、謝ってるだろ、もういいよ」
洋輔が取りなすように言った。
三人で、並んで歩き出す。
晃太が、たまたま募集していたコンクールに、軽い気持ちで小論文を書いて送ったところ、それが大賞の次の賞に選ばれた。
今日は、そのお祝いに、千津子が、晃太の好きなものを買ってあげるという約束をしていたのだ。
晃太が欲しがる物は、わかっている。
大体昔から、靴か帽子と決まっていた。
そして、靴か帽子を買う時には、これも昔から、晃太は洋輔にアドバイスを求める。
そんな訳で、休日の午前中、三人は肩を並べて、晃太のお気に入りのファッションビルに向かって歩いた。
「姉ちゃん、まだ、この間会った人と付き合ってるの?」
晃太が訊いた。
「この間って・・・」
「ほら、俺たちが姉ちゃんのアパートに遊びに行った時にいたヤツだよ」
「やつ、だなんて」
「サークルの先輩だって、言ってた人?」
洋輔も尋ねる。
この話題は、洋輔の前では、出して欲しくなかった。
洋輔は千津子のことを、とても気にする。
そして、洋輔には、千津子はいい加減な返事はできなかった。
「結婚して欲しいって、言われてるの」
「えっ、本当?」
二人は声を揃えて言った。
「返事は?」
「まだ、はっきりとは」
千津子はうつむいた。
「千津姉は、その人のこと、どう思ってるの」
「好きよ、いい人だもの」
「何だ、だったら問題ないじゃん。
あいつ、この間会った時、俺たちにろくに挨拶もしないから、変なヤツって思ったんだけど、――あ、姉ちゃん、ごめん、姉ちゃんが好きだって言うんなら、俺はいいよ」
晃太は、それですべてが解決した、とでも言うかのように、機嫌よく答えると、ちょうど目の前に来ていたファッションビルの入り口をくぐった。
お目当ての店に入り、晃太は早速あれこれと見て回る。
洋輔と千津子は、店の入り口から少し離れた所に、二人で並んで立った。
「俺、さっきから気になっていたんだけど、千津姉の腕」
千津子は、はっとしたように、七分袖の袖口を押さえた。
「それ、あざでしょう」
千津子の顔を見て、言う。
「あいつがやったの?」
嘘はつけない。
「プロポーズされたって言う割には、嬉しそうじゃないから」
ようやく声を絞り出した。
「私のすることが気に入らないって言って、打ったり蹴ったりするの」
洋輔の身体が一瞬、強張るのがわかった。
手をぎゅっと握りしめている。
「そんなやつ、駄目だ」
「わかってる。誰に相談しても、止めろって言われるもの。
でも、好きなのよ。初めて好きになった人なの。
私のこと、打ったあとで、泣くのよ。もうしないって。」
「でも、するんだろ。そいつは駄目だ、やめてくれよ。」
「わかってる、わかってるのよ」
店の中では、晃太が帽子をかぶったり、脱いだり、鏡の前でせわしなく動いている。
「俺とそいつと、どっちを取るんだ」
はじかれたように、千津子は洋輔を見上げた。
洋輔がこんなものの言い方をしたことは、今までなかった。
覚悟を決めなくては。
いや、実はもう、とっくに決まっていたのだ。
「わかってるくせに」
この弟を立派に育て上げることが、突然の事故で亡くなった両親への、最後の親孝行と思って生きてきた。
「私には、洋ちゃんが一番だってこと」
叔父一家以外に身寄りのない立場に立たされたのは、千津子が高校生、洋輔はまだ中学生になったばかりの時だった。
「お姉ちゃん・・・」
「洋輔、これ、どっちがいいと思う?」
店の中から、晃太の呼ぶ声が聞こえた。
二人が選んだ帽子を綺麗に包んでもらい、
「はい、おめでとう」
と、千津子は、晃太に渡した。
「ありがとう、姉ちゃん」
喜ぶ晃太に、千津子は告げた。
「晃太、私ね、やっぱり、まだ結婚はしないわ。
あの人にもお断りする」
「え、好きなんじゃなかったの?」
「好き、だと思ってただけなのかも。
どちらにしろ、洋輔が一人前になるまでは、ね」
「俺、来年、大学卒業して、就職したら、千津姉と一緒に住むよ。
千津姉が、本当にちゃんとしたやつと結婚するまでは、俺が千津姉のそばにいる」
「家から出て行くの?」
「叔父さんと叔母さんには本当にお世話になったわ。感謝してる。
でも、洋輔も私も、自立しなくちゃね」
「なんだ、いいな、俺も姉ちゃんや洋輔と一緒に暮らしたい」
「晃太ももう、来年からは大学生なんだから、子どもみたいなこと言ってちゃだめよ。
それに、いつまでも姉ちゃんって呼んでないで、ちゃんと名前で呼んでよ」
「・・・千津子さん」
いかにも言いにくそうな晃太の様子に、従兄弟同士は、坂道を上りながら、大声で笑った。
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