血道 第二部 みえざるもの②
中野新苗のアパートに向かおうと、光里は後部座席の樹音の運転する車に乗り込んだ。
光里は、今でも、時々、中野新苗との最後の電話を思い出す。
『お姉さん──イダ──、心配し──ミツ──てて、──ケタ──今日も──コッチサ──こっち──コォ──に来てくれて──ハヤシロシ──るよ』
電話越しに聞こえた、中野新苗の声にかぶさるように響いた、ざらついた声が忘れられない。
声の主は分からないが、光里は言葉の意味は分かる。
──イダ、ミツケタ、コッチサコォ、ハヨシロシ。
いた、みつけた、こっちに来なさい、早くしなさい。
光里の地元の方言だ。亡くなった祖母の方言よりも訛りがひどい気がしたが、単語は聞き取ることが出来たと思う。
姉がきた。そう中野新苗は言った。
だが、姉が光里を探すわけがない。
光里と姉の居場所を知っているのは、座敷牢のことを教えてくれた従兄の本田慎(ほんだ・しん)だけだ。
その慎には、中野新苗のことを何ひとつ伝えていない。光里は伝えないことを選択した。家族の誰も、新苗を知らない。
それは、光里にとって重要なことだった。
だというのに、中野新苗のところで妙なことが起きた。家出といえばそれまでなのかもしれないが、絶対にそうではない。
伝える相手を間違えば、異常者と名指しされるのは光里の方だろう。
相談相手として選んだ香菜子は、光里をおかしいとは言わなかった。そうして、探偵事務所──兄が探偵だという──に連れて行ってくれた。
遠野樹音という男は、香菜子とは似ていない。
肩くらいまである長さの髪を、後頭部の低いところで適当にくくってお団子にしていた。顔形は整っており、幅の広い垂れ目が、柔和に微笑んでいた。
透かしニットのカーディガンに、太めの白いチノパンという姿は、樹音に似合っているものの、──見た感じ三十代に見える男の年齢にしては、若すぎるというか、チグハグすぎるような気がした。
ファッションは光里も好きだが、どちらかというとシックな服を好むので、体のラインが完全に隠れる彼の服装を、自分よりも大分年上の人間がしているということが、とても意外に思えた。
ただ、彼の妹である香菜子も、わりとダボっとしたオーバーサイズの格好を好むので、並ぶとしっくりくる。小柄な香菜子と並ぶと、彼は猫背だけれど、ひょろりと背が高い。顔かたちは似ていなかったが、雰囲気はよく似ていた。
自分と姉は、よく似ていた。大山の家のがっしりとした四角い顔立ちではなく、嫁入りした母によく似て、顎が細く、顔のパーツがすべて小づくりで、日本人形のような雰囲気がある。誰もが「お母さんに似てるね」と言った。
姉の美国と性格が似ていたかといえば、そうではなかっただろう。姉は、今思えば、女性であることで抑圧されていたし、光里に許される反抗する権利をひとつも有してはいなかった。
絵に描いたいい子であり、優等生でもあった姉と違い、光里はとにかく、様々な物に反発した。
納得できないことを言われたのなら、とにかく歯向かった。「なんで」「どうして」と、自分が納得するまで聞き続けるものだから、子どものころ、何度か蔵に閉じ込められたくらいだ。
姉が蔵に閉じ込められたところを見たことがない。姉は昔から、要領のいい人だった。
──ひかちゃん。大丈夫? 怖かったでしょう。
蔵の重い二重の扉を開けて、差し込む光とともに、姉の心配そうな顔がこちらを見る。蔵の隅っこで、膝を抱えて丸まっていた光里は、いつも、姉の腕に飛び込んだ。
──えいらいねえ、泣かないんだもの。
五つ年上の姉は、いつも光里に優しかった。
長男として生まれてきた光里よりも、優秀で、落ち着いていて、何かあれば姉が何でも知っていた。
甘えすぎたのだろうか。姉なら、どうにかできると自分は目をそらしていただけなのだろうか。
「もうすぐ、目的地だね」
カーナビを見ながら、樹音がどこか間延びした口調で告げた。
ウィンカーの音。
回想から引き戻される。確かに、周囲は見覚えがある風景になっている。何度も来たわけではないが、この道を走った日のことははっきり覚えている。ありきたりな、どこにでもありそうな住宅街。
この角を曲がれば、通りの向こうには、中野新苗のアパートがある。
ぎゅうっと反射的に樹音が手を握ったその時、香菜子が叫んだ。
「樹音くん、待って!」
「う、おおう! なになになに!」
樹音は叫びながら、急ブレーキ。
ガクンと大きく体が揺れたが、シートベルトのおかげで、ヘッドバンキングせずには済んだ。
「戻ろう」
香菜子は、真っ青になって顔を伏せていた。光里は首を傾げ、香菜子とアパートのあるあたりを見比べた。
何も変わらない、ふつうの、街。
「え……でも」
光里が困惑した声を上げると、香菜子がぎゅっと光里の腕をつかんだ。痛みを感じるほど、強く。
「戻らないと、気づかれる。樹音くん、早くしてっ」
「りょーかいっ」
樹音がハンドルを大きく切る。道のど真ん中で急カーブしたので、対向車線を走る車も対向車もクラクションを一斉に鳴らした。
そんなクラクションを気にする様子もなく、樹音は車のアクセルを踏み込んだ。
急ブレーキとは反対に、グンとシートに体が叩きつけられた。
「香菜子先輩、一体どうしたんですか? 中野さんの家に行くんじゃ」
「ちゃんと見なくても大丈夫、あの道の先でしょ」
見たこともないほど強い目線で、香菜子が光里を振り向いた。白目が充血している。その目はしっかりと光里を映しているはずなのに、もっと遠くを見ているようで、気味が悪かった。
これが、『何か』を見ている目だ。
「え、あ、はい、そうです」
「じゃあ、大丈夫、もう、分かったから」
「……え?」
「ごめん……吐きそう。樹音くん……早くして……ッ」
