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不確実性の科学と芸術、TEDNextのトークセッションから。(日本語訳と解釈)

若いころは、予想もしない出来事にわくわくしたもんだが、大人になるにつれて、計画性の中でしかモノゴトを進められなくなってしまった。はたしてこれは人間として成長しているのかしら。

近代化の中で、ワイらは不確実性を制御する力を高めると同時に、曖昧でいる権利を手放していたのかもしれない。未来になるほど複雑に、予想もできないおもろい出来事が待ち受けているのに、それをリスクの一言で楽しめないのは、大いに損なのである。

そんな問いのきっかけをくれたTED Talksがあったのでご紹介。いわれてみると不確実性ってどうやって向き合うねん、だと思う。


異なる分野をつなぐ「不確実性」

この動画では、量子物理学者、歴史研究者、アーティストの視点から不確実性に対する実践知を、ジャズの音楽に乗せて対話する、実験的なセッションとなっている。

残念ながら、現時点では日本語訳がないのだけど、セッションの構成がめっちゃおもろいので実際の動画をぜひ視聴してほしい。

出演者
ショヒニ・ゴーシュ(量子物理学者)
アンマ・Y・ガルティ=タゴエ・クーティン(歴史学者 / 芸術家)
デイモン・デイヴィス(アーティスト)

すべてを知ることは、原理的にできない

Shohini Ghose(量子物理学者)

ショヒニ:量子物理学において不確実性は、世界の根本的な性質だ。

車のGPSなら、現在地、速度、進行方向を同時に知ることができる。しかし、それを宇宙のあらゆる基本粒子に取り付けたとしても、その位置や運動をすべて正確に知ることはできない。これは、技術を改良すれば解決できる工学的な問題ではない。

宇宙は私たちに「すべてを知ることはできない」と伝えているのではないかと考える。不確実性は排除すべき欠陥ではなく、重力以上に根源的な、世界の成り立ちそのものなのである。

Amma Y. Ghartey-Tagoe Kootin(スカラーティスト / 歴史学者兼アーティスト)

アマ:歴史を知ろうとすることは、同時に「すべてを知ることはできない」と認めることでもある。

古い文書、楽譜、新聞などは、過去を知るための重要な資料である。しかし、それらは過去そのものではない。作成者の立場や偏見が含まれ、同じ出来事でも、見る人によって異なる記録が残る。

分からない部分を一つの答えで埋めるのではなく、不確実なまま残す。私たちが過去を調べるのは、過去を完全に復元するためではなく、現在を理解するためでもあるからだ。

Damon Davis(アーティスト)

デイモン:何を伝えたいかが分かっても、それをどのような形にすればよいかは、つくり始めるまで分からない。そのため不確実性は、創作を妨げる障害ではなく、主要な協働者である。

不確実性とは「自分一人では想像できなかった場所」へ連れていく存在だ。

新しい発明も、絵画も、映画も、まだ存在しないものを想像し、実際に形にして他者へ差し出す営みである。しかも、それを受け取った人がどう感じるかも、あらかじめ知ることはできない。

話の途中でも「TIME」で次の話にうつるシステム笑

権力者も不確実性を恐れている。

デイモン:権力者が知識を制限するのは、自分がいつ、どのように権力を失うか分からないことを恐れているからだ。

財産を多く持つ人ほど、それを失うことへの恐怖が強くなることがある。権力も同じであり、持てば持つほど、その喪失を避けようとする。その結果、歴史や知識をコントロールしようとする。

アマ:アメリカの一部の州では、奴隷制を含む特定の歴史教育が制限され、表現が書き換えられている。

歴史を消す権力は、人々に自分の過去や存在を疑わせる。それは、不確実性を意図的に作り出す行為でもある。

私自身の名前も一つのアーカイブだ。名前には、生まれた曜日、ガーナの民族的背景、父方の祖母、家族、夫の系譜が刻まれている。歴史を奪われることは、自分がどこから来たのかを知る手掛かりを奪われることでもある。

だからこそ私たちは、過去について完全には知り得ないと認めながらも、その真実にできるだけ近づこうとする権利を手放してはならない。

ショヒニ:物理学におけるpower は、一定の時間に流れるエネルギーの量を意味する。電球のワット数が光を生み出すように、アイデアにも人や社会を動かす力があり、人が考える権利を制限されることは、その人の力を奪うことでもある。(権力=powerの比喩)

天文学者セシリア・ペイン=ガポーシュキンは1920年代、宇宙の星々が主に水素とヘリウムからできていることを明らかにした。しかし、その発見は当時の常識と大きく異なっていたため否定された。

セシリア・ペイン=ガポーシュキン。天文学を一変させた女性科学者。

しかし、約100年後の現在、彼女の功績は認められ、常識として広く知れ渡っている。社会的に力を奪われても、自分のアイデアを持ち続けることには、時間を超える力がある。アイデアを持ち、それを手放さずに貫くことは、自分自身と周囲の人々に力を与えることができる。

TIME

意図的に失敗する

デイモン:不確実性を語るうえで「失敗」は避けられないものだ。
失敗を重ねることによって、少しずつ自分らしい表現が分かってくる。アーティストとしての自分は完成するものではなく、生涯にわたって変化し続ける。

アマ:失敗は怖いが、実験には不可欠だ。私たちは120年以上前の場面を再構成しようとしているため、間違いや試行錯誤を避けることはできない。

その方法の一つが、最初から完成した脚本を用意せず、俳優や共同体との協働を通して作品をつくるデバイズド・シアター(Devised Theatre)である。

開始時点では脚本がなく、あるのは参加する人々と、一定期間後に舞台を完成させるという目標だけである。失敗や間違いを意図的に受け入れ、試しながら作品の形を探っていく。

アマが披露した、デバイズド・シアター"At Buffalo"

ショヒニ:科学において失敗は研究方法そのものに組み込まれている。
古い理論に問題が見つからなければ、新しい理論をつくる理由も生まれない。科学の進歩は、既存のモデルが説明できない場所、つまり失敗点を見つけることから始まる。

わたしは、自分の理論が間違っていると証明されることを楽しみにしている。それは理論の敗北ではなく、これまで知らなかった世界へ進む入口になるから。

デイモン:失敗は、他者や後世にとっても失敗であるとは限らない。
歴史上の発見や発明には、別のものをつくろうとして失敗した結果、偶然に生まれたものがある。つまり、期待した結果にならなかったことが、新しい可能性の発見になる場合もある。

失敗を終点や敗北としてではなく、「探索」として捉え直せれば、私たちはもう少し自由に試すことができるのではないか。

TIME(終了)

人類学からみる「ネガティブ・ケイパビリティ」

ここまでのトークで共通しているのは、不確実性を思考や創造を妨げる障害ではなく、まだ知らない世界と出会うための余白として捉えていることである。

これは、他者を理解する上でも必要な姿勢であると、人類学者であり社会起業家のジョアナ・ブライデンバッハが話している。

彼女によれば、価値中立的なレンズで人間社会へアプローチするためには「判断を保留すること」が必要である。というのも、人はついつい自分の価値観で判断しがちである。つまり結論を急いでいる時は、大抵自分とか世間のバイアスから導き出された答えになりがちのだ。

結論を急がず、相反する意見や、まだ意味のわからない情報を一旦保留しておく。そうすることで、新しいパターンが現れる余白が生まれてくる。

この姿勢は、詩人のジョン・キーツが語った「ネガティブ・ケイパビリティ」とも重なり、芸術や理解が生まれるための条件として肯定した。

ネガティブ・ケイパビリティ
不確実なものを受容する能力。自分の知識や判断によって対象を支配せず、曖昧なまま受け入れる深い感受性や寛容さ。

ついでに、美術における居心地の悪さ

おまけにはなるが、最近美術の勉強も細々とはじめている。哲学者ジャック・ランシエールが言うには、芸術は「境界が揺らぐ場所」に生まれるらしい。

たとえば、見慣れない作品(とくに抽象画)を前にすると、「これは…なんや。」と思うことがよくある。この居心地の悪さは、単に作品が難しいわけではなく。自分がこれまで使ってきた判断基準では、目の前のものを整理できなくなった状態なんだそう。

マイケル・クレイグ=マーティンの “An Oak Tree” (1973)
水の入ったグラスを「これは木である」と言い切る豪快さ。

いわゆる審美眼とは、知識を増やして判断を速くするのではなく、これまで美しいと思えなかったもの、聞き取れなかった声にも反応できるようになること。居心地の悪さに耐える経験は、マイノリティの声を可視化する。

逆に、SNSは良いものだけを効率よく摂取できる = 居心地の悪さを排除する。これは快適である一方、自分の判断基準を揺らすものと出会うきっかを減らす可能性があるのかもしれない。

不確実性、あるいは可能性

不確実性は、人々を不安にさせる一方で、将来が確定していないからこそ、複数の未来を残しておける可能性でもある。先の見通しが立たない状況では、十年先の計画を一つに決めるよりも、目の前の変化を楽しみながら判断しつづけるほうが、むしろ現実的なのかもしれないね。

自分だって、もし早い段階で自分の職業や専門を一つに決め、それ以外の可能性を閉じていたら、パティシエ → デザイナー → 人類学者、みたいなおかしな人生になんてなってない。(これが正しいのかはわからん)

その時々の好奇心に従って、できることを試し、出会った人たちと仕事をしながら、進む方向を少しずつ変えてきた。一見すると一貫性のない経歴に見えるが、振り返ってみると、それぞれの場所で得た感覚や経験、人とのつながりが、今の活動につながっていると確信する。

とはいえ、不確実性はだれにとっても創造的で心地よいものでもない。資産や社会的な立場を持つ人にとって、転職や起業のような不確実性は「可能性」や「挑戦」になりうるが、生活に余裕のない人にとって、雇用や住居、医療の不確実性は、そのまま生存の危機に直結する。

貧困や差別、病気によって生まれる生活の不安定さは、個人が耐えるものではなく、社会が減らしていくべきものである。自ら選んで不確実のなかに留まること自体が、時間や安全を持つ人に許された特権になる場合もある。

結論はあくまで現段階における最適解でしかない。曖昧なことには早く結論を出すべきだという現代の常識は、むしろ理解を遠ざけてしまう行為でもある。知らないことを、知ったふうに振る舞うことも、難しいことをわかりやすく伝えることもできるけど、複雑なものは複雑なんだと、結論を急がずに、新しい世界がみえるまでじっと待つことも大切なのかもしれないね。

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