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伊勢神宮のはじまり

倭姫命物語 第十五話 伊勢の神宮のはじまり

はじめに

 倭姫命一行は宮川流域を後にし、いよいよ五十鈴川へと進みます。道中では地名の由来ややしろを定めた事などが語られますが、今回は特に、矢田宮やたのみや家田田上宮やたのたのうえのみや奈尾之根宮なおしねのみや、そして最後に五十鈴宮いすずのみや、現在の皇大神宮(内宮)を紹介します。

 今回訪れた場所




矢田宮やたのみや

 『倭姫命世紀』に、「矢田宮に幸行みゆきしたまひき」という一行があるだけです。【神宮神田】の南東付近だとされますが、他の「元伊勢」と異なり、比定地とされる社はありませんでした。

※個人所有の祠はあります。

神宮神田じんぐうしんでん

 古来より、日本人は「米」を大切な食物としてきました。神様にお供えする食事である「神饌しんせん」においても、米は最も重要な供物とされています。神宮の祭祀は、米作りと密接に関わっており、神宮神田では、米の収穫までの節目で、様々な祭祀が行われます。

 『日本書紀』には、天孫降臨の際、天照大神あまてらすおおみかみが孫である瓊瓊杵尊ににぎのみことに伝えたとされる「三大神勅さんだいしんちょく」の話が記されています。その一つである、「斎庭ゆにわいなほの神勅」は、天照大神が高天原たかまのはらで食されている稲穂を瓊瓊杵尊に授けたという内容で、日本人が米を食するようになった起源とされています。

 神宮神田は東西500m、南北60mの広さ3万平方メートルを有し、神宮125社の祭祀に供される御料米がここで収穫されています。


北西の角に建つ標柱と神田全景


家田田上宮やたのたのうえのみや


 こちらは「家田」と書いて「やた」と読みます。伝承地は「神宮神田」標柱付近に位置しています。

大土御祖おおつちみおや神社

所在地 : 三重県伊勢市楠部町尾崎2132
御祭神 : 大国玉命おおくにたまのみこと水佐々良比古命みずささらひこのみこと水佐々良比賣命みずささらひめのみこと

神社は五十鈴川の瀬に鎮座し、神田の土地を守る神と水の神が祀られています。神田では毎年5月上旬に「神田御田植初しんでんおたうえはじめ」の儀式が執り行われ、儀式の後には、苗を植え終えた人々が大土御祖神社へ移動し、豊年を祈る田舞が奉納されます。

内宮の摂社 式内社
五十鈴川の瀬にある大土御祖神社の鎮守の森


櫲樟尾くすお神社

所在地 : 三重県伊勢市楠部町1005
御祭神 : 櫲樟尾乃大神くすおのおおかみほか。

もう一つの比定地です。現在の社地は大土御祖神社の隣に位置していますが、500mほど行くと旧跡地に碑があるとのことでしたので、そちらにも足を運びました。

 鳥居と社号標
由緒書
拝所
旧社地の石碑と祠
「くすおじんじゃあと」と読むようです


大田命おおたのみこと大若子命おおわくごのみこと大幡主命おおはたぬしのみこと

 『皇太神宮儀式帳こうだいじんぐうぎしちょう』には、【家田田上宮やたのたのうえのみや】において猿田彦神さるたびこのかみの後裔であり、宇治土公うじとこの祖である大田命が、天照大神の鎮まる「五十鈴の川上」を薦めたと記されています。また、倭姫命が家田の地で耕作法を定められたことも記されています。

 一方、『倭姫命世紀やまとひめのみことせいき』では、大田命は【奈尾之根宮なおしねのみや】に登場し、【家田田上宮】では、同書を編纂した度会氏の祖とされる大若子命(大幡主命)が天照大神の朝夕の食事に供える御田みた(神宮神田)を定めたことが記されています。

 天照大神の御饌都神みけつかみ(食事を司る神)豊受大神とようけのおおかみを祀る外宮神官である度会氏としては、自らの祖先である大若子命が御田を定めたということにしたかったのではないかと私は考えています。


奈尾之根宮なおしねのみや


 奈尾之根宮は『倭姫命世紀』にのみ記述がみられる場所です。

宇治山田うじようだ神社

所在地 : 三重県伊勢市中村町918
御祭神 : 山田姫命ようだひめのみこと
延喜式内社 内宮摂社

御祭神は五十鈴川の守り神であり、「興玉の森」に鎮座。ここはかつて大田命が住んでいた場所とも。


津長つなが神社

所在地 : 三重県伊勢市宇治今在家町字柏崎153-1
御祭神 : 栖長比賣命すながひめのみこと
内宮摂社 延喜式内社

内宮の宇治橋近くに位置し、倭姫命の時代にはこの辺りが五十鈴川の船着場であったようです。


皇女こうじょの森

 もう一か所、奈尾之根宮の伝承地と言われているのが「皇女の森」です。森と言ってもご覧の通りですが、栲幡斎王たくはたさいおう稚足姫わかたらしひめ)の悲しい逸話の伝承地でもあります。栲幡斎王の話は外宮創建にも関わりますので、豊受大神の遷宮の話の中で触れます。

皇女の森
宇治乃奴鬼神社うじのぬきじんじゃ社域」とあります。宇治乃奴鬼神社は内宮末社で現在は前述の大土御祖神社に同座していますが、かつてはここにあったようです。

『倭姫命世紀』の記述

 『倭姫命世紀』には、奈尾之根宮で大田命が五十鈴川の河上を紹介したことが記されています。どのように書かれているのかを見てみましょう。

 倭姫命が家田田上宮やたのたのうえのみやからさらに巡幸され、奈尾之根宮なおしねのみやにいらっしゃると、出雲の神の子である吉雲建子命よしくもたけこのみこと(別名、伊勢津彦命いせつひこのみことまたは櫛玉命くしたまのみこと)と、その御子である大歳神おおとしのかみ桜大刀自命さくらおおとじのみこと、そして山の神大山祇命おおやまつみのみこと朝熊あさくまの水神らが、倭姫命をお迎えするために、盛大な饗宴を用意していました。 

 その地で倭姫命は、猿田彦神の子孫で、宇治土公うぢのつちぎみの祖である大田命おおたのみことから、驚くべき話を聞かされます。「五十鈴川の川上には、大日本おおやまとの国の中でも格別な聖地があり、そこには、私が38万年の生涯で見たこともない不思議なものがあります。」「照り輝くこと、まるで太陽や月のようで、いつかこの国の偉大な主が現れる時に献上しようと、ずっとその神宝を守り祀ってきたのです」と聞かされました。 

 倭姫命がすぐにその聖地へ行って見ると、そこにあったのは、天照大神が高天原にいらっしゃった頃、伊勢の風早の国を宮処として見定め、天上界から投げ下ろされたという天逆太刀あめのさかたち(「太刀」は武具であり力の象徴)、逆鉾さかほこ(儀式で用いられる武器で、邪悪なものを鎮め、災いを祓う力の象徴)、金鈴きんのすず(場を鎮め、喜びや祝福を表す象徴)だったのです。倭姫命は、たいそう喜び朝廷に報告されました。

※私の意訳です


五十鈴宮

 長い旅路の末、天照大神の御鎮座地となる「五十鈴の河上」にたどり着きました。

『皇太神宮儀式帳』には、「朝日の来向かう国、夕日の来向かう国、浪の音の聞こえない国、風の音の聞こえない国、弓矢やともの音の聞こえない国と、大御ごころ鎮まる国」と記されています。

神の鎮まる場所は、静かで「けがれ」の無い空間であるべきとする神道の考え方がここに現れています。ここでいう「穢れ」とは、不浄なもの、騒がしさ、争いなど、神聖な空間にふさわしくないものを指します。



三年ぶりに皇大神宮を参拝しました。

皇大神宮


所在地 : 三重県伊勢市宇治館町
御祭神 : 天照坐皇大神あまてらしますすめのおおかみ

宇治橋
五十鈴川
神苑
御手洗場みたらし
正宮 
御敷地みしきちから
荒祭宮あらまつりのみや。
風日祈宮かざひのみのみや
御稲御倉みしねのみくら


500年後


 天照大神が五十鈴の河上(皇大神宮)へ鎮まったのは、垂仁天皇26年のこととされます。

天照大神が五十鈴川の河上に鎮まってから約500年後、雄略天皇22年に、外宮の豊受大神が伊勢に遷座したと『止由気とゆけ宮儀式帳』(804年)に記されています。実は『記紀』には外宮に関する記述が一切ないのです。


 これまでの旅路を経て、ついに天照大神が五十鈴川の河上に鎮まりました。しかし、『倭姫命世紀』の核心部分である豊受大神については、まだ謎が残されています。私自身、豊受大神については長年疑問を抱いてきました。次回以降の記事で、豊受大神について私なりの解釈を提示したいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


おまけ

ベタですが、お土産に買って帰りました。神宮参拝の後の赤福は、私にとってのもはや儀式です(笑)


【参考文献】

日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
神社のいろは要語集 神社本庁 扶桑社
倭姫命の御巡幸 岡田登監修 アイブレーン
Google Gemini Pro
ナレッジジャパン検索 『日本国語大辞典』『国史大辞典』ほか。




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