【ショートショート】赤鬼の残業、妻の雑談(1888文字)
赤鬼のゴンは、日の出より前に家を出て、夜空に星が輝く頃に帰ってくる。その頃には全身ドロドロ、顔もツノも泥やホコリで黒ずんでいたが、それも彼にとっては妻への愛情の証だった。
「これで明日も、たっぷり洗濯できるだろう」
そう信じていたのだ。
昔、ふと聞いた人間の言葉「鬼の居ぬ間に洗濯」。
鬼がいない間に、洗濯をするのが人間の何よりの喜びなのだと、ゴンは思い込んでいた。
だから、自分がいない時間を最大限に伸ばすために、ゴンは朝から晩まで汗水たらして働き、作業着をとことん汚して帰る。洗濯物が多ければ多いほど、人間である妻のサヨは幸せなのだと信じて。
サヨはそんな夫の帰りを、毎晩、寝ないで待っていた。
「隣の町のショッピングモール、来春オープンだって」
「来年の夏は、鬼ヶ島に泳ぎに行きたいね」
「お向かいの家のタカシくん、今年高校3年生だって。どこの大学に行くんだろうね」
夕食を食べるゴンに、サヨは矢継ぎ早に話しかけてきた。でも、ゴンはヘトヘトに疲れている。話の途中で眠り込んでしまうこともしばしばだった。
そんな生活が続いたある日のこと。その日もゴンは朝から土木現場で重機の音にまぎれ、ひとり黙々と作業を続けていた。陽ざしは強く、空気はむっとするほど湿っていたが、汗をぬぐうこともせず、鉄骨を担いで何往復もした。
「赤鬼さん、ちょっと休んだら? 人間でも分かるくら顔色が悪いよ……」
声をかけてくれた若い作業員の言葉も耳には入ってこなかった。胸の奥がチリチリと痛み、視界がにじむ。
“これだけ汗をかけば、今日も洗濯物、ばっちり作れたな“
そう思った瞬間、ふっと足元が崩れたような感覚に襲われた。
「……赤鬼さん!? 赤鬼さ――」
地面に倒れ込むゴンの肩を、誰かが受け止めてくれたようだった。
遠くでサイレンの音が鳴っている。
ゴンには、その音が夢のように遠く聞こえていた。
⸻
意識が戻ったとき、ゴンは白い天井を見上げていた。
目を横にやると、サヨが椅子に座ってこちらを見ていた。
「……ここは」
「病院。倒れたのよ。三日も寝てたの、覚えてる?」
サヨの目が赤くなっていた。ゴンはごそごそと起き上がり、ポツリと言った。
「ごめん」
「なにが?」
「三日間も洗濯物を増やしてあげられなかった…。“鬼の居ぬ間”も作ってあげられなかった」
サヨが驚いた表情をした。
「……え?」
「ほら、人間って、“鬼の居ぬ間に洗濯”って言うだろ? 僕が居ない間に、君が楽しく洗濯できるように、たくさん汚してたんだけど……」
一瞬の静寂のあと、サヨは急にくすっと笑った。
「……それ、本気で言ってるの?」
「本気だよ。俺なりに、君の楽しみを守ろうと思って……」
サヨはゴンの手をそっと握った。
「バカね。あなたが元気でいてくれるだけで、私、十分なのに。そこまでして働かなくても、全然やっていけるのよ」
ゴンは驚いた顔で見つめ返した。
サヨが続ける。
「“鬼の居ぬ間に洗濯“って、気兼ねする人やこわい人のいない間に,したいことをしたり,息ぬきしたりすることを言うのよ。あなたは気兼ねする人でもこわい人でも無いじゃない」
「そうだったのか……」
ゴンは、ここで初めて自分の勘違いに気がついた。
「私のほうこそ、気づいてあげられなくてごめんね。それに、疲れているのに話しかけてばかりで……。さみしかったの。あなたが帰ってきても、すぐ寝ちゃうから」
「……ごめん」
「でもね、せめて笑ってほしくて来年の話をたくさんしてたの。“来年のことを言うと鬼が笑う”って言うでしょ?」
ゴンの目が丸くなった。
「いやいや、あれは、そういう意味の言葉じゃなくて……」
「そうよね。私たち似た者夫婦よね。お互い、ちゃんと辞書を見なくちゃ。でも、あなたを笑わせたかったのは、本当」
しばらくふたりは、何も言わずに見つめ合って、それから同時に、ふっと吹き出した。
「これからは、もっとちゃんと、一緒にいて話そう」
「うん。頑固な汚れは少なくていい。あなたが隣にいてくれる方がいい」
優しい空気が流れる病室で、サヨがふと、恥ずかしそうに視線を落とした。
「……それからね」
「うん?」
「できれば……来年には赤ちゃんが欲しいなって、思ってるの」
ゴンの目がまるくなり、次の瞬間、赤い顔がさらに真っ赤になった。
「海水浴には行けなくなっちゃうかもしれないけど……それでもいい?」
ゴンはしばらく黙ってから、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「……いいよ。それ、すごくいい」
サヨは目を細めた。
「やっと来年の話で笑ってくれた」
ふたりは顔を見合わせ、声をあげて笑った。
長かったすれ違いの時間が、まるで最初からなかったかのように、ほどけていった。
(了)
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