景行天皇の九州行幸
大和朝廷の全国統一 第十三話 第十二代景行天皇と日本武尊 ② 景行天皇九州行幸 大分編
ヘッダー画像は、「さんふらわあ」の甲板で見た朝日。
はじめに
私は、景行天皇の御代を3世紀末から4世紀前半と想定しています。これは、私の記事を続けて読んでいただいている方はご存知かと思いますが、神武天皇以来、歴代天皇の時代について考えてきた年紀の延長線上にあります。詳しい年数を書かない理由は、このnote記事「記紀の旅」の目的の一つが、その検証を行うことにあるからです。最後には年表を完成させたいと考えています。
なお、『古事記』には景行天皇の九州行幸は記されていません。この記事は、『日本書紀』の記述をもとに進めています。
周防国にて
景行天皇の九州行幸は、「十二年秋七月、熊襲反いて朝貢らず」という事件から始まります。そして、九月五日に周芳の娑麼(山口県防府市)に着いたと記されます。
宮城森
景行天皇の行在所跡と伝わる「宮城森」を訪れましたが、残念ながら防災広場の工事中でした。

玉祖神社
所在地: 山口県防府市大字大崎1690
周防国一宮 延喜式内社
景行天皇は玉祖神社で戦勝祈願したと伝わります。





神夏磯媛と四人の賊
四人の賊の名は、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折です。各々の拠点は、以下の地図のイメージに近いと考えています。古代の道は正確にはわかりませんが、例えば麻剥や耳垂の拠点は筑紫平野へ通じる道にあったと推測されます。また、鼻垂の拠点は宇佐付近にあり、大分・宮崎や阿蘇・熊本へ向う道の要所だった可能性があります。
結局この4人の賊は、麻剥を懐柔して、他の3人をおびき寄せてまとめて討伐されました。
景行天皇は、ついに豊国に上陸し、長峡県に行宮を建てました。「そこを名付けて京という」と記されています。現在の福岡県京都郡および行橋市周辺にあたります。

ここまでのおさらい
景行天皇12年7月、熊襲が叛いた知らせを受ける。
8月に筑紫へ向かい、9月5日に周芳の娑麼に到着。
神夏磯媛が服従し、4人の賊も討伐される。
その後、筑紫に入り、豊国長峡県で行宮を建てる。
そして10月に、碩田国(大分市)に至った。
つまり、周芳の娑麼に到着してから、およそ1ヶ月ほどの期間で起こった出来事ということになります。
豊国にて

以前、何かの記事で『日本書紀』の記述に異を唱える内容を目にしました。その記事では、「碩田国(大分市)に至られた。(中略)次いで天皇は速見邑に至られた」という記述に対し、「豊前国長峡県から移動すると、速見邑(速見郡)は大分市の手前にあるので、順序が不自然だ」と指摘していました。
地理的にはその通りですが、先ほどの日程を考えると、豊国長峡県の行宮から碩田国(大分市)へは船で移動したと考える方が自然です。船での移動ならば、『日本書紀』の記述に大きな矛盾はありません。碩田国は地名の由来を記しているだけなので、実際には少し立ち寄った程度なのかも知れません。
速見邑で上陸した景行天皇は、ここで速津媛という者が帰順してきました。そして、鼠の石窟に二人、直入県には三人の土蜘蛛がいて、いずれも皇命に従わないと言っていると聞きます。
景行天皇は「来田見邑」まで進みます。
宇奈岐日女神社
大分県由布市湯布院町川上2220 式内社 景行天皇12年10月に当地の速津姫が勅を奉じて創祀したとも伝えられています(諸説あり)。





宮処野神社
土蜘蛛を討つために来田見邑に行宮を建て軍議を開いたと『日本書紀』は記します。その来田見宮の伝承地とされるのが、大分県竹田市久住町仏原の宮処野(宮處野)神社です。






景行天皇の軍勢は、石窟の賊を討伐し、直入県にいる打猨・八田・国摩侶という3人の土蜘蛛を打ち破るために禰疑野へ向かいますが、山間から雨のように矢を射られ、一旦城原まで退却します。
城原八幡大社
景行軍が退却し行宮を設けたとされるのが、大分県竹田市米納の城原神社(城原八幡社)




禰疑野での土蜘蛛討伐
天皇は兵を整え、再び禰疑野へ向かい、打猨・八田・国摩侶の3人の土蜘蛛を打ち破ります。この時に、志我神・直入物部神・直入中臣神に戦勝を祈願したと記されます。また、『豊後国風土記』には、「景行天皇が兵をねぎらわれた。それで禰疑野という」と記載されています。
伝承地
それぞれの記述に基づく伝承地がありますが、未見ですので名称だけ紹介しておきます。
志加若宮神社
豊後大野市朝地町志賀にあり、戦勝を祈願した【志我神】(綿積神)ゆかりの神社です。
籾山八幡社
竹田市直入町大字長湯にあり、戦勝を祈願した【直入物部神】ゆかりの神社です。
直入中臣神社
由布市庄内町阿蘇野にあり、戦勝を占った【|蹈石《ほみし》】と、戦勝を祈願した【直入中臣神】ゆかりの神社です。
禰疑野神社
竹田市今にあり、土蜘蛛を討伐し、兵をねぎらった地名に由来する神社です。
まとめ
11月には景行天皇は日向国高屋宮に移られたと記されます。記述に従えば、速見邑から土蜘蛛討伐も1ヶ月足らずの間の出来事ですから、各行宮も1日から数日滞在しただけだと考えられます。『日本書紀』は、景行天皇の九州滞在期間を景行12年から19年(7年間)と記していますが、豊国での出来事は九州上陸からわずか3か月間のことでした。
しかし、短期間であったにもかかわらず、『豊後国風土記』には景行天皇に関連する記述が多く記されています。一方で、なぜかそれ以前の時代の記述がほとんどありません。現伝するのが抄略本なので、元はいろいろ書かれていたのかもしれませんが、他の『出雲国風土記』や『播磨国風土記』などと比べると、土地の開拓神や神話が載っていないんですよね。
「風土記」について少し触れておきます。和銅3年(713)に出された元明天皇の「風土記撰進詔」を受けて編述されたもので、解文という律令制下における下級の諸官庁から上級の官庁に提出された公文書です。今で言うと、都道府県庁から国の監督官庁へ提出する文書のイメージでしょうか?
解文は、書式に一定の決まりがありました。例えば「郡郷名に好字をつけること」、「山川原野などの地名の由来」、「伝承されている旧聞異事」などについて筆録を命じています。余談ですが、(以前も書きましたが)奈良時代の平城京には、役人、今で言う国家公務員が1万人以上いて、給食もあったんですよ! そんな時代の話です。
現伝する「風土記」は、常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の5か国で、ほぼ完本として残るのは『出雲国風土記』(733年)だけです。『豊後国風土記』は、原文の要点や一部だけを抜き出しまとめた「抄略本」が伝わるだけで、いつ完成したかもわかりません。出雲風土記が733年ですから、同じ頃だとすると、『日本書紀』(720年)よりは後になると思います。
今回の記事を読んでいただいて、豊国には抵抗した部族(土蜘蛛)しかいなかったというイメージで捉えるのは違うと思うので付け加えておきます。『日本書紀』景行天皇紀に記される「その徒衆は、はなはだ多く、一国の魁帥(一国の首領)である神夏磯媛」や、「一所の長である速津媛」の帰順。そしてその決定に追随しない周辺の部族から見える世界は、この時代、九州はまだ諸国が乱立し、各地には賊もいて、不安定な状態であったのだろうということです。
彼の国の歴史書には、要約すると、「倭国に大乱があり、一女子を王に共立することで治まった(中略)。その女王が死に、男王が継承すると再び内乱が起こり、13歳の台与を立て治まった」とあります。台与を立てた後、どうなったかは史書には記されていません。
記されないはずです。卑弥呼の死は247年か248年です。238年 魏が公孫氏を滅ぼし、楽浪・帯方郡を接収。265年には魏自体が滅びます。江南の地で存続していた呉も280年には滅亡。統一した晋(西晋)も動乱続きで、313年に事実上消滅してしまいます。
金印を授かり、魏の後ろ盾で安定を保っていた邪馬台国とその連合は、魏の滅亡で弱体化したと考えるのが自然です。私の想定する景行天皇の時代は3世紀末から4世紀前半で、まさにそうした国際情勢の中で九州行幸が行われたと考えています。大和は邪馬台国ではありません。
この後も引き続き、景行天皇の九州行幸について見ていきたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。
おまけ
湯布院の観光名所・金鱗湖。絵になる景色で印象に残りました。

【参考文献】
日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
風土記 吉野裕訳 平凡社
神社のいろは要語集 神社本庁 扶桑社
掲載神社の由緒書
ナレッジジャパン検索『日本地名地理体系』 『国史大辞典』『日本大百科全書』ほか。
