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中国空軍の創設に協力した満州第四錬成隊(林部隊)1958 年部隊最終帰国者(父)木原操


川崎航空機東山学校出身 1958 年部隊最終帰国者(父)木原操の遺品と、「戦史叢書 関東軍<2> 関特演・終戦時の対ソ戦」

川崎航空機:

父、木原操は何も語ることなく、2011 年 1 月 に亡くなりました。
父は鳥取の寒村の貧しい農家の次男で、父が亡くなったあと、元藩主の金時計組だったと父の末の弟の叔父から聞きました。
推薦で、1937 年に15 才で川崎航空機・川崎重工の全寮制の青年学校、川崎東山学校に、学生工員として入学、1944 年 7月に 21 才 5 ヶ月で招集されるまで、7 年 3 ヶ月フライス工として働いていました。

父と母が戦前・戦中に暮らしていた神戸を、父母私の 3 人で訪問したとき、父から東山学校で製図を教えてもらいながら、川崎航空機の明石工場で、エンジンの修理、整備、不足する部品の設計や、フライス盤での製造を行っていたと教えて貰いました。

私が大学進学で地元鳥取を離れた後、母が嫌がる父を誘って2人で船旅にいったときに、貧しい寒村出身なのに、上手に社交ダンスが踊れるのを初めて知って驚いたそうです。父が神戸にいた当時 1940 年 10 月頃までは神戸市内でもタンスホールが営業していたようですが、工員の給与で遊びに行けたのかしらと不思議がっていました。

戦前・戦中に父と会ったことがあるか母に聞いておけばよかったのですが、聞く前に亡くなってしまったのでわかりません。おそらく会ったことはなかったと思います。
母は 28 歳まで結婚できませんでしたが、これは、戦争末期の神戸大空襲で被災して、地元鳥取に疎開後も、1952 年の鳥取大火で再び被災、弟を大学に行かせるために働いていた為でした。

父が亡くなったあと、母から、初恋の相手は、戦時中に通っていた洋裁学校の先生だった方で、戦争で亡くなってしまったと聞きました。

当時母方の祖父母が神戸で経営していた洋品店には、地元鳥取出身のお針子さんが複数人住み込みで働いており、地元鳥取の関係者もよく出入りしていたそうです。
父は、川崎東山学校に入学したあとも、ほとんど帰省しなかったようです。誰が神戸で身元引受人をしていたのかも確認しておけばよかったのですが不明です。
29 歳だった母が 38 歳だった父と 1959 年 2 月に見合結婚した後も、1960 年 4 月に私が生まれる頃まで、父はまるで中国人の様だったそうで中国人と結婚したのかしらと思ったと言っていました。風呂に入るのが嫌いで、満州では米は食べられずコーリャンばかり食べていたそうで、豚足が食べたいと私にも良くいっていました。水餃子が大好きでした。

私が小学校の頃は、働いていた仕事仲間を家に呼んで、ごく稀に麻雀をしていました。麻雀は中国でも良くやっていたらしいと母から聞きました。
小さかった私は、普段はほとんど感情を表に出さず笑い顔を見せることがなかった父に、友達がいて、ロン、リー・ピン・一発・デンデンとビールを飲みながら楽しそうに遊んでいるのを見て、真面目な父でも遊ぶ事があるんだと驚きました。母ももっと友達家に呼べば良いのにと不思議がっていました。

父の遺品には、紙縒(こより)綴じの達筆の 1958 年 8 月1日付の達筆の履歴書(父の筆跡では無い気がします)、1958 年 5 月引揚証明書などと一緒に、川崎戦前または、上海時代から使っていたと思われる古い製図道具が数セット、戦前から使っていたらしい古い革表紙の手帳(中は、ほぼ真っ白でした 残念ですが破棄してしまいました)、1986年の中国空軍設立 40 周年記念のアルバムが 2 冊(箱に入ったままで開いた形跡がありませんでした)と、1986 年に中国に招待された後、それまで何度誘われても行く事が無かった、第四錬成隊の戦友会にも何度か参加したらしく、戦友会が自費出版した記録「航跡」が2冊が開いたあともなく、封帯が付いたまま残されていました。
私が生まれた日から数ヶ月細かな几帳面な字で日記を書き記したノートがありましたが、母はこのノートの存在を知らなかったそうで、読みながら涙を流していました。

第四錬成隊:

1944 年 8 月に浜松航空教育部隊に着任して同月、林飛行隊(第四練成隊)に、12 月に入営する林隊長より 4 ヶ月前に入営、林隊長の伝令の様なことをしていたと母から聞きました。
父からは、終戦時に満州の山を逃げ回り、国民党軍に投降するつもりだったのが、まちがって?八路軍に投降したと聞きました。

航跡年表:

8 月 17 日
ソ連軍奉集堡に着陸し視察(竹田宮が満州に戻っていた当日)

8 月末
林部隊長 陳相屯にソ連軍を迎えにいくも来ず

9 月 9 日
四錬 奉集堡を出発
  *このブランクが不明
   (通化副郭の機材を隠匿する作業を行っていたか?
   大型輸送機や隼は何処に?)

9 月 29 日
山中にて八路軍・国民党軍と交渉に入る
鳳城にて八路軍21旅呉政治委員と四錬側 林・岡村・谷島が参加して交渉会議交渉内容…
 ・日本人を帰国させること
 ・中国空軍建設問題
 ・ソ連軍に日本人を渡さないこと
 ・今後の日本人の生活問題
 ・携行武器の問題
 ・参軍可否は自由意志によること等々

10 月 2 日
交渉成立武装解除(大営子)

10 月 10 日
最終決定八路軍鳳城 主力八路軍に参加
一部不参加者隊列を離れる
四錬主力…宮の原~経由奉集堡へ
家族及び他の人たち…宮の原

10 月中旬
機材収集
奉集堡…一式戦・二式単高・九九高練・ブスモス等
遼陽…スーパー・九九高練・双練
営口…直協 2 機

11 月
スーパー・直協2機 遼陽…張家口へ P-51 の空襲を受ける

12 月
通化へ移動開始
遼東人民自衛軍地上部隊…奉集堡―撫順―梅河口―通化
宮口―田師付―桓仁―通化
飛行機…奉集堡―通化 色々の条件が加わり行方不明・不時着等有り

林部隊長:

第四練成飛行隊は、1944 年、5 月 30 日新京にて編成。初代隊長は石川貫之少佐。父は、8月に、林隊長は、12 月に着任。
部隊の任務は、「航跡」の林部隊長の記載によると、「練習機による操縦教育を終わったものに対して、隼による B29 迎撃戦闘訓練を行うことである」とされている。
ソ連が 8 月 9 日に侵攻しても、ほぼ反撃せず戦力を温存したまま、終戦。

戦史叢書:

「戦史叢書 362〜3 ページ 対ソ複郭、対米上陸その他」によると、作戦準備や計画がソ連側に漏れることは防げない
航空軍の力は温存し作戦的に使用する意図であるから航空力による防空は期待し得ない。
通化付近を「複郭」と位置づけ、地形を利用して広い戦闘地帯を定める。複郭内部に武器資材、衣その他自戦自活に必要な生産並びに備蓄に必要な機構を設ける。
部隊による「警備力」、「警備防諜」を統合する「特別警備隊」を新設する。

上海:

1952 朝鮮戦争後に部隊が解散(父の引上証明書の添付書類の未払給与明細によると、1953 年7月までは軍人として給未払給与の支払対象になっています)、大部分の隊員が帰国したあとも、民間人として、残留、1953 年6月上海基本建設(これは、会社名ではなく、中国の上海工業化プロジェクトの名前の様です)に従事、1956 年 1 月から上海研磨機製作所(Mig-17 をリバースした中国ジェット機製造用のマザーマシンを製造していた工場だと思われます)で働き、最後の部隊員として 1958 年 5 月7日に、2,447 香港ドルを持って舞鶴に引き揚げるまで、13 年 9 ヶ月満州から帰国できませんでした。

父からは、第四錬成隊の後は、引揚まで上海で働いていたとは聞いていましたが、詳細は、履歴書と引揚証明書、それと、軍歴を記入した未払給与明細で確認するまで分かりませんでした。

帰国後:

父は川崎航空機へは復職できませんでしたが、地元の日本フエライトという高性能磁石の会社に、就職、翌年には、母と結婚、1960 年 4 月私が生まれています。
母によると、この間も定期的に、公安関係者が訪問してきていたそうです。

その後組合委員長を 2 回歴任、穏健な組合活動を行っていましたが、1970 年代に金属労連の専従による激烈な労働争議が発生、管理職だった父を含む経営者は会社をロックアウト、その後会社は倒産、救済合併で、日立金属の子会社化、事実上の乗っ取りにあいます。その後、70 歳まで子会社に再就職して働いていましたが、現場の労働者からも管理職からも信頼されていたようで、倒産後の引き継ぎや整理も行っていました。
感情を表に出すことが無かった父が、2回ベロベロに酔っ払って帰り玄関口で倒れ込んでゲロを履いていることがありました。1度目はロックアウト前、我が家の周りは静かでしたが、他の幹部宅は連日赤旗で囲まれ暴力騒が起こり警察も出動していた時期、2度目は、会社が倒産、専従が姿を消した後、日立金属系の新経営者と現場労働者の板挟みだった頃です。

中国政府からの招待:

父は、1986 年 2 月に中国空軍設立 40 周年の式典に、当時ご存命だった林隊長らと中国に招待されて、中国語の写真集2冊等を記念品として送られました。

祖父母:

母の父(祖父)は、海軍出身、戦中は軍属として、神戸製鋼の神戸工場で、水雷関係の部門で軍属として働いていました。祖父は入婿で、父と同様、元藩主推薦で海軍に入隊したらしいです。

母の母(祖母)は、地元の裕福な家系で、叔父が明治時代に、満州で成功、帰国後、大阪阿倍野で軍服の製造工場を経営、その紹介で、神戸で洋品店を経営、大丸、そごうに販売、また、居留外国人の注文服の仕立も行っており、平日でも暇なときは、祖父が仕立て職人らと、幼かった母を連れて、納品などに訪問、祖父が外人の顧客と話している間、母は、珍しいお菓子をもらって、外人の子供と遊んだそうです。

父の最後:

2011 年 1 月 に亡くなる前年の夏頃から年末まで、父は地元の病院から大阪の国立病院(当時癌が専門の大病院でした)に転院して胃癌手術を受けましたが手遅れで、 食道と腸を繋ぐバイパス手術だけして閉じました。その後ICUから出るまでに1ヶ月、胃瘻で生き延びなんとか年末に療養病院に転院、年始に大雪で真っ白な雪に覆われた地元鳥取市の市立病院に併設された介護施設に私の自家用車で連れ帰りました。
父の末の弟(叔父)や、亡くなった長男の息子(私の従兄弟、本家の跡取)などの親類も見舞いに来てくださいました。
2週間ほどで、調子が良くないので介護施設から併設の病院に移ったと連絡があり夫婦で大雪の中鳥取に戻りました。
なにか甘いものが食べたいというので、チョコレートのかけらを舐めさせてあげ、スポンジで口内を掃除して上げると、元気になったからもう帰れというので、夕方に大雪の中を奈良(現在の住所)に戻りました。
クタクタで戻り寝ていると朝4時ごろ、危篤だと連絡があり慌てて大雪でホワイトアウトする中とんぼ返りすると、間に合わず亡くなっていました。
末の弟(叔父)も、母も、本家の従兄弟も、大雪で間に合ませんでした。
私たちが戻った後、最後に見舞いに来ていた本家の従兄弟によると、寝ていた父が目を覚まし、もう元気だから戻れというので、しばらくして戻ったそうです。
母によると、なくなる前日、父は嬉しそうに戦友達が見舞いに来てくれたと話したそうです。おそらく林隊長が最後の伝令の指示を伝えに来たのでしょう。

1.履歴書


履歴書 P.2
履歴書 P.3

【木原操 履歴書】
日付: 1958年(昭和33年)8月1日
氏名: 木原 操生年月日: 1923年(大正12年)02月XX日
本籍地: 鳥取県八頭郡八東村 現住地: 同上
【学歴・職歴】
1929年(昭和04年)04月 八頭郡八東尋常高等小学校 入学
1937年(昭和12年)03月 八頭郡八東尋常高等小学校 卒業
1937年(昭和12年)04月 八東小学校ノ小使トナル
1938年(昭和13年)03月 八東小学校ノ小使ヲヤメル
1938年(昭和13年)04月 神戸市川崎造船所飛行機工場ニ見習工トシテ入リフライス工トナル 同月同時ニ工業技術学習ノ為 川崎東山学校ニ入学
1942年(昭和17年)03月 工業技術学習ノ課程ヲ終エル、東山学校卒業 同月引続キ川崎航空機明石発動機工場ノフライス工トシテ働ク
1944年(昭和19年)07月 現役兵トシテ入営ノ為、川崎航空機明石発動機工場ヲ休職
1944年(昭和19年)08月 浜松市第七航空教育隊ニ入営 同月満州第四練成飛行隊ニ転属
1945年(昭和20年)08月 瀋陽(奉天)ニテ終戦
1945年(昭和20年)10月 本渓湖デ中共軍ニ武装解除ヲサレ技術者トシテ留用サレル、通化・牡丹江・ 東安・斉々哈爾等デ航空関係ノ仕事ヲスル
1953年(昭和28年)06月 上海ニ移リ基本建設ニ従事
1956年(昭和31年)01月 上海研磨機製作所ニ於テフライス工トシテ働ク
1958年(昭和33年)05月 帰国ノ為天津塘沽港出発、
           同月07日 第十八次引揚船白山丸デ舞鶴上陸現在ニ至ル右ノ通リデス
1958年(昭和33年)08月01日 木原 操

履歴書 P.1〜P.3

2.引揚証明書


(上部欄外) 白山丸 弐班
(証書番号・表題) 第 484733 号 引揚証明書
(本人情報欄) 氏名 木原 操  大正12年2月XX日
本籍地 鳥取県八頭郡八頭村
定着地 同右
終戦当時住所 瀋陽
職業 [空白]
同伴家族数 [斜線により抹消]
(家族欄) [全体に斜線が引かれ、記載なし]
(本文・証明文) 右は昭和33年5月7日 舞鶴港に上陸したことを証明する。
昭和33年5月9日 舞鶴地方引揚援護局長 [公印]
(給与金品欄) 主要食糧特別購入切符「乙」引換券 壱 枚
帰郷手当 一〇、〇〇〇円  備考欄 転入手続済
帰郷旅(雑)費 一、〇〇〇円
応急援護物資 給与済
(キリトリ線以下・引換券)
(揚) 主要食糧特別購入切符「乙」引換券
受給人員 壹名
配給基準数量 壱人当(五日分) 弐瓩 (米換算) (※「瓩」はキログラム)
配給数量 [空白] 瓩 
昭和33年5月9日交付)
舞鶴地方引揚援護局長 [割印]

引揚証明書(表面)
引揚証明書(裏面)

(上部表:定着地における援護事項記載欄) ※上部の見出し:定着地における援護事項記載欄(本欄は転出入定着地における援護等につき市区町村が記載すること。)
年月日 33.5.20
事項 未支給給与金
20.9  〜20.11      15円 ×   3月 =         45円
20.12〜23.6          9円 × 19月 =       171円
22.7  〜24.10    100円 × 28月 =    2,800円
24.11〜25.12    300円 × 14月 =    4,200円
26.1  〜28.7   1,000円 × 31月 =  31,000円
計                                                38,216円
切上支給額                                ¥38,220円
追給                                                 30円
取扱者氏名印 資金前渡官吏鳥取県厚生労働部厚生援護課 鳥取県事務吏 田中 勉 [印]

(中部:復員証明) 復 員 証 明 [空欄]

(下部:備考
備 考
一、本証明書は異動証に代るものですから定着地の市区町村役場に提示して転入の手続をして下さい。
二、内地通貨の交換をするときは本証明書を銀行に提示して下さい。
三、上陸地より鉄道に乗車の場合は乗車駅に本証明書を提示して引揚乗車票の交付を受けて下さい。
四、主要食糧特別購入切符「乙」引換券は直接切取らずに定着地の市区町村役場に提示し、これと引換に主要食糧特別購入切符「乙」を受領し、食糧販売店で現品の配給(有償)を受けて下さい。
五、主要食糧特別購入切符「乙」引換券に舞鶴地方引揚援護局長の印のないものは無効です。
六、本証明書を紛失した場合は原則として再発行致しません。

(右下枠:持帰金交換記載欄) 持帰金交換記載欄
[スタンプ] 33.5.-8 舞鶴税関支署
[手書き記載] H$ 2447

引揚証明書(裏面)
第17・18次中共帰還者連名簿

表題 第十七次中共帰還者連名簿
(表部分)
氏名 XXXXX.         現住所 日野郡伯南町XXX
氏名 XXXXXXX      現住所 日野郡石見村XXXXX
氏名 XXXXXXXX   現住所 右 同
氏名 XXXXXX       現住所 米子市XXXX
氏名 XXXXXX       現住所 倉吉市XXXXX
氏名 XXXXXXX    現住所 氣高郡青谷町XXXXXX
氏名 XXXXXX      現住所 右 同
氏名 木原 操         現住所 八頭郡八頭村XXXXX
氏名 XXXXXX      現住所 西伯郡名和町XXXXXX

第十七次中共帰還者連名簿

3.川崎東山学校成績表

この資料は、「川崎重工業㈱神戸本社人事課」様から2026年2月5日にご開示頂きました。有難うございました。

川崎東山学校昭和13年度成績表綴
昭和13年度第1部1学年第3組学業成績勤務状況一覧表

4.航跡年表

航跡 P.218
航跡 P.219
航跡 P.220
航跡 P.221

1945年(昭和20年)08月09日 | 四錬飛 ソ連軍迎撃のため出撃(奉集堡飛行場)
1945年(昭和20年)08月15日 | 終戦
1945年(昭和20年)08月17日 | ソ連軍奉集堡へ着陸し視察する。
1945年(昭和20年)08月末日 | 林部隊長、陳相屯にソ連軍を迎えに行くも来ず1945年(昭和20年)09月09日 | 四錬 奉集堡を出発
1945年(昭和20年)09月29日 | 山中にて八路軍・国民党軍と交渉に入る
| 鳳城にて八路軍二一旅呉政治委員と四錬側 林・岡村・谷島が参加して交渉会議 [備考 八路軍]
| 交渉内容:日本人を帰国させること ・中国空軍建設問題
| ソ連軍に日本人を渡さないこと ・今後の日本人の生活問題
| 携行武器の問題 ・参軍可否は自由意志によること等々
1945年(昭和20年)10月02日 | 交渉成立 武装解除(大営子)
1945年(昭和20年)10月10日 | 最終決定 鳳城 主力八路軍に参加 一部不参加者隊列を離れる [備考 東人民自衛軍]
| 四錬主力…宮の原~経由奉集堡へ [備考 国民党軍大都市へ侵攻始める]
| 家族及び他の人たち…宮の原
1945年(昭和20年)10月中旬 | 機材収集
| 奉集堡…一式戦・二式単高・九九高練・プスモス等
| 遼陽…スーパー・九九高練・双練
| 営口…直協
1945年(昭和20年)11月--日 | スーパー・直協二機 遼陽…張家口へ P-51の空襲を受ける
1945年(昭和20年)12月--日 | 通化へ移動開始
| 地上部隊…奉集堡-撫順-梅河口-通化
| 宮口-田師付-桓仁-通化
| 飛行機…奉集堡-通化 色々の条件が加わり行方不明・不時着等有り
1946年(昭和21年)01月--日 | 東北人民自治軍航空隊と名称統一され教導隊・民航隊・衛生隊等に編成され小学校・法院・民家等に分宿する [備考 東北民主聯軍となる]
1946年(昭和21年)02月03日 | 通化暴動 航空隊の日本人の一部が参加。航空隊にいる日本人全部(在通化)監禁状態に入り機能麻痺する [備考 旧日本軍藤田参謀と国民党スパイ中心の反共暴動]
1946年(昭和21年)03月中旬 | 牡丹江へ移動のために機務隊が機材修理を始める。牡丹江へ移動の第一陣出発 高練・直協等(通化飛行場には残雪あり)
1946年(昭和21年)03月末日 | 機務隊の一部機材収集のため各地飛行場へ派遣される(東豊など)
1946年(昭和21年)04月上旬 | 通化 国民党空軍のB-25、P-51の空襲あり。牡丹江へ地上部隊及び機材が集中され始める
1946年(昭和21年)05月--日 | 牡丹江暴動事件発生 一時駅等占領される(国民党が中心)。勃利へ(国民党系)討伐のため直協出動
1946年(昭和21年)06月--日 | 佳木斯へビラまきのため高練(二機)出動。四平街へ双練内戦参加のため出動(ビラまき連絡)。先発隊東安へ出発
1946年(昭和21年)07月--日 | 各地へ分散していた機材を列車等で東安に集中 機材…九九高練 九九襲撃 双練 百偵 重戦 MC その他部品エンジン等々。本隊の移動のため宿舎等の準備
1946年(昭和21年)10月--日 | 教官訓練班の飛行訓練が海浪飛行場で始まる。
間もなく甲班の訓練も始まる。主力東安へ移動始まる [備考 最後の目本帰国問題で一部の人達がブタ箱入り]
| 旧大和ホテル-機械廠 旧漁業倉庫-修理廠 駅の機関庫-機務隊作業場が出来て総合的な航空学校になっていく
1946年(昭和21年)12月--日 | 日本人の初めての政治学習が始まる。機務隊と修理廠では機材(九九高練)の修理組立で始めての生産競争が行なわれる
1947年(昭和22年)01月--日 | 中国人合同演芸会催され日本人も始めて歌や踊りで参加 [備考 東北人民自治軍六一部隊と改名]
1947年(昭和22年)03月--日 | 機務隊と修理廠の生産競争によって完成した九九高練・双練の試験飛行が行なわれる。
1947年(昭和22年)04月--日 | 東安を基地にして本格的飛行訓練開始のため各地へ移動 五道溝 太平鎮 湯原 千振 各飛行場へ [備考 訓練の合間に農産物(小麦大豆等)の生産]
1947年(昭和22年)08月--日 | 教官班 甲班 乙班 各飛行班へ また後半教官訓練班は戦闘・双発に別れて行く。乙班は千振を出発し牡丹江へ移動し訓練を行なう
1947年(昭和22年)11月下旬 | 冬気に入リ政治学習が始まる(整風運動)。チョンマゲ馬鹿吉問題や朝鮮人幹部の自殺等があり、初めての事に右往左往し自殺にはショックを受ける [備考 始めての思想運動]
1948年(昭和23年)02月--日 | 機務員は機材収集(高練の尾輪・車輪等々の不足)に各地へ探しに出る。日本人の間で文化活動が始まる。残留日本人合同で演劇などが競演される。航校の日本人が東宝争議の劇をだす [備考 牡丹江二大隊ガス毒騒ぎ]
1948年(昭和23年)04月上旬 | 飛行訓練始まる。海浪 東安 太平鎮 湯原 千振。ハルピンでグライダーのテストが行なわれる。不時着したP-51を分解輸送のために機務隊の人員が出発 [備考 L-5二機瀋陽-海浪で空輸 MC修理完成 東安-海浪で試験飛行 落下傘完成]
1948年(昭和23年)08月--日 | 国民党空軍P-51 P-38により訓練飛行場を空襲。海浪-始動車 湯原-九九高練 東安-九九高練等が被害を受ける
1949年(昭和24年)01月--日| 日本人文化活動 歌舞劇上演(牡丹江)
| 冬期政治活動-評級査定始まる(排・連・営等)
| アメリカ機材が国民党側より入りだす P151 、B125 、C-46等々
| 修理廠・機械蔽ハルピンヘ移動 修理廠分廠が瀋陽で操業開始
1949年(昭和24年)04月--日| 飛行訓練開始 在来の飛行場と共に チチハルーB-25 公主嶺ーP-51等が参加
1949年(昭和24年)10月--日| 中華人民共和国誕生
| 中国人民開放軍空軍となる 国慶節に空軍として始めて空から参加
| 北京 瀋陽 ハルピン 牡丹江など
1949年(昭和24年)11月--日| 海浪飛行場に宿舎完成し移動する [備考 海浪修理廠開姶]
1950年(昭和25年)01月--日 | 冬期学習(整風運動)始まる。空軍第七航空学校(九〇七部隊)発足
1950年(昭和25年)04月--日 | 飛行訓練開始。在来飛行場以外に蘭崗 温春でも開始
1950年(昭和25年)06月--日 | 朝鮮戦争始まる
1950年(昭和25年)07月--日 | 朝鮮人学生繰り上げ卒業する。アメリカ機材AT-6の訓練開始 P-51飛行訓練の準備開始 [備考 朝鮮人民軍 ラー9機 蘭崗に不時着]
1950年(昭和25年)10月--日 | 中国人民義勇軍が朝鮮戦争に参加 初期の教え子が参加
1951年(昭和26年)01月--日 | 新海さん(材料廠)が千振で殉職焼死する。日本人文化活動-朝鮮戦争の劇を上演
1951年(昭和26年)03月--日 | P-51の最初の復座改造機完成 第一回試験飛行が海浪で行なわれ問題点が出される。P-51寝座機五機完成 [備考 海浪上空蜘蛛子爆弾騒ぎ]
1951年(昭和26年)04月--日 | 飛行訓練開始。在来の日本機と共にアメリカ機材も使用。使用したアメリカ機材 P-51、AT-6、PT-17、PT-19、L-5。 [備考 P-51タイヤのテスト 爆弾信管テスト直協を利用]
1951年(昭和26年)06月--日 | ソ連製落下傘を使用して教員の降下訓練を行なう [備考 映画「人民の子」撮影に協力]
1951年(昭和26年)12月--日 | 冬期学習、三反運動(汚職・浪費・官僚主義)
1952年(昭和27年)01月--日 | 冬期学習、五反運動(贈賄・脱税・国家資材の盗取・手間抜き材料誤魔化し国家情報の窃取)。その後三反五反運動となる
1952年(昭和27年)04月--日 | 飛行訓練開始。空軍体制強化のため各種幹部要員の訓練が多く行なわれる。中国空軍第一回女性飛行士の訓練始まる
1952年(昭和27年)11月--日 | 航校の日本人牡丹江に結集 集訓隊で学習。日本への帰国準備。「国際友人の墓」(航校にいた日本人)が完成する

航跡 P.218〜P.221

5.中国空軍40周年記念アルバム

父(木原操)が第四練成飛行隊の林弥一郎隊長などと、1986年(昭和61年)5月30日に「東北老航校 創立40周年記念式典」に招待された記念品として頂いた記念アルバムです。

この当時の父と母の写真です。

1986年当時の父(木原操)と母(木原雅子)

6.製図道具

7.戦史叢書

戦史叢書  対ソ複郭、対米上陸その他 P.362

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連京線まで、外・内蒙の国境から、約六五〇粁、満洲・内蒙の境界から約五〇〇粁内外である。ソ軍機械化兵団の戦力殊に機動行程(一日八〇~一〇〇粁)(51)に想到する時、下記のごとく広域を利用する考え方は理解されるが一挺進遊撃戦により拒止せんとするのには幾多の困難が伴うものと考えなければならなかった。
要するに西正面については、北縁の白阿線の端末付近(ハンダガイ、阿爾山、五叉溝付近)に若干の陣地が設けられ、また林西、吐列莫杜(トレモト)などに自衛設備が施工されていた程度であり、従来兵棋その他による用兵的研究も実施されたとする資料がない。
十一月会同における結論は次のごとくである。
一 白阿線沿線の陣地施設を強化し、興安付近に新たに築城するを要する。白城子付近に降下が予期されるソ連空挺部隊に対しては、航空攻撃か又はあらかじめ待機配置の戦車部隊によりこれが撃破に努める。
二 十九年十一月現在西方措置として原則的に言えることは、陣地を設くべき要域を決定し工事着手を急ぐとともに、広域を利用する挺進遊撃戦を重視することである。速やかにこの正面の作戦考案を具体化し、準備を促進しなければならぬ。
三 西正面の作戦担任のため、一軍司令部を新設し、少なくとも二~三コ師団を充当するを要する。
対ソ複郭、対米上陸その他
対ソ複郭・対米上陸防禦など 対ソ作戦上必要な都市及び街村・交通要点に対する防禦工事並びに最悪の事態に応ずるための総複郭と、米軍の上陸に対する防禦施設についても、十一月会同時期に研究が行われた。
通化付近複郭周辺に対しては、地形を利用して広い戦闘地帯を定め、ここに防禦・反撃・陣前逆襲のほか、挺進遊撃などの実施に必要な施設を組織的に造設して、これを有機的に運用し得るごとくし、かつ複郭内部に武器資材、衣糧その他自戦自活に必要な生産並びに備蓄に必要な機構を設ける考案である。
満内の主要都市、交通要点等に対する防禦工事は、所在の軍の陣地と相関連するごとく構築する意図である。
南満に対する米軍の上陸企図に対しては、当面、安東・鳳凰城付近を堅固に確保してその南満進入を阻止し、

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戦史叢書  対ソ複郭、対米上陸その他 P.363

363 第五章 関東軍の作戦考案
また大連地区は孤立するも、なし得る限りこれを敵に利用せしめない方針によって防護する考え方である。
満内防空警備 「敵の謀略・宣伝等に対し未然にこれを封殺するとともに、空地からの攻撃に対し民衆を保護し、満洲内の治安を維持すること」が対策の基本とされた。
十二月会同は右の趣旨に立脚し、第一・第三方面軍、関東防衛軍、第二航空軍、大陸鉄道司令部、関東情報部(哈爾濱特務機関)、関東憲兵隊、満洲国軍顧問部から主要関係者を集めて実施された。主な研究の結果は概要次のとおりである。
一 満洲国内の防空・警備・治安維持は極めて困難であるので特に周密な組織的計画に遺憾なからしめ、これが準備を促進する。
二 満洲国の警固防諜は極めて弱体であり、その強化が至難である実状にかんがみ、諸事すべてソ連側に諜知せられるとの覚悟の下に実施しなければならぬ。
三 満内防衛を組織的ならしめるため、秘密戦的戦力(情報部)、部隊による警備力(兵站警備隊その他)、警固防諜(憲兵の諸機構)を統合せる特別の専門兵団(部隊)を新設する(注 後に実現した「特別警備隊」がこれである)。
四 航空軍の戦力は温存し作戦的に使用する意図であるから航空力による防空は期待し得ない。
五 満内防衛に最も好ましくない影響を及ぼすのは西正面からのソ軍の攻勢であり、これをなるべく長く阻止することにあらゆる努力を傾けなければならぬ。
六 北支方面から予想される共産ゲリラの策動を警戒する要がある。
七 満内鉄道の運行確保については至難が予想されるので、これが対策に意を用いるを要する。
八 戦時防衛に関し満洲国政府側を更に強力適切に指導する(注 本件について昭和二十年三月、満洲国政府行政機関・満鉄その他特殊関係者を集め、具体的研究を実施した)。
極東ソ軍の兵力配備
昭和十九年末ごろの東ソ軍兵力 この概要は次のとおりであった。
 漢数字は兵団・部隊数を、( )内(外数)は確度の低いものを示す。
地上全般 赤軍 狙撃師団一九、同旅団一(三)、騎兵師団一、戦車師団

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8.日本フエライト労働組合40年史

(重要次項を抜粋、父の関係と年齢を追記)
1943年(昭和18年)㈱福島電機製作所鳥取工場操業開始
1944年(昭和19年)航空機部品の生産にあたり社名を㈱福島航空電機製作所鳥取工場と改名、大型グライダーの電機部品、落下傘等軍需品を生産。
1945年(昭和20年)終戦で一次閉鎖
1946年(昭和21年)㈱福島電機製作所と改名、ラジオ用ボリューム、コイル類を生産
1948年(昭和23年)福島電機本社で、フエライトコアの開発を開始、㈱三津屋製作所と改名ダストコアを製造
1949年(昭和24年)㈱岩倉製作所に改名、フエライトコアの生産拠点とする
1952年(昭和27年)㈱福島電機製作所鳥取工場に改名
1954年(昭和29年)㈱福島電機製作所から鳥取工場を買取、フエライト工業㈱を設立
1958 年(昭和 33 年)
• 5 月 7 日(35 歳): 中国(天津)より舞鶴港へ帰国。
• 8 月 1 日(35 歳): 日本フエライト(機密技術企業)に就職。
1959 年(昭和 34 年)
• (父 36 歳): 母(木原雅子)と結婚。

1959年の父(木原操)と母(雅子)

1960 年(昭和 35 年)
• (37 歳): 労働組合 執行委員 に就任。
• (37 歳): 私が誕生。
1962 年(昭和 37 年)
• (39 歳):
• 【組合史 P.32】: 1962 年と、1964 年、父が執行委員と、委員長をする間に、会長と、社長が、あいついで死去。期を同じくして、日立金属(株)の資本参加による役員派遣で、経営サイドの構成もかわる
1963 年(昭和 38 年)
• (40 歳): 労働組合 委員長 に就任。
1965 年(昭和 40 年)
• (42 歳): 労働組合 会計監査役 に就任。
1967 年(昭和 42 年)
• (44 歳): 労働組合 委員長 に再度就任。
• 【組合史 P.31】: 1967 年、1968 年は、組合執行が不備のため具体的な取り組みについては記録されていないのが残念ですが、、、(会社が好景気で、従業員が大幅に増えた時期)、、、1967 年の委員長は、木原操氏
1970 年代(47 歳〜)
• (父): 係長、課長へ昇進。
1971 年(昭和 46 年)
• 【組合史 P.195】: 渡邉善秀氏が、7年にわたり委員長を歴任
(それまでの穏健な持ち回りではなく)。
• 【組合史 P.34】: 鳥取県金属共闘会議 が発足。
• 【組合史 P.35】: 鳥取と、日立金属(労働組合)で分担研究する方向で合意。
1972 年 9 月〜1973 年 8 月
• (49 歳〜50 歳):
• 【組合史 P.36】: 73 春闘 16 日間のストライキ貫く。規模的に見ると大闘争のイメージでありますが、、、
1977 年(昭和 52 年)
• (54 歳):
• 3 月: 【組合史 P.83】: 日本フエライトの倒産(若干年月が整合しない記載)、、、、日立金属を中心とする管財人団のもと、再建するのは私達労働者だ、という自覚をもって、、、再度、日立金属熊谷工場への特別応援の検討を余儀なくされました。
• 10 月: 【組合史 P.83】: 福田電器は日本フエライトの 40%出資会社であり、1977 年 10 月に、社長が経営を放棄し、全員解雇を言い渡して雲隠れしてしまいました。その後、破産申請を一方的に申請し、不当労働行為として地労委で係争することになりました。(※ロックアウト事件)
• 【組合史 P.84】: 日立金属労組との交流は一段と深まり、日立金属関連労働組合会議への正式加盟が大会決定された。
1978 年(昭和 53 年)
• (55 歳): 日本フエライトを課長で定年退職、関連子会社に再就職
• 9 月 30 日: 【組合史 P.85】: 再生計画案が東京地裁より認可、、、このように短期間で計画案が認可されたことは、当時においても異例であり、管財人団の努力を始め、、、
• 【組合史 P.87】: 1971 年から 7 年続いた渡邉執行委員長体制から、新委員長として桜田憲昭和氏が登場。

注)

満州時代の父の写真は残っていませんでした。タイトルの写真はネットから検索した写真です。
戦史叢書は、https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/ からダウンロードしたファイルを引用致しました。
その他は手元資料からのスキャン、引用です。

9. 遊戯三昧ー流転の翼ー

私(木原範昭)が、父(木原操)の遺品から掘り起こした謎を追うドキュメンタリー風の物語です。
AIの「アイリス」との対話形式で、歴史の断片をつなぎ合わせて「一番ありえそうな仮説」を立てていきます。

以上

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