血道 第二部 みえざるもの③
樹音が猛スピードで運転したおかげで、事務所に戻った時には、香菜子とふたりでグロッキーになっていた。
ひょろっとしている体格からは想像できない逞しさで、樹音は両脇に香菜子と光里を抱えて、十階にある部屋につれていった。
「大丈夫~?」
樹音はリビングのソファに、香菜子と光里がそれぞれ座らせる。
ほぼほぼ座面に転がっている状態の香菜子に、樹音がこまごまと世話を焼く。おでこに冷却シールを貼り、冷たい水を差し出し、丸まっている背中を撫でる。
(……俺のせい、なんだろうな……)
光里は、まだ地面が揺れているかのような錯覚の中でひとりごちた。
香菜子は、中野新苗のアパートに辿り着く前に、「戻る」と言った。
理由は簡単だ、考えなくても分かる。
見えたのだ。
何の変哲もないように見えたあの道が、いや、あの道の先が、香菜子の目にはしっかりと見えていた。樹音にも、光里にも見えない『何か』が。
それは、やはりあるのだ。姉を騙った何かが、あのアパートに。
「……ごめんなさい……香菜子先輩」
「気にしないで」
答えたのは樹音だった。彼はのんびりと笑っている。
「大丈夫、香菜ちゃんはもう少ししたら、回復するから」
「でも……」
「おれたちが連れて行けって言ったんだし、香菜ちゃんは自分の限界を知っている子だから、君が責任を感じることはないよ。これは、香菜ちゃんの問題だ」
微笑んではいるが、樹音の内心は全く見えない。
当の香菜子がほぼ気絶している状態だったので、光里はそれ以上口を開くことはできなかった。
光里だって、あの電話で感じたと思った超常的な何かを、普段から意識しているわけではない。
だが、あの時ははっきりと『何か』が起きていると理解し、体感した。
何が起きているのだろう。自分のいる場所がわからなくなる。実際にいる場所ではなく、人生の立ち位置のようなもの。
自分はこういう人間だと思って作り上げてきたもの。
光里は自分の手を見た、その手には何も持っていなかった。
緊張状態のまま、長くはいられない。気が付けば、安心しきったのか、光里も眠ってしまっていた。
夢は見ず、泥のように眠った。こんなに深く眠ったのはいつぶりだろうか。そのくらい深く眠っていた。
再び目が覚めた時、香菜子は顔色が悪いものの、既に起きていた。
「大丈夫? 大山」
「香菜子先輩こそ……」
「あたしはそこそこ。まぁ、思ったよりもパンチがあったけど、樹音くん連れてって正解だった……」
香菜子の弱々しい笑顔の横で、樹音は真顔でピースして言う。
「じゃあ、おれからのお願い。中野新苗を助けるためにも、お姉さんを退院させてほしい」
「え……?」
「香菜ちゃんと話したけど、中野さんのアパートにいた『怪異』は君に気づいた」
君に気づいた。
樹音の淡々とした言葉に、光里はぞぉっと寒気を覚えた。
香菜子はぼそぼそと呟く。
「うん。アパートの前だと思うけど、すごく黒いモヤがかかってたの。車が近づくと、急に輪郭がはっきりして、そして、こっちに気付いたみたいだった、目が合った、はっきりと──あれは、大山を待ってた」
「どうして……俺を?」
「さぁ。でも、お姉さんが関係してるのは間違いないでしょ? お姉さんを守るためにもできるだけ、閉じ込めておかなくちゃ」
香菜子の閉じ込めておくという言葉に、思わず光里の肩がびくりと揺れた。
光里は座敷牢から出して、精神病院に入院させた。姉を救うためとはいえ、誰にも入院を告げていないのだから、これもひとつの監禁だ。
だというのに、これ以上、どこに閉じ込めるのか。
「……入院してますよ」
せめてもの抵抗を見せた光里に、ふっと樹音は苦笑を浮かべた。
「君、アパートから人をひとり消せるモノが、病院からお姉さんを連れ出せないと、本当に思うの?」
樹音の言葉が、重い。
「まぁ、とにかくは、もう少し話を聞きたい、大山のいとこ……だっけ? お姉さんを救い出す協力をしてくれたのは。その人たちの話を聞きに行ける?」
香菜子が優しく、うなだれた光里に尋ねた。
──大山くん
中野新苗の、控えめな笑顔が蘇った。
図書館のなか、たくさんの本に隠れるようにして会っていたあの子。
──大山くん
光里は目を伏せた。闇が訪れる。
本当に『なにか』が起きているのなら、それは、光里の思うような対処で、どうにかできるはずがない。
──大山くん
光里は彼女を守る、つもりだったのだから。
──光里、お姉ちゃんは大丈夫だから、自分のしたいことをしなさい。
姉はどうして、そんなことを光里に言い続けてくれたのだろう。
