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世界を広げる3人目。

2才の息子にはともだちがいない。

保育園に行っていないし、近所の子育て支援センターにも行かない。妻にママ友はいないし私にもパパ友はいない。だから息子にとっての世界人口はだいたい2人である。

妻は息子の世界を守っている。

食べさせ、眠らせ、抱きしめ、転ばぬように見つめ、毎日ベストを尽くしている。だから、私の役割は息子の世界をすこしずつ外側へ広げることだと思っている。さっぽろテレビ塔は大きい。パルコでは知らないキャラクターのイベントが始まる。くら寿司のポテトはおいしい。地下鉄は暗い穴から突然現れる。月と太陽はどこまでもついてくる。息子になるべくいろいろなものを見せている、つもり。

けれど、どこへ行ってもそこにいるのは結局私と妻だけである。足りないものがある。

ともだちだ。

公園で知らない子どもたちが遊んでいると、息子はすこし離れた場所から見ている。「混ざりたい」とはまだ言えない。かといって帰ろうともしない。遊び方を知らない顔で、遊んでいる子どもたちを見つめ立ち尽くしている。その顔を見るたびちょっとだけ苦しくなる。

インターネットのむこうには、正解の顔をした子育て論がいくらでも並んでいる。「2才はまだ並行遊びの時期です」「無理に友だちを作る必要はありませんよ」「親子の愛着があれば十分です」どれもたぶん正しい。正しいのだろうが、その正しさは夕方の公園でよその子どもを見つめる息子の横顔までは見てくれない。


この前の週末、円山公園でキクチくんと会った。

キクチくんは高校時代の友人でおなじサッカー部だった。私だけが勝手にワンオブザ・ベストフレンズだと思っている。キクチくんが私を何フレンドだと思っているかは知らない。そういうことは確認しないほうが長持ちする。

私たちは高校1年生、15才のときに出会った。同じクラスで入学時の席がとなりだった。あいつはいつも本を読んでいて、愉快なことを静かに言った。ある日あいつが机に何かの詩を書いていたので、「それ、なに書いてるの」と聞いた。「ロビンソン。スピッツ」とあいつは言った。私はそのとき初めて、ずっと耳に残っていたあの歌が『ロビンソン』という名前なのだと知った。

曲の名前だけではない。

たとえばだれかを好きになること、フラれること、くだらないことで笑うこと、夜中まで話すこと、粋であること。

そういうものの大多数をキクチくんと一緒に覚えた。彼は私の世界を少しずつ広げた人なのである。

大学を除籍になり父に家を追い出されたときも、キクチくんは「なら3ヶ月、おれんちに居候だな」と静かに言った。彼のワンルームの床に寝袋を敷いて眠り、2週間後に仕事と家を見つけて出ていった。別れ際に手紙を渡した。

「本当にありがとう。このご恩は忘れるまで忘れない」

あいつからも「俺も忘れるまで忘れないわ」とLINEがきた。

あれからずいぶん経つが、記憶力がいいのかまだ忘れていない。


そのキクチくんの家庭にも息子が生まれた。家は近い。私の家を中心に半径500メートルのコンパスで円を描いたらスポッと収まるくらいに近い。なのに普段はほとんど会わない。


がしかし、先週末に会ったのだった。


時間を合わせ、父親2人と息子2人で円山公園を歩いた。妻たちは家にいた。キクチくんの息子をここではヘンリーと呼ぼう。息子はベビーカーのヘンリーを見つけると、すぐに顔をのぞき込んだ。手をさわり、頬をさわり、帽子のつばをなんども点検し、覚えたての言葉で一生懸命話しかけた。ヘンリーは生まれてからまだ何も悪いことをしていない人の顔で、静かにベビーカーにころがっていた。

遠くに犬を見つけた。息子は「あっち、あっち」と言い、犬を指さし、次にキクチくんとヘンリーを指さした。あっちに犬がいる。一緒に行こう。そう言っていたのだと思える。

円山公園には夏だけ水が流れるごくちいさな広場がある。札幌の短い夏にだけひらく、子ども用の浅い海である。

息子は水に入り、岸にいるキクチくんを手招きした。次にベビーカーのヘンリーも呼んだ。「あっちあっち」きみも入れと何度もゆびさした。しかしヘンリー0才にはまだ難しい。息子はそんな事情を知らない。来ればいいのに、という顔で何度も呼んだ。

普段の息子は公園でおなじくらいの子どもを見つけてもこうはならない。すべり台に子どもがいれば順番が空くまで待ち、砂場に子どもがいればすこし離れた場所でしゃがむ。向こうから近づいてきても、なんとなくお互いを見て、それぞれの親に連れられ終わる。道ですれちがう子どもは、息子の世界を数秒だけ横切る通行人であるから名前を知ることもない。

つまり5分以上同じ空間で過ごす同年代の子どもが息子の日常にはいない。

だからその日の30分は長かった。

息子にとっては、たぶん初めてだれかと過ごした時間らしい時間だった。キクチくんがベビーカーを押せばトコトコついていき、止まればのぞき込み、帽子がずれていないかなんども確かめる。自分が見つけた犬をおしえ、自分がはいった水へ誘う。自分が見つけた楽しいものを、嬉々として、初めて私と妻以外のだれかに渡そうとしていた。


ともだちがほしかったんだ、と思った。


大人の勝手な解釈である。赤ちゃんが珍しかっただけかもしれない。それでも、2才息子のちいさな世界に、はじめて知らないだれかが入ってきたのを私は見た。


30分ほど遊び、帰ることになった。

もっと遊ばせればよかったと思う。1時間でも2時間でも。けれど、私には私の生活があり、キクチくんにはキクチくんの生活がある。向こうの奥さんも待っている。ヘンリーにも眠る時間がある。もうすこし一緒にいよう、と言ってもキクチくんはイヤな顔をするような男ではない。

言えなかった。

小さなころ、私は田舎に住んでいた。近所の幼なじみがよく家に遊びにきて、外で焼肉をし、夜遅くまで一緒にいた。帰る空気になるたび私は「泊まればいい」と言った。幼なじみのお母さんもしょっちゅう家にきて、私の母と話していた。けれどある日、母がほんの少しだけ嫌そうな顔をしたのを私は見逃さなかった。

母はあのおばさんが好きではないのかもしれない。

子どもの私はそう思った。大人になった今なら好き嫌いだけではなかったのだとわかる。

夕食の時間、風呂の時間、明日の予定、気疲れ、断れなさ。

子どもには見えない大人の生活がそこにあるのだ。

「息子を長く遊ばせたい」と思いながら、キクチくんはどう思っているだろう、と考えてしまう。そんな間柄ではないのに。親同士仲が良くても、子ども同士をどこまで一緒にいさせるかはまた別の話なのである。

「じゃあね」と言い、息子を抱き上げた瞬間、息子の顔が大雨の崖のように崩れた。

最近覚えたばかりの「イヤ」を息子は全身全霊で言った。

「イヤ。イヤ。イヤ。イヤ。ヒーーーーーン」

眉間にしわを寄せ、口を四角く開き、顔を真っ赤にして大粒の涙を流した。私の腕から身を乗り出し、ヘンリーに手を伸ばし指先が空をつかむ。

「イヤ。イヤ。イヤ。イヤ」

ちいかわのようだった。まだ語彙がすくないから、その2文字に感情全てを詰めているような。

帰りたくない。もっと触りたい。まだ一緒にいたい。せっかく会えたのに。

大人の解釈。たぶん、そういうことを全部「イヤイヤ」で言っていた。キクチくんは困った顔で立っている。ヘンリーはベビーカーで知らん顔している。

「もう行くよ」と息子を抱えて歩き始めた。20メートルほど進むと息子はさらに激しく泣いた。息を吸うことも忘れたように喉を震わせ「イヤイヤ」と繰り返した。最近覚えたその言葉を一生懸命使っている感じ。泣けば思いどおりになると試している泣き方でもない感じ。

自分の中に突然現れたさみしさをどうしたらいいのかわからない人の泣き方。

心が痛い。

ごめんねと思う。もっとともだちがほしいよね、と思う。

あまりにかわいそうなのでキクチくんのところへ「さみしいらしい(笑)」と20メートル戻った。

キクチくんはほほえみ、息子はもう1度ヘンリーの手に触れる。すぐに泣き止んだ。涙で濡れた頬、そのままに手を伸ばす。

「もう少ししたら行くよ」と言うとまた「イヤ」と言った。埒があかないのである。息子を抱え、そして走った。誘拐犯のようなダッシュで。

息子は大泣きしながら、遠ざかるキクチくんとヘンリーに手をふった。泣いているのにちゃんと手をふった。そこがまたかわいそうな。

帰り道、私は「ごめんね。かわいそうなことしたね。えらかったね。なんでもおもちゃ買うよ」と言った。親として弱っているときに発表される、よくない施策。「ヘンリーとまだいたかったの?」と聞くと息子はしゃくり上げながらまた「イヤ。イヤ」と覚えたての言語で言った。


正解の発表されない試験を毎日受けているようなところがある。子育ては。



ともだちは無理に作らなくていい。ひとりで遊べることも大切。保育園や幼稚園、小学校へ行けば、ともだちは加速度的に増える。

けれど、それまでの息子の世界を私と妻だけで埋めてしまっていいのかがよくわからない。

妻が息子の世界を守るなら、私はその世界を広げてやりたい。さっぽろテレビ塔も、地下鉄も、月も太陽も見せたい。思う存分。世界は景色でできている、と教えている感じ。けれど世界は景色だけではなく、だれかと出会うことで広がるということを忘れているような。

私は15才でキクチくんに会い、あの歌の名前を知った。恋愛を知った。つまり友だちを知った。さらには家を失っても助けてくれる人がいると知った。

息子は2才でヘンリーと出会い、俺たち以外に「あっち」と言うことを知り、いっしょに行こうと誘うことを知り、別れたくなければ泣くことを知った。2人がこの先本当にともだちになるかどうかを私は知らない。

親同士仲良しだからといって、子どもまで仲良くなる義理・義務はない。この円山公園のこともたぶん2人とも忘れる。

それでもその日、息子の世界には私と妻ではないだれかがいた。息子はそのだれかに触れ、一緒に犬を見ようと誘い、水の中へ呼び、いなくなることを嫌がった。

それだけで息子の世界はすこし広がった。今週末もヘンリーたちと会うことになっている。今度はもうすこし長くいようかしらと思う。

1時間になるか、2時間になるかはわからない。

大人の生活は子どもの願いほどまっすぐではない。それでも息子が「あっち」と指をさしたら次はなるべく好きにさせてやりたい。

息子の世界を広げる3人目。それがあいつの子どもでよかったよ。


〈あとがき〉
みなさま、それぞれの人生におかれての日々の生活おつかれさまです。うちの息子は日々すこしずつ大きく育っていまして、平日はなかなかですが週末になると24時間ずっと一緒にいる感じですよ。生活に忙殺されて幼稚園がどうとか、子どもの発達がどうとかはなんやかんやおざなりになってしまうのですが、そういうベタなことに悩む日々を送っています。可能な方はぜひアドバイスをくださいね。今日も最後までありがとうございました。

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