見出し画像

【掌編小説】フィナンシェ2個分の優しさ(861文字)

ここ最近の彼女は、明らかに忙しそうだった。
帰宅はいつも夜遅く、食事のあとも黙々とノートパソコンに向かい、寝る直前までなにかを打ち込んでいた。
「今週が山場だから」と言っていたが、それがいつまで続くのか、俺にはよくわからなかった。

そんな彼女のために、仕事帰りに駅ビルのベーカリーでフィナンシェを二つ買った。プレーン味と抹茶味。
ラベルには「焦がしバター香る、ごほうび焼き菓子」。
疲れたときの甘さって、たぶん思ってる以上に効くから。
明日、職場での休憩中にでもつまんでもらい、ちょっとでもほっとしてくれたらいいと思って。

その夜、彼女はいつものように遅く帰ってきた。
玄関のドアが開き、キッチンから顔を出した俺に向かって、鞄を肩からおろしながら笑う。

「あぁー疲れた! 仕事、一段落したよ! 明日、有給もらうことにした」
「ほんとに? おつかれ」
「ありがとう。いやー、大変だったけど、なんか達成感だわ」

彼女が椅子に座るのを見計らって、俺はカウンターに置いていた紙袋を手に取った。

「実はさ、明日、仕事の休憩中にでも食べてもらおうと思ってたんだけど……」
中をのぞいた彼女の目が、パッと輝く。

「え、なにこれ、めっちゃうれしい。……あ、今食べる」
そう言って袋を開け、フィナンシェを手に取る。

「じゃあ、二つとも私にくれるつもりだったんだよね?」
「いや、まあ、うん」

返事を聞き終わる前に、二つ目も手に取られていた。
ひと口、ふた口…あっという間に二つのフィナンシェが彼女の中へ消えていく。

俺はキッチンの壁にもたれたまま、その様子をぼんやり眺めていた。

職場の椅子に座り、紙袋を開けて、小さく息をつきながらゆっくり味わう——そんな姿を想像していたのに。
現実は、ダイニングキッチンの片隅で一瞬のうちに消えたフィナンシェ。目論見は見事に外れた。

でも、不思議とがっかりはしていなかった。
フィナンシェを咀嚼している機嫌よさそうな表情。それだけで、買ってきた甲斐は十分にあった。

「あー、おいしかった」
「それはよかった」

軽くなった空気の中で、俺もようやく椅子に腰を下ろした。

(了)


お読みいただきありがとうございます。
スキ、フォロー、コメントなどしていただけたら嬉しいです。

いいなと思ったら応援しよう!

五十嵐雉虎(イガラシ・キジトラ)|準文筆家|掌編小説・ショートショート作家 よろしければ、ぜひ応援をお願いします!

この記事が参加している募集