血道 第四部『血道』⑤
阿鼻叫喚。
地獄絵図。
座敷を開けた途端、目に入ってきた光景を見て、樹音はこのふたつの熟語を思い浮かべた。
「うが……ぎぃ……」
宴会のテーブルはひっくりかえり、オードブルの料理は散乱している。
席についていた男たちは口から泡を出して倒れていた。もだえるさまは、宗教的な舞踊にも見えるほどだ。
「うわぁお」
「なに? 樹音くん」
怯えた香菜子の声がする。樹音に小脇に抱えられたまま、香菜子は、しきりに周囲を気にしていた。
ちらりと見た香菜子の目の焦点は、きちんとあっていない。
「見えない?」
「見えない」
「じゃあ、見ないほうがいい。目をつぶってて」
風が吹いているのはわかる。
きっと普通の風ではないのだろうが、物が揺れる。物理として吹いている。
本物の『祟り』は、物理だ。
実害があるものは、物理的な側面を伴う。
樹音はカーディガンの袖で口元を覆いながら、顔をしかめた。
強烈な刺激臭が鼻をついた。
饐えた臭いは、客が吐いたためだろう。
光里はその中で凍り付いたように座っている。光里と美国の母は気絶していた。
「何があったの?」
「……」
「大山くん! 何があったんだ!」
樹音が強い調子で尋ねると、はっと光里が我に返った。
そして、「ひっ」と短くつぶれた悲鳴を上げると、ずるずると壁まで下がっていった。
「わ、分からないです。と、突然……突然、みんな、苦しみだして」
風が強くなる。
「う、うぎぃ、ぐ……っ」
樹音に酒を注いでいたおじのひとりが苦しみのあまり、自分の持っていたコップの破片をのどに突き刺す。
ずぶり。
鈍い音を立てて、ずぷずぷと刺さっていく破片を目の当たりにして、樹音はさすがに言葉を失った。
「おじさん!」
光里は半分泣いた声で叫んだ。
見開かれた男の目は濁り、血走っている。何も、何も見ていない。
破片はゆっくりと男の喉に飲み込まれていった。だが、その男は、破片を手にしたまま、上を向いて動かない。
「声が、二階まで聞こえているわよ、光里。静かになさい」
大山美国は悠然と階段を下りて、座敷に入ってきた。ひとりだけ穢れのない彼女は、相変わらず微笑みながら、上座に戻ってきた。
上座だけ──大山美国の席のお膳だけは、綺麗なままだ。
皆が苦しみひっくりかえしたごちそうも、日本酒を入れたコップも。
彼女はお膳のそばにあった一升瓶を手に取った。
そして、ためらいなく、のどに破片を突き刺したおじの脳天に振り下ろす。
上を向いたままだった男は、まともに額を割った。ごりっと瓶が奇妙な音を立てて、砕け散る。
「うがっ」
びくんっと、全身を震わせて、おじは声を上げた。
「まだ死なないの。おじさま。順番でしょう? こういうものは年長者が示しを付けないと、ねえ?」
血が、飛ぶ。
ごんっ、ごんっ。
二度、三度と一升瓶で殴りつけられて、おじの頭はどんどん血に染まる。
どう、とおじは倒れる。
額が完全に割れ、頭蓋骨はずれている。血がどくどくと音を立てて流れだし、見開かれた目は樹音たちを見ていた。
割れた一升瓶を無造作に投げ落とし、美国は返り血をぬぐって、宴会を見渡す。
女主人が両手を広げる。
風が強く吹く。
「ほら、おばさまも、順番よ」
「じゅんばん」
げーげー吐いていたワンピース姿のおばは、ゆらりと体を起こした。
近くにある一升瓶を一気に傾ける。
ごくり、ごくり、と勢いよく喉が動いた。
しかし、吞み込めてさえいない酒は、口からこぼれ、鼻からもあふれた。それでも無理やり飲み続つづけた。
美国は慈愛に満ちた表情で、おばを見守る。
「へたくそね、おばさま。残念だわ」
ゆっくりと美国が歩いていく。
ラッパ飲みをする女性に近づくと、そのそばに落ちていた箸を手に取った。
「やめろ」
樹音は思わず制止の声を上げた。
だが、一歩も前に進めない。ガラスのケースに入れられて、ただ、この惨劇を見ているだけだ。
美国は横目で樹音を眺める。
そうして、手にした箸を逆手に持った。
樹音は香菜子を抱きしめて、その目と耳を塞ぐ。守らなければ、何があっても、香菜子だけは。
漆塗りの箸は振り下ろされた。
「ひぃぃいいいいいいいいぎいいいいいいいいいい」
ぐちゅりと箸で目玉を貫かれた女は、奇声を上げて一升瓶を離した。
全員が踊り続ける。
隣の人間の首を絞める人間もいれば、酒を飲んでは吐いている者も、床を転がり、泡を吐く者も。
全員が踊り続ける。
そのなかで、美国は笑っていた。
「もう、こんな家、終わらせたほうがいいんです」
ああ、ああ。
樹音は内心で考える。
もし、今、この目に怪異が見えるのなら、いったい彼女の背後に何が見えたのだろう。
ゴゴゴゴゴと、低い音とともに、家がかすかに揺れる。
「地震……?」
古い家だ、揺れとともに土のかけらが落ちてくる。東北を襲った大震災を経験したこの古い家屋は、ただでさえ、相当なダメージを受けているはずだ。
それでも、集まった親戚は苦しみ続ける。
その間にも、揺れは大きくなっていく。樹音はとっさにそばの柱に手をついたが、その手が滑ってバランスを崩した。
柱には、べったりと血がついていた。
血と、吐しゃ物と失禁したものの臭い。
最悪だ、こんな光景は見たことがない。
美国は、今度は光里に歩み寄った。
凍り付いている光里の頬を、そぉっと撫でた。さきほど自らのおじやおばを嬲った手で。
「全部、終わり。私が、持っていく。全部、私で終わらせる」
「姉さん……?」
「出してあげるのよ。あの座敷牢にいるすべての女たちをね」
「……みんな、なにしたっていうんだ、こんなのおかしいよ!」
「なにも。なにもしてないわ」
泣きながら怒鳴った光里に、美国は優しく諭す。
そして、晴れ着姿のまま、この地獄を歩いていく。ずるずると、血を吸った足袋が湿った音を立てる。
あれが、本当の血道なのかもしれない。
女の歩いた道が、血の筋となり、延々と、恐ろしいほど脈々とつながってきた。
仏壇に向かい、マッチを手にする。マッチを擦る、独特の音。
家が、奥の方に向かって傾く気配がした。
──あの方向は、座敷牢がある。
美国はその方向を見ていた。
「なにもしてないのよ、この人たちは。ただ、わたしを苦しめただけ、この家の犠牲になれって言っただけ──お望み通りにしてあげようじゃない」
火のついたマッチを、美国は手放した。
いやにゆっくりとマッチが落ちる。こぼれた日本酒に一気に火が付いた。不自然なほど勢いで立ち上った炎は人々の腕の形だ。
この炎は怨念だ。大山の人間がとらわれた永い永い『祟り』だ。
その時、バキンッと大きな音が頭上で響いた。
天井板が、割れた。
一瞬だった。
本当に。
家は、あっけなく、倒壊したのだ。
