血道 第三部 苦しみの連鎖④
遠野家に隠れて数日経ったが、光里も美国もまだ落ち着いて過ごせていた。
あてがわれた客間は、布団と慎が持ってきてくれた私物でぎゅうぎゅうだが、過ごすことに不便はない。
樹音も香菜子もいない部屋で、光里は考え込む。
姉である美国のことが、羨ましくなかったと言えば、うそになる。
いつも、期待されるのは美国で、しかも、美国は大抵のことを努力しないでこなせるタイプの人だった。
光里と違う。光里は、美国の何倍も努力しても、ようやく人並だった。
誰もが美国に期待した。光里はいつもテストの点数が悪くても何も言われなくて、期待されていないのは明白だった。
美国は、期待されている。
俺とは違う。俺は長男だと言われ、扱われても、実際に跡継ぎとして見られているのは姉ちゃんだと分かっていた。
──光里、お前、美国がいま、どうなってるか知ってるか?
従兄の慎が電話をくれた時、光里は何も分かっていなかった。すでに四十九日もすぎていて、葬儀のあと美国には一度顔を合わせたというのに。
──姉ちゃん? 仕事やめて地元に帰ったっては聞いてるけど……どうかした?
美国はそこそこいい大学を出ているので、地元に戻っても就職に困ることはないだろう。ただ、車は持っていなかったので、交通手段が限られる村のなかでは難儀しているかもしれない。
だが、美国は万事しっかりしているので、そういう手段は自分でどうにかできそうなものだが。
首を捻った光里は、慎の言葉に衝撃を受けた。
──……落ち着いて聞いてほしいんだ、光里。あのな、美国ちゃんは……
記憶には一瞬の空白がある。
思い返せる次の記憶は、慎とその妻と、真夜中に自分の実家に戻ったときのことだ。
何も知らなかった。ずっと住んだ実家の奥のことを。
座敷牢に続く廊下が、ぎぃぎぃと鳴き声のように軋むことも、格子木は腕さえも通らなそうな幅で、潜り戸がぐるぐると古い帯で閉じられていることも。
その中で美国は、座っていた。樹音が見せてくれた座敷牢の写真とそっくり同じ姿勢で。
薄暗い座敷牢のすみ、闇の深いところに腰かけて、ぼんやりと俯いていた。
──姉ちゃん?
美国は、やせ細っていた。四十九日の時の、いつもと変わらない美国とは別人のようだった。首には骨が浮き、ワンピースから見える鎖骨も異様に浮いている。
十歳も年を取ったような、そんな様子の美国は光里に気付かないのか、無視しているのか無反応だ。
果たしていつから、美国はここにいたのだろう。
告別式のあと、親戚と話し合って実家に戻ると決めたとは、美国自身から聞いていた。それも四十九日の時だ。
光里は、それはまで、美国にも実家にも無関心だった。家を継ぐつもりもなかったし、亡くなったのは祖母だったので、人生にかかわるとは思っていなかった。
母はまだ若く、病弱ではあったが働いていたし、親類も近くに住んでいる。
ただ、ひとりになってしまった母のために、美国が実家に戻るというのはいいアイディアのように思っていた。
それが、美国を『犠牲にする』ということをきちんと意識できていたかといえばノーだ。
光里は、何も気づいていなかった。
自分を認めてくれなかった実家や親戚を、美国に押し付けているのだという罪悪感は、光里の意識の外で、雪のようにはらはらと降り積もっていた。気づかない間に、それは自分を覆いつくすほどに。
唐突に、目の前の美国がかすむ。自分が泣いているのに、光里は気づいていた。
こんなに小さい人だったろうか。美国は。なんでもできて、なんでも持っていたように見えたのに。
光里のちっぽけな自尊心の犠牲になった女性の姿は、これか。
振り返れば、四十九日のあの時にすでに美国は痩せてはいなかったか? 俺が知っている美国よりも達観して、乾いた笑いをしていなかったか?
──姉ちゃん
──光里。連れていくなら今だ……
慎は光里に耳打ちした。
俺は姉を助けないといけない。座敷牢に人を閉じ込めるなんて、あってはいけない。
決意をしてから、光里は人生ではじめて美国のために行動した。美国を連れ出し、東京に逃げた。
東京に来てから、美国の体調は一気に悪化した。
慎ちゃんのツテで紹介された家に自分も身を隠した。美国は自傷を繰り返し、爪がボロボロになるまで腕を切り裂くようになった。
声がする、音がする……美国は何かに怯え続けた。あんな暗い座敷牢に閉じ込められていたのなら、精神に異常をきたしてもおかしくはない、光里はそう思って、入院させた。
もっと強大で邪悪ななにかが隠れていると、思いもしなかった。
今でも、夢を見ていると信じたい。
無駄だと分かっていても、眠りにつくたびに願った。全て自分の誤解で、本当は何も起きていなくて……美国も健康で、実家はいつも通り堅苦しいけど穏やかで、中野新苗とは短いメッセージをたまにやりとりする。
日常。
日常が持ってくるんじゃないかと。
そんなわけはないのに、願っていた。
眠りが浅いのは、ここ最近、ずっとだ。
美国を救い出したあとから、ずっと、ずっと眠りが浅い。光里も、音が聞こえる気がするのだ。姉が聞いているという誰にも聞こえない音に目を覚ます。
けれども、飛び起きても、何の音がしない。
誰かが囁いているような声がするのに、その音は聞こえない。
何も。
どうなっているのだろう。自分までおかしくなってしまったのだろうか。
大山家でも同じように目を覚まして、荒い息を吐いた。
光里がのろのろと宛がわれた部屋を出ると、センサーで反応するオレンジ色のライトが足元を照らす。
シャラン、と鈴が鳴った。
廊下でも、その光に照らされて、たくさんの観葉植物が浮かび上がる。そのすべてに鈴がついているので、シャラシャラと鳴るさまはどこか幻想的だ。
鈴の音が、静寂をひき立てる。
静まり返った夜中の家を、光里は足音を殺して歩く。
ぱっ、ぱっと電気がつく。
美国のいる部屋は、ほかの部屋とは違い、太い注連縄で封じられていた。鈴がかかっているのは同じだが、明らかに厳重だし、すぐそばに大きなビーズクッションが置かれていた。
誰もいない。
香菜子も、樹音もいない。
昼間はここに香菜子が座って、番をしていた。
流石に眠ったのだろうか。光里はじっと扉を見た。
──ひかちゃん、大丈夫?
美国はいつも、光里を助けてくれた。
光里がだめでも出来損ないでも、誰にも怒られたり、けなされたりしなかったのは、美国がいたからだ。
彼女は立派だった。努力する姿を見せなかった。
両親もそうだ。光里の前では一度もケンカをしたことがない。夜ふたりで話し込む声は聞いたことがあるが、子どもの前では一度たりとも夫婦ケンカをしなかった。
だが、それは、どこか歪じゃないのか。
誰もが、家族に気を使い合い、何かに怯えていた。
その世界が、正しいのか。反抗期らしい反抗期さえなく美国は淡々と成長した、光里と違って。
──ひかちゃんは、好きなことをしてね。お姉ちゃんは、あんまりしたいことがないから。
大きくなったら外に出るのだという光里に、美国はいつもそう言って微笑んだ。
「姉ちゃん?」
光里は、勇気を出して、扉の向こうに声をかける。
何かが動く音がした。しばらくの間のあとに、返事があった。
「ひかちゃん?」
「姉ちゃん、大丈夫?」
「……大丈夫。ひかちゃんは?」
「俺は大丈夫だよ。安全だ」
「ならよかった……。ねえ、ひかちゃん、開けてくれる?」
「え?」
「顔を見てお話ししない? 私、ベッドに繋がれてて、動けないの」
「そっか……ちょっと待っててね、俺、樹音さんに聞いてくる」
「ひかちゃん、少しだけでいいの。入って来てくれたらいいじゃない」
「でも……」
「顔を見せて、お姉ちゃんを安心させて」
美国の声は、縋るような調子だ。
確かに、退院したのにずっとひとりで置いておくのは可哀相かもしれない。
「分かった、少しだけだよ」
光里は、ドアノブに手をかけた。
「──ありがとう、ひかちゃん」
その刹那、美国の声が耳の後ろからはっきりと聞こえた。
──そうだ、姉は、俺が大きくなってからは、『光里』と呼んでいた。なのに、どうして俺は、警戒もしなかったのだ。
ジャンジャンと鈴が攻撃的な音を立てている。まるでサイレンのように。どうしてこんなに大きな音に気が付かなかったのだろう。
もうシグナルは出ていた。鈴は、鳴っていた。
どうして疑いもせず「分かった」と言ってしまったのだ。
中野新苗と同じだ。
中野新苗も『姉を招き入れた』。姉ではない、姉を。
ぞっと全身が総毛立った。
光里は、自分を飲み込むように背後から広がってくる影に、まったく動くことができなかった。
「あリがとォ、ヒかちゃン」
声の方向を、振り返る。体はこわばり、ギギギと音を立てるようだった。
『それ』はそこにあった。影だと思ったものは、大きな大きな何かの塊だった。
ただ、その塊には小さく姉の顔がついている。
姉の顔を仮面のように張り付けたそれが、どんどんと膨らんで、おぞましい声を上げる。ぬるりとした赤黒い塊で、とても生き物には見えなかった。
「見ツけたァ……」
「何してんの! 大山ッ!」
香菜子の悲鳴がした。
鈴の音、突き刺さるような何かの視線。
光里を飲み込もうとする『怪異』。
鈴は鳴り続ける。ジャンジャン、ジャンジャン。
攻撃音。
耳が、痛い。
「光里……!」
姉の、本物の美国の声が、扉の向こうから響いた。
シャーン、と高く澄んだ鈴の音が鳴り響き、目の前の扉があく。小さな人影が扉の隙間から現れた。
美国だ。
痩せ細って落ち窪んだ目からぼろぼろと涙を零して、『怪異』に飛び込んでいく。
「ぐぅ、ぐぐぐ……っ!」
『怪異』は大きな体を揺らして、美国に倒れ込んだ。
「姉さん……?」
どぉっと音を立てて、『怪異』が爆ぜた。横で真一文字に裂け、その赤黒い中身をぶちまけるようにして倒れていく。
光里と美国は頭からそのしぶきを被る。生ぬるく、腐った臭いがする。
「役に立った……必要だった」
姉さんはぼそぼそと呟いた。
じっと『怪異』を見上げている。
「はじめから、こうすればよかった」
「ぐぐぐ、ぎぎぎぎ……」
何て汚い声だろう。苦しみ喘ぐソレに、美国はまた、体ごとぶつかっていく。
「ぐう………」
ソレは大きくひしゃげた。
「姉さん……」
美国は、答えなかった。
真顔で、『怪異』に抱き着いている。
いや、そうではない。美国は、手に持ったナイフで『怪異』の腹を突き刺していた。表情はないが、鬼気迫った様子はその背中からも感じられる。
「……連れていくなら、私にしなさい」
その先はもうよく見えなかった。光里も美国も、緋色に近い『怪異』の中身に飲み込まれてしまった。
