血道 第三部 苦しみの連鎖⑤
「大山! 何やってんの!」
香菜子の悲鳴に、樹音はベッドから飛び起きた。
廊下に出ると、すべての照明がついていた。
光里は、誰かと会話をしているが、相手の声が全く聞こえない。警戒する鈴の音で、すべてがかき消される。
「香菜子!」
樹音は、彼らに走り寄ろうとする香菜子の襟首をつかんで、無理やり引っ張った。
「何が起きてる?」
樹音には見えない。
分かるのは、鳴らないはずの鈴が、攻撃的に鳴り、侵入を告げているということ。
それだけだ。
「入ってきてる、ふたりの背中に覆いかぶさってて……食べようとしてる!」
「なるほどね……」
「ナマコみたいな、内臓みたいな。とにかく、気持ち悪い何かなの……」
「分かった。香菜ちゃんは下がってて」
下がっていてと樹音が言うまでもなかった。
樹音が手を離すと、香菜子はずるずるとその場にへたり込む。
顔面蒼白の光里は自分の頭上を見上げて、目を見開いている。
その時だ。
──シャーーーーン。
清浄な音を立て、大山美国の部屋を封じていた鈴が鳴り、注連縄が落ちた。
軽やかに、踊るように、開けられた扉の隙間から美国が飛び出した。
真っすぐと、光里のそばに駆け寄る。
樹音はどこかのんきに(ああ、この子は歩けたのだ)と思った。そして、彼女の中の天秤は完全に傾いたようだった。
「……連れていくなら、私にしなさい」
大山美国はそう言いながら、手にしたナイフを空間に突き立てた。──少なくとも、樹音には何もないところに刺しているようにしか見えなかったが、確かに『何か』があること分かる。
『何か』に彼女はナイフを突き立てて、切り裂いた。
途端、すべては現実に侵食した。
何もなかったはずの場所がはじけた。水風船を針でつついたように、液体が四方八方にまき散らされる。
樹音にも見えた。それは……この世に現れた。
その液体の色は、塊と同じ赤黒さで。
──そうだ、あれは、血の色だ。
この匂いは、血だ。
唐突にはじまったものは、終わりも唐突だ。
鈴も、ぴたりと静まり、樹音はリビングの入り口で、自分の世界に入ってきたその『怪異』の残滓を目の当たりにして、「ふは」と妙な笑い声を漏らした。
──香菜子が持ち込んだ厄介ごとの中でも、これは特級だ。
光里が立ち尽くす前に、胎児のように体を丸めた女性が倒れている。
「……中野さん?」
囁いた大山光里の声は、かすれていた。
