血道 第一部 ある恋の顛末③
令和三年 十二月上旬 W大学図書館
光里とは特別深い交流が続いたわけではなかった。
時折、以前と同じようにメッセージが来て、おすすめの本や映画、新しくはじまったドラマの感想を教えてくれて、わたしも同じように返事をする。
冬休みの前、休業中の課題を出されて慌てて資料を探しに行った時、久々に光里がいつものソファに腰かけているのを見た。
珍しく居眠りをしている。膝の上に開かれた本が置かれ、本を持っていたであろう指先は外れかかっていた。
声をかけるつもりはなかった。
痩せた白い頬が妙に不憫に見えるものの、寝顔は普段より幼かった。まつげが思いのほか長く、伏せられていても綺麗にカールしている。羨ましいほどだった。
遠巻きに眺めていると、指から、本が外れた。するりと、膝の上を滑り落ちていく。
あ、と思って駆け寄るのと、本が床に落ちたのは同じくらいだった。
衝撃で目を覚ましたらしい光里がゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした黒い瞳がわたしを見ると、ふっと微笑んだのだ。
わたしは動けなくなった。
特段気にした様子もなく、光里は足元に落ちた本を拾って、埃を払う。
「よかった、ページ折れてないや」
動かないでいるのも、何もなかったことにして立ち去るのもおかしい。わたしはそろそろと光里のところに歩み寄った。
「久しぶりだね、図書館で会うのは」
「そうだね」
「冬休み中の本を借りに?」
「ううん、課題の本。大山くんは?」
「次のコマまで、時間潰してるだけ」
ソファに座ったままの光里を見るのは、なんだか新鮮だった。いつも見上げてばかりで、背を追っているか、横顔を見ていることが多かった。
「――おすすめの本、なにかあるかな? 冬休み中に読むつもり」
わたしは自然とそう尋ねた。
嬉しそうに目尻を下げて光里が立ち上がる。
「中野さんが好きそうな本があるよ」
笑いながら、光里が書架に歩き出す。
その背中を見ていたら、急に鼻の奥が熱くなって、視界が潤んだ。
――そうか。
わたしはぎゅうと拳を握りしめた。
光里は歩いて行く。窓から差し込んだ冬の太陽の角度の低い光に照らされながら。黒いケーブル編みのセーターから伸びた首の白さが。きらきら光を受ける産毛が。
泣きそうだった。
この人がわたしに心を許してくれることが嬉しかった。
こんな簡単なことにも気づけなかった。
わたしは必死で泣くことだけは堪えていた。迷惑をかけたくなかった。
胸が苦しい。息がうまく出来ない。今まで、自分はどうやってこの人の後ろを歩いて書架の中で過ごしていたのか分からない。
手の甲に涙が一粒だけ当たって、砕けた。
泣くな。
泣くな。
ついに足を止めてしまったわたしを、光里が振り返った。
「中野さん?」
不思議そうに呼びかけられる。
ばぁっと零れる涙を、もう止めることは出来なかった。
光里が戸惑いながら伸ばす手を見た瞬間に、脱兎のごとく逃げ出した。階段を駆け下りて、司書や学生たちのぎょっとした視線を受けながらも図書館から飛び出した。
「馬鹿みたい……」
近くの木に抱きつくように寄りかかって、ずるずると座り込んだ。
「馬鹿みたい」
光里のことが、好きだった。恐らく、今でも好きなのだ。
その自覚がなにより一等つらかった。
その日の夜、雪が降った。
すぐに止んでしまったけれど、泣き疲れて見たその雪がはらはらと舞うのが、とても綺麗だったことを忘れたくはなくて、わたしは適当なノートに走り書きをした。
光里からのメッセージには、返事が出来なかった。
その日から、わたしは光里を避けた。避けるしかなかった。
大山光里が特別な存在だとは、ずっと分かっていたくせに、実際にそれが『恋愛感情』だと気づいた途端、わたしは怖気づいたのだ。
わたしの感情が体に追いつかない。
そんな中、避けられない出来事が起きた。ゼミの飲み会だ。欠席することもできるのはできるが、あまりにも不自然だ。
飲み会の間、わたしは隅に座り、比較的親しい子と飲んでやり過ごした。
なんとかそのまま帰れそうだと、胸をなでおろした時、
「どうする、二次会、中野行くか?」
ゼミ長にそう話しかけられて、わたしは反射的に首を振った。
「今日はこれで失礼します」
「ああ、そう?」
「明日実家に帰るので……すみません」
咄嗟に嘘をついた。
ゼミ長は強引に引き留めることもなく、「地方だっけ、気を付けて帰れよ」と他のメンバーを集めた。同期たちには先に話していたので、わたしは隅で話がまとまるのを待っていた。
どうやらほとんど全員が移動するようだった。
「じゃあ、失礼します」
近くの居酒屋に移動するゼミの仲間に頭を下げると、わたしは歩きはじめた。
ゼミで食事をするときは大学近くのファミリーレストランが会場になることが多かった。そのレストランから、学生御用達の安くてうまい居酒屋は大学方面に戻る形になるので、駅に戻ろうとすると逆方向になるのだ。
パシンと、手首を取られた。
「中野さん、俺も行くよ」
掴まれた手が一気に熱を帯びた。振り向くと、光里が挨拶しているところだった。
「じゃあな」
「気をつけろよー」
すぐに手は離されたけれど、心臓がバクバクとうるさい。
ずっと避けていたことを、もしもつっこまれたらどうしよう。うまくごまかせるだろうか。
わたしはおずおずと、光里に尋ねる。
「大山くん、二次会、いいの?」
「元々行ったことないんだ」
「そうなんだ」
意外だった。
光里はこういう飲み会によく顔も出していたし、先輩たちのウケもいい。
「暗いし、俺の家も駅の方向だから、送るよ」
「そんな……」
同じ方向なのに断るのはおかしいかもしれない、淡い期待と困惑がぐちゃぐちゃになって押し寄せてきた。
わたしは浮かれそうな心をなんとか落ち着けながら、光里の横を歩く。
感じる体温を、必死で無視しながら。
光里と打ち上げで出た話の続きをしながら話していると、鼻先に雨を感じる。
「あれ?」
手を差し出すと、手のひらにぼつん、と大きな雨粒が当たった。
「うそ、雨……」
「本当だ……、予報晴れだったのに」
一粒落ちてくると、そこから一気に雨脚は強まった。バツバツバツと大きな音を立てて落ちてきた雨粒は痛いくらいだ。
「中野さん、走れる? 駅より家が近いから、雨宿りして」
「え」
「走ろう。濡れるから」
カバンを頭の上に傘代わりにかざした光里は、片手でわたしの腕を掴んで走り出した。
光里のアパートにつくころには、コートは濡れていた。
ロビーに飛び込んだ時には完全に息が上がっていて、膝に手をついてはぁはぁと肩で息をする。
光里の手が離れ、ふたりの体の間に、強い風が吹いていく。
「大丈夫? 部屋二階だから」
「え、でも、ここで大丈夫」
「何言ってるの。濡れてるし、冷えるよ。雨も酷くなるし、もう少し小降りになるまでは」
確かに、どんどん雨脚は強くなるばかりだ。雲も黒く低く、中々止みそうにない。
「じゃあ……、お言葉に甘えます」
築浅なのだろう、ロビーも階段も綺麗だったし、手入れが行き届いていた。ゴミもなく、隅の方まで掃除されている。
「綺麗なところだね」
「うん。俺も内見ですぐに決めた」
四階建てで各階に五戸ずつあるアパートだ。共通通路には雨が吹きこんでくるものの、濡れることはない。
急な荒天に辺りは一気に暗くなったが、廊下は蛍光灯の光で明るい。
通された光里の部屋は二階の角部屋だった。よくあるワンルームで、入ってすぐにキッチンがある。奥にロフト付の居室があった。
「散らかってるけど、どうぞ」
居室の電気をつけながら、光里が声をかけた。靴を脱いで上がる。ブーツを履いてきてよかった。おかげで足元は濡れていない。
「おじゃまします」
そろそろと上がる。
光里は散らかっていると言っていたものの、真っ先に感じたものは「物がない」ということだった。
こたつと、本の入ったふたつほどのカラーボックス、テレビ台。本当にそのくらいしか家具がない。散らかりようもないだろう。確かに床にいくつかのテキストやチラシ類があったけれど、それくらいだ。
わたしの家とは大違いだ。子どものころから持っているものが多くて、ごちゃごちゃとしている。
クローゼットからタオルを取り出すと、立ち尽くしていたわたしの頭をすっぽりと覆い隠すようにかけた。
「わっ」
「はは」
タオルを取り払うと、光里が笑いながら自分でも髪を拭いていた。
「座ってて、お茶淹れるね」
「あ、はい」
避けていたことが嘘のように、あまりに自然だった。
首にタオルを掛けてキッチンで電気ケトルをいじる光里を眺めながら、わたしはこたつの近くに腰を下ろした。
不自然にならない程度に部屋の中を見渡すと、テレビの上に壁時計と一緒に一つの額縁が飾られていた。
額縁には一枚の写真が飾られている。
古い家と坪山の花がおさめられた写真だ。
「前、行ったことあるよね。俺の実家だよ」
突然声をかけられて驚いた。
まじまじと見ていると、マグカップを手にした光里が戻ってきていた。
マグカップを手渡される。受け取ると手のひらからじわりと熱が広がり、冷えていたのだと気づいた。
「大山くんが撮った写真?」
「……父がね。写真が好きだったから」
「そうだったんだ」
父。はじめて出てきた。思い返してみれば、彼との会話の中に、父親の話はずっとなかった。
「家中たくさん写真飾ってたよ。その中の一枚」
実家の写真を飾るだろうか。少し違和感を覚えた。
「父が生前に撮った、最後の写真なんだ。
「えっ」
思わず声を上げると、光里は微笑んでいた。
「そうか、そこまで話してなかったね」
言葉が出ない。
こたつがじわじわと温かくなるというのに、体は冷えていく心地がした。
その時、わたしはどんな表情をしていたのかは分からない。反応しないように努めたつもりだったが、うまくはいっていない気がした。
こちらを見てくる光里の目を見ることも出来ない。
どうして私にそんな話をするのだろう。その困惑がぐるぐると駆け巡った。マグカップをテーブルに戻そうとして派手な音が立つ。
光里の手が伸びてくる。
マグをおさえてくれた長い指に、体が強張った。
「……ごめんね、こんな話をして」
ほっそりとしているのに、きちんと男らしい手をしていた。
「すみません、気の利いたことも言えなくて」
「ううん、こっちこそ。普段は話さないんだけど、何となく中野さんははじめて会った気がしないから、なんだかつい……」
ありがとう、と言おうとした瞬間、空が真っ青に染め抜かれた。
少しの間を開けて凄まじい轟音が響き、ガラスが微かに共鳴した。
思わず肩がはねて、マグから咄嗟に手を放した。倒れそうになるそれを、光里が受け止めた。
「中野さん、大丈夫?」
「……雷が苦手で」
雷が怖かったんじゃない、光里にどう答えていいか分からなくて、困ってしまったのだ。光里は、わたしだけ、その内部に招き入れてくれている。彼の内部に。どうして、わたしがそれに選ばれたのか、わたし自身は分からないまま。
あの春の日差しの下、ふたりで歩いていたころ、わたしはこんな気持ちで彼と向き合うことになると思っていただろうか。
小さな子供のように、わたしは膝を抱える。
途方に暮れ、それでも、ひかりを求めて、手を伸ばそうとしてしまう。
そんなわたしの手を、彼は優しく握ってくれた。
「雷が鳴ってるなら通り雨だろうから、落ち着くまでやっぱり家にいなよ」
光里はそう言うと立ち上がり、カーテンを閉めてくれた。
「映画でも見る? 配信サービスいくつか登録してるよ」
「なんでも……」
「はは。雷、本当に苦手なんだね、顔が死んでる」
光里は、わたしの濡れた髪をそっとかきあげ、耳にかけてくれる。
息が、止まる。
彼の黒い瞳に、わたしが映り込む。どこか呆然としたわたしがぽっかりと口を開けている。
少しずつ、彼が近づいてくる。わたしは、逃げなかった。
彼にはじめて呼ばれた『新苗』という名前は色を持ち、男の感触は痛みと共に、深い酩酊をわたしにもたらす。結局その晩、雨はやまなかった。
確かこの頃には、おばあさんの四十九日も終わっていたはずだ。しばらく、『帰省する』と言ってゼミや学校にも顔を出していなかった。
あの日、わたしと彼が一緒に過ごしたのは、たまたまタイミングがあったからだ。タイミングがあって、お互いに好意が──あったのなら、よいのだけれど──あって、わたしたちは近づいた。
一瞬の邂逅。魂と魂が触れ合ったような、そんな感覚をもたらした、至福の時。
しばらくは、わたしたちは何もなかったふりをしながら、いつもよりも頻繁に連絡を取っていた。新苗と呼ばれることはなかったけれど、それでも十分に幸せだった。
──だというのに、大山光里は、忽然と姿を消した。
