血道 第一部 ある恋の顛末②
令和三年六月 W大学図書館
光里との初対面は恐らく学食に忘れた傘を、届けるために追いかけてくれた日に違いない。
でも、光里と親しくなったのは、別にきっかけがあった。
特別な接点になったのは、図書館だった。
一年次は必修が多く、一限目から学校にいることがほとんどだ。けれども、時間割に穴がぽこんぽこんと空くことも多く、空いた時間を潰す友人がいない時、わたしは大抵、図書館で過ごした。
元々、本は好きだった。読書家と言われる部類の人間だったが、どうしてか、ずっと図書館を倦厭していた。
その理由に気付いたのは、この図書館に足を踏み入れてしばらくしてからだった。元々、図書館から本を借りても、図書館に長居した経験はなかった。
なのに、大学の図書館では、授業の時間を潰すという名目があったとはいっても、かなり長い時間を図書館で過ごすことが出来た。
理由は恐らく、光だ。
元々住んでいた地方の図書館は古く、多くの書架は日の当たらないフロアでスチールラックに積まれていた。いつもひんやりとして、古書独特の匂いがする。古びた床や天井がどことなく陰鬱としていて、気味が悪かった。歩くたびに鳴るリノリウムの音も、陰鬱さを引き立てる。ただ、それをおかしいと感じていなかった。学校の図書室以外の図書館を、そこしか知らなかったから。
なので、他の図書館も似たようなものだと思い込んでいたし、遠くの図書館に行きたいという欲求が沸かなかった。
大学の図書館で、カルチャーショックを受けたといっても過言ではなかった。
大学の図書館は四階建てのもので、茨城の小さな街から出てきたわたしからすれば破格の大きさの図書館だった。
ずらりと並ぶ書架をはじめて見た時は興奮したし、学生証をゲートで読み込ませて入場するのにも感動した。
大学の図書館は、明るい。閲覧席を集めた東南側の閲覧ブースは、一階から四階まですべて一面ガラス張りだ。
書架のところは壁があったものの、閲覧席からの採光で暗い印象はなかった。
それが、わたしにとっては本当に大事なことだった。
図書館が苦手な理由を、人の手に渡った本だから嫌なのかと思っていた。
だが、違った。
あの地元の図書館の雰囲気、それが苦手で避けていたのだ。
明るく閉塞感のない大学の図書館はわたしのお城になった。
書架のなかを意味もなくうろうろ歩くのも好きだ。本の背表紙を眺めて、気になった本を手に取って読んだりもした。
その時は、学期末のレポート課題のために資料を探しに来ていた。私はまっすぐと書架の中に入り、その関連領域の本の背表紙をまじまじと見る。
いくつかの本をピックアップしていた時、ふっと最上段の本が目に留まった。
わたしは背が低い。平均よりも低めだ。
ほとんど天井に近いその木製の書架の上二段は背伸びをしても届かなかった。
各フロアにいくつかある踏み台を持ってくるしかないのだが、既に四、五冊手にしていたので、わざわざ探しに行くのが億劫だった。
きょろきょろとあたりを見渡して誰もいないことを確かめると、足もとにリュックと本を置いた。そして、棚板に足をかけて反動をつけて飛び上がった。
今日、スカートじゃなくてよかった―――よし、届く。
指先が背表紙のかかりそうになった時、横から手が伸びてきた。きょとんと見ていると、相手はそれをスムーズに抜き取る。
まずい。
横取りされたと腹が立ったが、それ以上にまずい、と咄嗟に感じた。
書架を登っているところを見られた、という動揺があった。
まずい、早く逃げないと、なんて申し開きをしていいか分からない。
顔を上げることが出来ずに、床の荷物を掻き抱いて逃げようと踵を返した。
「中野さん」
名前を呼ばれて足が止まる。
その声の響きを、わたしは知っている。ごくりと喉が鳴った。
「大山くん」
やっぱり。
振り向くとそこにいたのは、大山光里だった。驚いて目を丸めたわたしに、彼はクスリと笑った。
その他大勢としてではなく、中野新苗への笑顔。
その笑顔に、きゅうと胸の奥が鳴る。
「せめて、靴は脱ぎなよ」
動かないわたしの手を取って、その手に本を載せてくれた。
真っ白い手は、イメージと違ってとても温かかった
それから、時々、光里と図書館で顔を合わせるようになった。
たいだい、専門書の書架の決まったあたりで、ふたりきり。
「中野さんはよく図書館にいるね、本が好きなの?」
わたしがひとりで書架の中をふらふらと歩いている時、向こうからやってきた光里が優しく声をかけてくれる。
わたしはどう答えていいか分からず、ただ頷いた。
「あ、ごめん、図書館だもんね、静かにしないとか」
わたしの沈黙を、そうとってくれた。その上に、小声で話す距離にまで近づいてくれる。拳ひとつ程度の距離に。
異性とこんな距離に立ったことはない。一斉に体中の毛穴が開いたような、そんな感覚がした。
化粧っ気のない自分を恨む。光里のような人のそばに立つのに、こんなに地味な自分が恥ずかしい。
光里はそんなことで判断しない、そんな信念じみた気持ちがあるのに、どうしても気になった。
「中野さんって、俺と同じ学科だよね。心理」
「あ、うん……一応」
「心理学科って思った以上に必修多くてびっくりしたね」
「そうだね。でも、わたしは哲学多めに取ってるから、大山くんたちみたいに臨床の人よりは楽だと思う」
わたしが通う大学には、心理学科の中に大きくふたつの専攻がある。
臨床心理学と、社会心理学だ。主に臨床心理士を目指す人は一年次から臨床心理の科目を多くとるし、わたしのような哲学や社会学に興味のあるタイプは、現場よりも概論などの講義を受ける。
彼とは、心理学概論や、心理英語などの基礎的な科目では一緒だけれど、多くの科目は被っていない。
向こうは教職課程を取っていると聞いているから、なおさらだ。
「教職、大変でしょ? 心理の必修と被ってるの結構あるよね」
「まあ、でも、分かっててとった講義だし、学費も親に出してもらってるんだから、ちゃんとしたいしね」
意外、と言ったら彼に失礼だろうか。
わたしたちの通う大学は、受験に苦労する。だからなのか、受験から解放されてようやく入学したあと、がくりと成績を落としたり、遊びまわったりする学生も少なくはない。
大山光里ほど華やかな人なら、勉強より楽しいことがいくらでもありそうなのに。
「俺さ、代返とか頼むやつ嫌いなんだよね」
「……わたしも……」
「あ、そうなんだ、気が合うね」
「け、結構嫌だって人……多いんじゃないかな」
「そうかなぁ、俺の周りが不真面目なのか、代返も平気で頼むし、自分で参考文献探すやつ、少ないんだよ。先輩に聞いたり、レポート見せてもらったりしてさ、それも方法だって分かってるけど、つまんなくないかなぁ」
「……結構、図書館にいると顔を合わせる人、決まってくるなぁって感じてる」
閲覧ブースの中にはいくつか、ひとりがけのソファがある。そこに光里は腰かけて、ひとりでページをめくっていた。
大学の図書館には三種類の人種がいる。本が好きで来ているタイプと、勉強をしているタイプ、時間を潰すためにきているタイプだ。
そして、最後を除くと、顔を合わせる学生というものはそこまで多くない。なんとなく、何度も見かける学生は目につくようになった。
彼らは、大抵自分の場所を決めている。わたしも、最上階の隅の方に座る。
時間を潰すタイプは、二階にある長机の並んだ一番広い閲覧ブースにいることが多く、少しだけ騒がしいので、本好きの常連たちは自然と三階以上に集まるのだ。
光里もそのひとりだった。
彼はいつも、三階のソファにいた。わたしは見かける度声をかけるか悩むものの、結局なにも言えずに通り過ぎていた。
「そうだね、確かに、顔を合わせる人は決まってきたかもね」
そこで言葉を止めて、光里はわたしを見た。月の光のように穏やかな目を細めて。
「俺が一番図書館で会うのは、中野さんだな」
「そ……そうなんだ……」
返事がまごついてしまう。
人付き合いの下手さや、男慣れしていないところを見せてしまうのは、正直恥ずかしい。同級生なのだからと、敬語を使わないように努力しているものの、敬語を使わないということが、かえってわたしを緊張させた。
自意識過剰かもしれないが、生意気だと思われているのではないか、逆に、特別な位置に置いてもらえてるのではないか。そんな考えがぐるぐるとひとりでに回り始める。
わたしにとって、この光里と過ごす一時は特別なものだった。
台無しにしたくはないのに、緊張して身構えてしまう。
光里はそんなわたしの、まごまごとした態度を気にせず、話しかけてくれる。
「よくここら辺にいるけど、学術書が好き?」
この時、わたしは民俗学の書架にいた。
くるりと周りの棚を見渡して頷いた。
世界中の神話や民話、それに幽霊から妖怪まで。ハードカバーの背表紙には、様々な文言がおどっている。
遊園地のようだ、メリーゴーラウンド。
「学術書、最近読むようになって、すごく楽しいの。元々はそんなに図書館にはいかなかったから」
「へえ、意外。いつも本を読んでるから、昔から図書館によく行ってるんだと思ってた」
「本は好きだよ。割となんでも読む」
確かに、わたしはいつも本を持ち歩いている。私物の時もあれば、大学図書館から借りたものの時もある。
それを、光里は見ていてくれたのだ。
嬉しい。嬉しいが、同時に、態度はおかしくないかな……とも、思う。
浮かれすぎてはいないだろうか。顔は赤くないだろうか、汗をかいていないだろうか。
「大山くんは? 普段はどんな本を読んでるの?」
「俺は、課題とかに必要じゃないと学術書も実用書も読まないなぁ……、もっぱら小説かな」
「ソファで読んでるの、たまに見るけど、それも小説?」
光里はわたしの言葉に、くすりと笑った。
「声かければいいのに」
「邪魔しちゃ悪いかなって思って……」
「僕はいつも声かけちゃうけど、邪魔?」
「あ、いえ、そういうわけじゃ」
「なんで敬語?」
笑いながら、光里が顔を近づけた。
わたしは、思わず一歩あとじさり、ごくりと息を飲んだ。
慌てるわたしにそれ以上何も言わず、背表紙を指でなぞりながら、光里が歩きはじめた。
指は思いのほか無骨で、そして荒れていた。
妙にドキリとして、目を逸らす。細い細いと言われていたけれど、黒いTシャツから覗く腕は筋肉質だった。
女性的に整った光里の印象から、その手だけが浮いて見える。
「実家に本棚がなくて、学校の図書室の本ばっかりだったから、嬉しくて」
「本棚なかったんだ?」
「みんなそんなものだと思ってたよ、うち、親が読まなくって、本」
わたしの言葉は、なんだか言い訳じみている。
「それなのに、こんなに読書家になったんだ、すごいね」
わたしが育った家はどこにも本棚がなかった。
実家では置き場所もなくて、お気に入りの本を学習机のラックに並べることが精々だったので、一人暮らしの家具選びでは、本棚に時間を割いて、納得できるものを探した。
「友だちとかは、お母さんが本が好きだったみたいな話をするから、本当にうらやましくて。大山くんも親御さんからの影響?」
「そうだね、大きな本棚があって、母さんが本好きだった。児童文学が好きで海外のものも、日本のものもあったな」
民俗学の書架から、通りを挟んだ経済学の書架に移った。この辺りの書架は、わたしは散歩していても通り過ぎてしまうくらい興味がない。
光里は本から手を離していた。
「中野さんは、きょうだいいる?」
「お兄ちゃんがひとりだけ」
「そっか。俺も姉がひとり。お互い末っ子だ」
光里はゆっくりと歩いている。その後をわたしも歩く。
「姉さんも本が好きで、よく読んでくれたのを覚えてる。絵本がたくさんあったな」
「いいなぁ、うち、分厚いタウンページみたいな昔話の本しか覚えてない」
「なにそれ?」
「知らない? 笑える話とか、怖い話とか、いくつか種類に分けられてて。怖い話好きだったなぁ、舟幽霊とか、八百比丘尼とか」
はは、と彼は軽やかに笑った。
大山光里は、どこか哲学者のような偏屈さと、陰鬱さがあった。垢ぬけていたし、同級生の男性の中では飛びぬけて落ち着いていたけれど、線が細い。
そして、どこかにいつでも行ってしまいそうな、そんな存在の儚さがあった。
「そういうのが好きだったんだ」
「大山くんは?」
「児童文学、よく読んでたなぁ、モモも姉さんが読んでくれた」
「いいなぁ、わたし、そういう児童文学ちゃんと読んだことないかも。本を読むようになったのは十歳くらいからだし……おすすめ教えてくれる? 今日借りて帰ってみる」
「いいよ、じゃあ、何がいいかな」
わたしは光里と連れ立って、小説の書架に向かった。光里は穏やかに微笑みながら、子供のころの思い出の本をいくつかピックアップして、わたしに渡す。
名前は知っている、有名な児童書が並ぶ。
光里は今まで見た中で──いいや、わたしが知っている中で──恐らく一番、穏やかそうに笑っていた。
