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【エッセイ】なぜ人は、ほんの少しだけ王道を外したくなるのか?〜忍法!王道外しの術(1,550文字)

あえて主流を避けるような選び方に、どこか共感してしまう人へ。
それはただの天邪鬼ではなく、静かな自己表現であり、小さな冒険かもしれない。
そんな「王道外し」の術に込めた想いを、ここに綴ります。

昔から、なぜかほんの少しだけ、王道を外してしまう癖がある。

たのきんトリオなら、誰もがマッチやトシちゃんを応援する中、僕は迷わず野村義男だった。
新御三家なら、西城秀樹でも郷ひろみでもなく、野口五郎。
ロック御三家なら、ザ・ベストテン初の2曲同時ランクイン(15位以内なら3曲も)を果たした原田真二でも、ツイストの世良公則でもなく、Charにしびれた。
奇しくも3人とも職人気質でギターが得意だ。

家庭用ゲーム機が一気に普及し始めたころも、ファミコンを買ってもらう子が多い中、私の家にはセガ(SG−1000Ⅱ)が鎮座していた。

尾道三部作の話題でもそうだ。
「転校生」や「時をかける少女」は何回かリメイクもされ、身体が入れ替わったりタイムリープしたりという現在にもよくある設定の古典的な存在だが、僕は「さびしんぼう」の、あの取り残されたような切なさが一番胸に残った。主人公が富田靖子であるという佇まいも良い。

カラオケでも、その傾向はある。仮に西城秀樹を歌えというのなら「YOUNG MAN」ではなく「薔薇の鎖」、近藤真彦なら「ギンギラギンにさりげなく」や「スニーカーぶる〜す」ではなく「ミッドナイト・ステーション」(「ミッドナイト・シャッフル」ではない)。光GENJIなら「パラダイス銀河」より「荒野のメガロポリス」を選曲する。3曲ともオリコンでトップ3にランクインするシングル曲であり、決してマイナーではないが、代表曲でもない。

思い返せば、もっと幼いころもそうだった。
ゴレンジャーごっこでは、みんなが争うようにアカレンジャーになりたがる中、僕は誰に言われるでもなく、自然とアオレンジャーを任命される立ち位置だった。アオレンジャーは(演じていた宮内洋氏の多忙により)地上で敵と殴り合うような場面にはあまり登場せず、他の4人がピンチになると「待たせたな」みたいな感じでマシンに乗って登場する。そんなクールさが好きだった。

ここまでに挙げた例は、いずれもそのジャンルでは結果を残している一流の人物、作品たちであるが、「王道」かと言われると疑問が残る。十分立派な存在なのにである。

結果、私は、周りから「お前、ちょっと変わってるな」と言われる。

このように、王道をわずかに外す選択には、ひとつの心理が潜んでいると考えられる。

人は多くの場合、無意識に「競争」を恐れる。王道を選べば、常に比較対象が現れる。「誰がいちばん上手に」「誰がいちばん早く」といった測定が始まる。だが、ほんの少し脇道を選べば、その比較から逃れられる。マイナーな選択は、自己表現であると同時に、競争回避の手段でもあるのだ。

また、王道を外すことで、「見る目がある」と自認したい気持ちも働く。
数ある選択肢のなかから、あえて目立たないものを拾い上げる。
そこには、「ただ流されるだけの人間じゃない」と密かに証明したい欲求がある。

もちろん、こうした選択にはリスクもある。
孤独だ。圧倒的多数の支持を得られるわけではない。
だがその分、同じように王道を外した者同士、妙に深い共感が生まれることがある。
それは、大通りでは決して交わることのなかったはずの縁だ。

王道を外すとは、言い換えれば「少数派に身を置く覚悟」である。
それはただの天邪鬼ではない。
ほんの少しだけ、世界を違う角度から見たいと願う、ささやかな冒険なのだ。

そして僕は、たぶんこれからも。
ほんの少しだけ、王道から外れた場所を選び続けるだろう。
そこにしかない景色を、信じているから。

これが、僕にできる唯一の忍法、「王道外しの術」だ。

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五十嵐雉虎(イガラシ・キジトラ)|準文筆家|掌編小説・ショートショート作家 よろしければ、ぜひ応援をお願いします!

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