たね。
プロローグ
ここ数年、日本全国はもちろん、ドイツ、スイス、デンマークなど、世界各地に「友達」と呼べる人が増えた。
その人がこれまで、どんな経験をして、どんな思いを抱え、どんなふうに自分を育ててきたのか。
その話を聞く時間が、私は好きだ。
「あぁ、だからこの人はこんなにも素敵なんだ。」
その人が人生の中で育ててきた「たね」を知るたびに、私はその人のことがもっと好きになる。
そんな話をした日は、私の心まであたたかくなる。
「今日も幸せな一日だったな。」
そう思いながら眠りにつく夜が増えた。
かくいう私にも、いくつものたねがある。
失恋。
病気。
ドイツ。
母。
その一つひとつのたねは、そのときには苦しくて、意味なんて分からなかった。
けれど振り返ると、それらはいつの間にか根を張り枝を伸ばし、今の私を育ててくれた。
これは、私が人生で育ててきた「たね」の話である。
失恋
20代の私は、仕事と向き合いながら、流れるように旅をしていた。
精神的な自立のタイミングは遅く、人に憧れることはあっても、恋というものに深く心が動くことは少なかった。
30代に差しかかった頃、ふとしたことで恋に落ちた。
でも、その恋は半年で終わった。
コンプレックスの塊だった私は、自分に自信がなかった。
自分で考えることができず、周りの言葉に揺れ、相手を信じることができなかった。
後悔だけが残った。
毎日、泣きながら朝を迎えた。
ついには食事も喉を通らなくなった。
このままじゃだめだ。
そう思った私は、母に一人暮らしをしたいと伝えた。
けれど、「危ないから」と反対された。
それなら、と当時通っていた職業訓練校で隣の席だった人に声をかけ、ルームシェアを提案した。
母も納得してくれ、私は初めて実家を出た。
そこで出会った街のコミュニティは、それまで私が知っていた世界とはまるで違っていた。
好きなことを語り、好きなように生きる人たち。
私は、その空気に夢中になった。
あの時は、失恋で過去のまぶしい日ばかりを思い返していた。
未来は、見えなくなってしまった。
そんな私にとって最初の「たね」は、失恋だった。
病気
それからの私は、私にも何か自分を纏うまぶしさが欲しいと思うようになった。
20代でも、シューフィッターや彫金など、さまざまな資格を取ったりものづくりを経験したりしてきた。それでも、もっと本格的な鎧をまといたかった。
派遣社員のOL。ロードバイクにヒールで乗るスタイリッシュな女性。そんな「普通の中にある少しのクセ」が、個性の塊のような街のコミュニティでは受け入れられ、足りないながらも私は楽しく過ごしていた。

20代半ばから細々とシルバーアクセサリーの制作を続け、「作家」と名乗って活動していた。けれど、自分の欲しいものはすでに世の中にあることを知り、作家という肩書きだけが私の安心だった。
実家を出て初めて知った料理の楽しさから、お菓子作りにも夢中になった。誰かに食べてもらえることがうれしくて、どうせならと通信制の専門学校で学び、製菓衛生師の国家資格も取得した。
料理の楽しさと街のコミュニティが重なり、平日は派遣社員として働き、仕事が終わると飲食店でアルバイトを始めた。
さらに顔見知りが増え、恋愛もすぐに始まった。
楽しかった。
彼は「一年後には一緒に住もう」と言った。
その頃も私は、自分の肩書きを探し続けていた。そして鍛金による錫の器と出会い、「これを学びたい」と思えるものをようやく見つけ、教室へ通い始めた。
一年が経つ頃には、マンションの下で毎日餌をあげていた人懐っこい野良猫とも暮らそうと決めていた。
ところが彼は、「仕事が忙しいし、一緒に住む気はない」と言った。
私は後先を考えず、先にOLを辞める決断をしていた。
「お金はどうしよう。」
「猫はどうしよう。」
不安が、一気に押し寄せた。
体はすぐに反応した。
膝から下に無数のあざが現れた。押すと激痛が走る。日に日に数は増え、全身の関節も痛くなっていった。
皮膚科を受診すると、すぐに大学病院への紹介状を書かれた。
皮膚を切り取る検査、目薬をさされ、視界が真っ白になる眼の検査。一日中検査が続き、その日は見えにくいまま家へ帰った。
そして診断された。
「ベーチェット病です。」
関節は炎症を起こし、歩くこともままならなくなった。
毎日、母に車へ乗せてもらい、後部座席で横になりながら一時間かけて病院へ通う日々。車いすにも乗った。ステロイドの服用も始まった。
母は泣きながら言った。
「祖父からの隔世遺伝かもしれない。こんな体に産んでごめん。」
絶望だった。これからようやく親孝行をできると思っていた矢先、親不孝をしてしまったと思った。
病気に心まで支配されてしまう自分がいやになった。
それと同時に、このできごとをいつかいいターニングポイントにしたいと思った。
いつか私と同じように病気を知って不安になる誰かに、「大丈夫」と思える未来を見せられる人になりたい。
けれど、目に入るのは不安になるような情報ばかりだった。未来に希望を持てるような話は、ほとんど見つからなかった。
「ひと月ほどで症状は緩和する。」
その言葉だけが、私の希望だった。
私は、「病気だから」という言葉に人生を支配されたくなかった。
だから、自分自身の判断で病院へ通うことをやめ、ステロイドも飲まない選択をした。
日々の痛みには耐え抜いた。
ひと月後、症状は緩和し始め、ふた月後には日常の生活が戻った。
それから半年、鍛金と向き合った。
当たり前だった日常が再び始められたことが、なにより幸せだった。
私の人生が、新しくもう一度はじまったように思った。
伝統工芸

病気が落ち着いてからは、自分の制作や技術向上につながる講演会にも積極的に参加するようになった。
ある日、たまたま訪れた金属にまつわるトークショーで、錫の伝統工芸師が客席にいることを知った。
終了後、私はその人のもとへ駆け寄り、
「錫の魅力に引き込まれました。私に制作技術を教えてください。」
そう伝えた。
師匠は一言、
「ええよ、教えたるわ。」
と言ってくれた。
それから一週間、従業員の方がつきっきりで指導してくれた。
最初は会社へ入ることも勧められた。
でも、その世界で一から積み上げていく覚悟が、当時の私にはなかった。
作家として活動しながら技術を学びたいと伝えると、その希望に合わせて指導してくれた。
しかも、すべて無償だった。
「どうして、ここまでしてくださるんですか。」
そう尋ねると、師匠は言った。
「狭い世界で、そうやって興味を持ってくれたことがうれしい。もっと広がればええな。」
感謝しかなかった。
その後も道具をそろえる手伝いをしてくれたり、「分からなかったらいつでも聞きにおいで」と受け入れてくれた。
けれど、世界に通じる技術は、そんなに簡単に身につくものではなかった。
頭の中にある理想の形が、どうしても作れない。
「作家さんには危ないから、これ以上はできない。」
そう言われ、先へ進む方法が分からなくなった。
ならば違う方法はないかと、ウッドターニングを習いに行った。
けれど、それすらも、
「他の人に聞きに行くな。うろちょろするな。」
と言われた。
私は思った。
日本で怒られるなら、海外へ行ってみよう。
ヨーロッパで作られる、あの繊細な金属食器。
どこかに答えがあるかもしれない。
イギリス、ドイツ、フランス。
候補を絞って考えた。
そしてふと思い出した。
「ベルリン動物園には、世界で一番好きなビクーニャがいる。」
じゃあ、ベルリンに行こう。
そんな理由だった。
そのときはまだ、その旅が私の人生をまったく違う方向へ導くことになるとは思いもしなかった。
私は、一週間後に出発する航空券を買った。
そして、日本を飛び出した。
ドイツ
広いベルリン動物園。
拙い言葉でビクーニャの居場所を聞き回りながら、右へ左へと走り、ようやく発見した。
ところが、ビクーニャは出っ歯で、シュールな顔のままこちらを見ながら排尿していた。
全くもって、かわいいとは思えなかった。
まぁ、それでも一つ目の目的は達成した。

残りの日々は、ヴィンテージショップや食器店を巡り、自分の作りたいもののヒントを探して歩いた。
日本を出る前、友人から「今、友達がドイツにいるから訪ねてみて」と紹介してもらっていたので、その彼を訪ねた。
ベルリンを何も知らない私に、街のあちこちを案内してくれた。
その一つがクラブだった。
大きな病院の跡地を利用したその場所は、ワークショップやアートイベントも開かれる、とても刺激的な空間だった。
そこで彼が紹介してくれた数人の中に、ニーナという女性がいた。
彼女は、拙い英語しか話せない私にも興味を持ってくれ、一生懸命話を聞いてくれた。
私も彼女に質問をし、お互いに笑いながら会話を続けた。
ベルリンでできた、日本人以外では初めての友達だった。
「次に来るときも、また会おう。」
そう言って連絡先を交換した。
私は、とてもうれしかった。
知人もニーナも、出会った人たちはみんな自然に私を受け入れてくれた。
「なんでこんな寒い冬に来たんだ。夏のドイツは最高だから、またおいで。」
そう言われ、
また戻って来られる理由をつくりたい。
心からそう思った。
帰国後は、自分の工房づくりと制作に没頭した。
技術だけでは生活できなかったため、一度辞めた派遣社員の仕事も、以前より自由な条件で再開させてもらった。
工房づくり、機械の購入、制作。
お金はどんどん消えていく。
それでも、またドイツで学びたい。
みんなに会いたい。
夏のドイツを味わいたい。
その一心で補助金へ応募した。
幸運にも採択され、私はもう一度ドイツへ渡る機会を手に入れた。
マイスターを訪ね、ものづくりの現場を見せてもらい、後半は少しだけ休暇を過ごした。
初夏の新緑の匂い。
夜まで明るい街。
友人との再会。
すべてが最高だった。
ニーナと再会したのは、テンペルホーフ空港跡地だった。
広大な敷地で乾杯をした。
犬の散歩をする人。
自転車に乗る人。
友人と語り合う人。
誰にでもある「自由」が、そこには広がっていた。
その景色の中にいるうちに、
私も、ここにいていいんだ。
そう思えた。

きっと、その頃から私は、ありのままの自分でいていいのだと思えるようになっていった。
そして、「自分で選んで生きる」ということを、少しずつ肯定できるようになった。
私は、ドイツで自由を知った。
それから毎年、ドイツへ行く理由をつくるようになった。
それは今も続いている。
ニーナとは、渡欧のたびに会うようになった。
彼女も何度か日本へ来てくれた。
自立し、人を尊重するニーナを私は心から尊敬している。
彼女は私のまっすぐな性格を気に入ってくれていて、気づけば私たちは親友になっていた。
ベルリンに滞在するときは、いつもニーナの家に泊めてもらった。
そして日曜日の朝は、決まって蚤の市へ出かけた。
ヴィンテージが大好きな私たちにとって、それは何よりの楽しみだった。
日本へ持ち帰るものは、少しずつ変わっていった。
最初は「好き」という感覚だけで選んでいたガラスや陶器。
けれど、いつしか自然と惹かれるものが絞られていった。
金属作品の個展を開くときには、その一角でヨーロッパから持ち帰った器や花瓶も紹介するようになった。
やがて懇意にしていた花屋さんから花瓶の注文をいただき、ヴィンテージ関連のポップアップへも呼んでもらえるようになった。
その頃だった。
私が集めていた花瓶には、「Fat Lava」という呼び名があることを知った。
けれど、細かいことが全く分からない。
インターネットで調べても、日本語で詳しく紹介しているものは見つからなかった。
ようやく辿り着いたのが、イギリスのコレクター、Mark Hillが書いた一冊の本だった。
私はすぐに取り寄せ、辞書や翻訳サイトを頼りに夢中で読み進めた。
そこには、私が感覚だけで「好き」と思っていた世界が、ひとつの文化として存在していた。
時代によって変化するデザイン。
メーカーごとの個性。
デザイナーたちの思想。
知れば知るほど、新しい扉が開いていく。
終わりが見えない。
だからこそ面白かった。
この魅力は、日本の誰かの心にも絶対響く。
そう信じた。
そうして、私は日本でFat Lavaを伝えていくことを決めた。
ニーナにも力を借りながら、この世界を日本へ伝えていくことにした。

Fat Lava
私が買い付けに行けないときは、ニーナに現地で調達してもらったものを送ってもらうこともあった。
少しずつ、日本で紹介できる花瓶は増えていった。
2019年には企業から初めての買い付け依頼をいただき、Fat Lavaの需要も少しずつ広がり始めた。
「こんなもの見たことがない!」
初めて私が出会ったときと同じように目を輝かせる人たち。
「好き」を共有し、その魅力を伝えていけることが何よりもうれしかった。
オンラインショップを始めると、全国のアーリーアダプターたちから問い合わせが届くようになった。
運命は、一気に加速していった。
工房の棚だけでは収まりきらなくなり、同じビルでもう一部屋借りる決意をした。
ところが、その矢先だった。
新型コロナウイルスが広がり始めた。
部屋を借りて一か月も経たない頃、最初の緊急事態宣言が発令された。
誰も歩いていないような静まり返った街。
借りたばかりの部屋で、一人床をはがしていた光景を今でもよく覚えている。
不安だった。
それでも、借りると決めたのだから、前へ進むしかなかった。
世の中は不安に包まれていた。
けれどその一方で、自宅で過ごす時間が増えたことで、人々のインテリアへの関心は高まり、店への需要も少しずつ増えていった。
しかし、世界は止まった。
ドイツへの航空便は途絶え、荷物は入ってこなくなった。
それでも、私はこの道を諦めたくなかった。
ドイツ以外にも、日本へ送ってくれる人はいないだろうか。
そう思い、それまで一度も投稿したことのなかった海外のコレクターコミュニティで、勇気を出して初めて書き込みをした。
「私はこの陶器が大好きな日本人です。
美しいものが好きな日本人は、きっとこの陶器も好きになると信じています。
日本でこの魅力を紹介したいのです。
どうか力を貸していただけませんか。」
すると、十人ほどのコレクターが賛同してくれた。
「今は送れないけれど、再開したら送るよ。」
そう声をかけてくれる人もいた。
オランダ、デンマーク、ポーランドから。。。
世界中の人が力を貸してくれて、少しずつ荷物が届くようになった。
後に、その人たちは私にとって大切な仲間になっていった。
朝から十五時までOLとして働き、それが終わればダッシュで店に向かい、深夜二時、三時まで作業を続ける。
帰宅して数時間眠る。 また朝七時には起きて、会社へ向かう。そんな毎日を繰り返した。
孤独だった。
誰とも話さず、一日が終わることもあった。
それでも、「今やっていることには意味がある。」
そう信じて進み続けた。
少しずつ仲間が増え、展示会やポップアップへ呼んでいただく機会も増えていった。
私が信じてきたものは、少しずつ形になっていった。
数あるたねの中で、Fat Lavaはひときわ大きく、美しく花開いた。
その頃、私はMark Hillへ、もう一度連絡をした。
初めて相談した頃は、日本で本を出しても届けられる自信がなかった。
けれど今は違った。
「今ならきっと、この本は多くの人の役に立てる。」
そう思えた。
そして私は、日本語版の出版に挑戦することを決めた。
そこから半年。
新しい挑戦が始まった。
出版
出版なんて、私には縁のない世界だと思って生きてきた。
何から始めればいいのかも分からない。
原書があるのだから、翻訳をしてくれる人と印刷してくれる人を探せばできるものだと思っていた。
甘かった。
実際には、翻訳、構成、校閲、デザイン。
想像をはるかに超える工程が待っていた。
すでに出版日を決めていたため、修正が入るたびに作業は増え、毎日がぎりぎりだった。
多くの人が力を貸してくれた。
けれど、最後の確認だけは、すべて私が目を通した。
夜中の十二時まで文章をチェックしてもらう。
内容をすり合わせる。
翌朝九時には、デザイン会社へ原稿を送る。
その間も、昼間は派遣社員として働いていた。
眠れるのは、一日二時間あるかないか。
そんな日々が数週間続いた。

それでも、つらいとは思わなかった。
Markが託してくれた大切な一冊。
日本語版として世に送り出すのなら、中途半端なものにはしたくなかった。
少しでも多くの人へ届けたくて、大手書店へ出版イベントの営業にも足を運んだ。
そして、自費出版という形で本を世に送り出した。
日本中のFat Lavaファンから、次々と声が届いた。
「こんな資料を待っていました。」
「読んでいるうちに、花瓶がもっと愛おしくなりました。」
その一つひとつの言葉が、何度も私を励ましてくれた。
Markも、自分のことのように喜んでくれた。
ようやく、たねが実を結び始めた気がした。
あの日、ドイツで心を奪われたもの。
その魅力を、自分なりの言葉と方法で伝え続けた。
その情熱は、少しずつ誰かへ伝わっていった。
そのたびに、大きな喜びへと変わっていった。
母
コロナ禍は、当初思っていた以上に長く続いた。
けれどその時間は、コレクターたちとの絆を育む期間にもなった。
日本ではチャリティーオークションも開催した。
そして2022年。
渡欧が再開し、私は念願だったコレクター訪問の旅を実現させた。
約三週間かけて、この数年間で出会った仲間たちを一人ひとり訪ね歩いた。
チャリティーオークションで集まった約30万円は、当時コレクター仲間が行っていた難民支援へ直接届け、物資を運ぶ手伝いもした。

出発前、そのことを母へ電話で伝えると、母は泣きながら喜んでくれた。
心配ばかりかけてきた私が、ようやく少しだけ親孝行できた。
そう思えて、本当にうれしかった。
訪ねたコレクターは六人ほど。
何十年もかけて集められた花瓶たちは、それぞれの暮らしに自然と溶け込み、「集めること」も「飾ること」も文化として根付いていた。
花瓶を通して人と人がつながり、その人の記憶までも受け継がれていく。
デンマークでは「日本からクレイジーコレクターがやってきた!」なんていう最高の褒め言葉までいただいた。
私は、二十四時間ずっと幸せだった。

旅も終盤に差しかかり、残すは著者たちの住むイギリスへ向かうだけ。
その夜だった。
午前二時。
兄からの電話で目が覚めた。
「あのな……お母さん、亡くなったわ。」
突然すぎて、言葉が入ってこなかった。
ほんの一週間ほど前。
旅の途中で近況を母へ送ると、こんな返事が届いた。
「よかったね。あなたはしっかり自分の人生を生きているから、今は安心して見守っています。周りにも感謝して、引き続き楽しんでね。」
その言葉をもらったばかりだった。
信じられないような出来事だった。
でも、すべて本当にあったことだ。
あの言葉は、今でも私の背中を押してくれる。
もちろん、会いたいと思う日は何度もある。
それでも、「ああしておけばよかった」という後悔は、不思議とない。
母は、生きているうちに、伝えたいことを全部伝えてくれた。
だから私は、今も前を向いて歩いていける。
そして、母にできなくなった分まで、誰かに優しくありたいと思う。
私は予定をすべてキャンセルし、日本へ戻った。
帰りの飛行機で新型コロナウイルスに感染し、葬儀のあとには兄や姉にも移してしまった。
四十度の熱が出た。
世界で一番尊敬していた人との別れは、最後まで本当に慌ただしいものだった。
泣いて、熱を出して、全部出し切った。
だから私は、もう一度前を向き、また新しい道を歩き始めた。
今
翌年、私は再びヨーロッパへ向かった。
前回、途中で終わってしまった旅の続きを歩くために。
その旅では、ようやくMarkにも直接会うことができた。
旅を途中で終えたからこそ、「また戻りたい」という思いは強くなり、それはやがて毎年続く習慣になった。
今では、毎年コレクターのお宅を訪ねる旅を続けている。
母との別れを心配したMonika夫妻は、半年後、日本まで私を訪ねてきてくれた。
二人はヨーロッパの外へ出たことがなかった。
長時間のフライトへの不安を抱えながら、それでも私に会いに来てくれた。
私は、その気持ちが本当にうれしかった。
それ以来、毎年NinaとMonika夫妻には必ず会いに行く。

気づけば、友人という言葉では足りない存在になっていた。
家族のような、大切な人たち。
そしてドイツは、私にとって第二の故郷になった。
振り返れば、人生は思い通りには進まなかった。
失恋もした。
病気にもなった。
何度も遠回りをした。
母とはもう会うことができない。
それでも、その一つひとつが、次の出会いへとつながるたねになっていた。
私はこれからも、人と会話をする。
その人が育ててきたたねの話を聞きたい。
そして、いつかどんな花になるのかを、一緒に楽しみにしたい。
心配性の母が最後の最後に私へ残してくれた言葉をもう一度。
「よかったね。あなたはしっかり自分の人生を生きているから、今は安心して見守っています。周りにも感謝して、引き続き楽しんでね。」
この言葉は、今でも私の背中をそっと押してくれる。
私は今、好きなことに好きなだけ向き合うという自由を選び、その選択に覚悟を持って生きられるようになった。
毎日、Fat Lavaに囲まれて暮らす。
あの花は、今も少しずつ大きくなりながら、たくさんの人との縁を運んできてくれる。
遠く離れた国にも、「おかえり」と迎えてくれる人がいて、日本を発つ日は「いってらっしゃい」と送り出してくれる人がいる。
この優しくて愛おしい日々が大好きだ。
