ほしい言葉がない文章。
文章を書いていると、「ほしい言葉」が透けて見えることがある。
たとえば、頭がよく見られたい文章、家族仲がいいと思われたい文章、いい人に思われたい文章。どれも一読すれば意図は伝わる。「ほしい言葉」があるからだ。
「すごいですね」「素敵なご家庭ですね」「そんなふうに考えられるなんて尊敬します」——そういった言葉をもらうために、文章は巧妙に編まれる。それ自体が悪いわけではない。人は他者の評価なしには生きられないし、言葉とは本来、何かを伝え、何かを受け取るためにある。
しかし、それがあまりに露骨だと、読んでいる側は次第に興ざめしてくる。承認欲を満たすための文章というのは読者にバレるわけだ。
一方ごくまれに、「ほしい言葉がない文章」に出会うことがある。読者から何かを引き出そうとする気配がない。感想を求めるでもなく、共感を誘うでもなく、ただそこに言葉が置かれている。ケレン味のない言葉たち。こういう文章には独特の透明感がある。
たとえば、雨の降る音について書かれた文章。あるいは、駅のベンチでひとり佇む老人の姿を淡々と描いた文章。父母について思っていることをとつとつと語る文章。そこには「ほしい言葉」がない。ただ、書き手が何かを見つめ、それをそのまま差し出しているだけ。だからこそ美しい。
この種の文章を書くのは難しい。人はどうしても、誰かの反応を気にしてしまう。「すごい」と言われたい、「おもしろい」と思われたい、「共感した」と伝えてほしい。そういった期待を完全に手放すのは不可能に近い。だが、ごくわずかでもその執着を減らせたなら、文章は少し変わるかもしれない。
本当に伝えたいことだけを、ただそこに置く。評価も、反応も、賞賛も期待せずに。ただ書く。それができる人は、すごい。

〈あとがき〉
その域にはいない気がします、私は。何か役に立つことを書いてやろう、笑わせてやろう、共感を集めてやろう、ほしい言葉がある文章ばかりを書いている気が。だから、ほしい言葉がない文章を書きたいなって思ってて、たまにチャレンジするんですけど、これがなかなか難しい。修行ですね。今日も最後までありがとうございました。
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