元伊勢二所と猿田彦神
倭姫命物語 第十話 元伊勢二所と猿田彦神
はじめに
このシリーズは、倭姫命が御杖代として各地を巡り、天照大神が伊勢の五十鈴川の川上に鎮まるまでに訪れた、いわゆる「元伊勢」と呼ばれる伝承地を巡っています。
今回は、「奈具波志忍山宮(鈴鹿小山宮)」と「藤方片樋宮」の伝承地を紹介し、それらに関連した猿田彦神について考察します。最後に、猿田彦神の総本宮である椿大神社を紹介します。
倭姫命の足取り
鈴鹿山脈を迂回し、鈴鹿と伊吹山地の間を抜けて、美濃・尾張、そして伊勢国を南へ進んできました。
今回訪れた2か所と、元伊勢ではありませんが記事に関連する【椿大神社】もマークしています。

奈具波志忍山宮の伝承地について
『皇太神宮儀式帳』には、【鈴鹿国 小山宮】と表記されています。
『儀式帳』によると、この地に至ったとき、川俣の県造である大比古命が「味酒鈴鹿の国」と答え、神田と神戸を進上したと記されています。
また、安濃の県造は「草蔭の安濃の国」と答え、こちらも神田と神戸を進上したとも記されます。『倭姫命世紀』にも同様の記述があります。
忍山神社
所在地 三重県亀山市野村4-4-65
御祭神 猿田彦命・天照大神・天児屋根命他 延喜式内社
猿田彦の一族が祖神を祀ったのが始まりとされ、また、日本武尊の妃となった【弟橘媛】の生誕地と伝わります。
『日本書紀』は、弟橘媛を穂積氏の忍山宿禰の娘と記しますが、神社の社伝によると、忍山宿禰は当社の神職であったとされます。






布気皇館太神社
所在地 亀山市布気町1663。こちらも延喜式内社で、奈具波志忍山宮の比定地です。御祭神は天照大神・豊受大神・伊吹戸主神他。近郊の七ヶ村が神戸郷と呼ばれていたと伝わります。忍山神社とは直線で1キロ程の距離にあり、両社の周辺には縄文時代の遺跡も点在しています。そうしたことから、この地域が古くから人の住む場所であったことがうかがえます。




藤方片樋宮について
『皇太神宮儀式帳』には、藤方片樋宮で駅使(倭姫命に付き添う使者)である安倍大稲彦命が阿佐加の悪神を平定したと記されます。
一方、『倭姫命世紀』には、異なる内容が記されます。そこには、悪神は【伊豆速布留神】という神で、百人通れば、五十人をつかまえて命を奪うほどの強暴な神として記されています。
倭姫命は、大若子命を使わし、阿佐加の山の嶺に社を建てて荒ぶる神を鎮め祀りました。その報告を受けた倭姫命が「宇礼志」と言ったことから、その場所を宇礼志(現在の松阪市嬉野町)と名付けたと記されています。また、阿佐加の浜では、吉志比女と吉彦が【伎佐】(赤貝)を献上したことや、采女の忍比売が天の平瓮を作り、赤貝を盛って天照大神にお供えしたことなどが記されています。
加良比乃神社
三重県津市藤方森目335。御祭神 御倉板擧神・伊豆能賣神・天照大神他 延喜式内社
「加良比」は「片樋」がなまったものだそうです。寛保二年(1742)の「片樋宮」の石標がありました。





猿田彦神について

伊勢の神宮とのかかわり
神宮の祭りは、日本人が古来、命の糧としてきた米に深く関係しています。特に、その年に初めて収穫された新穀を最初に天照大神に捧げ、神の恵みに感謝する【神嘗祭】と、6月と12月に行われる月次祭を合わせて【三節祭】と呼びます。
恒例祭祀の中で神宮にとって最も重要な【三節祭】の一連の儀式は、土地の守り神である【興玉神】を祀る興玉神祭から始まります。
興玉神と猿田彦神の関係
【興玉神】は、天照大神が伊勢に鎮座する際に重要な役割を果たしたとされ、猿田彦神の別名、或いは猿田彦の子孫とされる大田命と言われています。
猿田彦神の由来
【猿田彦】の名の由来は諸説ありますが、その一つに、「サ(神稲)ル(の)タ(田)」すなわち「神稲の田」を意味するという説があります。
「記紀」における猿田彦神の記述
『古事記』の記述
天孫降臨の際、猿田彦神は天の八衢、すなわち高天原と地上の分かれ道にいて、「上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神」として登場します。天宇受売神の問いに答えて、「国つ神」の「名は猨田昆古神」だと名乗ります。その後、天孫・瓊瓊杵尊を先導し、役目を果たします。
先導を終えた猿田彦神は伊勢国へ向かいます。阿邪訶(三重県一志郡)で漁撈をしているとき、【比良夫貝】(タイラギ)に手を挟まれ、溺れたと記されます。
溺れた後、「海底に沈んでいた間の名前を、【底に着く御魂(底度久)】といい、海水がつぶつぶに泡と立つ時の名前を、【粒立つ御魂(都夫多都)】といい、その泡が海面にはじけた時の名を、【泡咲く御魂(阿和佐久)という」とも記されています。
『日本書紀』の記述
猿田彦神は、『日本書紀』天孫降臨の段、第一の一書で、衢神として表され、「鼻の長さ七咫、背の高さ七尺あまり」、「口尻明り耀れり、眼は八咫鏡の如くして、てりかがやけること赤酸醤に似れり」とあり、この記述が「鼻は非常に高く、身長はきわめて高く、恐ろしい顔つきをした」という猿田彦神のイメージをつくっています。
また、天鈿女が伊勢の狭長田の五十鈴川の川上に猿田彦神を送ったことも記されます。
時代による変遷
日向で天孫・瓊瓊杵尊を先導する役割を終えて天鈿女と共に伊勢の地に行ったという「記紀」の記述によって伝承が生まれたのか、或いは伊勢を本拠とする猿田彦の一族がいたのか定かではありませんが、伊勢には猿田彦神を祀る神社が多いです。また、「道開きの神」として全国的にも人気の神様です。現代でも、多くの神社で祀られ、崇敬されています。
しかし、これらの信仰は必ずしも神話に描かれるままの猿田彦神への信仰では無いようです。中世・近世になると、仏教・道教・修験道などの影響を受け、猿田彦神は次第に様々な姿に変容します。「天狗」として表されたり、「猿」と「庚申」を混同して「庚申信仰」と習合したり、「道祖神信仰」とも結びついて、地域や時代によって異なる神格化や信仰の形態を持つようになりました。
伊豆速布留神と猿田彦神
『倭姫命世紀』の記述と伝承
先述のように、藤方片樋宮に至った時に悪神がいて、『倭姫命世紀』はその悪神の名を伊豆速布留神と記します。一方、地元には、阿佐鹿で死んだ猿田彦神が丁重に祀られることがなかったために「あらぶる神(荒ぶる神)」になったという伝承があります。
祀られる神社
三重県松阪市大阿坂と小阿坂には、同名の阿射加神社が二社あり、荒ぶる神となった猿田彦神の御魂を鎮め祀ったとされています。






椿大神社
伊勢国一宮で、猿田彦大本宮である椿大神社。宮司山本行隆氏が語る猿田彦大神とは、
天照大神と幽契(契り)を結び、天孫瓊瓊杵尊を導かれた。天細女命と夫婦の契りを結び、興玉・宮比の神として、日本民族を指導して、日本国家の基礎を固め、総鎮護の神として、或いは道祖の神・導きの神・興玉の神・船玉神・精大明神・白髭大明神・塞神・岐神・供品神・田中神・土公神・山の神・庚申神に千変万化し、ついには天狗の面に模され、お多福面と共に、今日に言い継ぎ、語り継がれて斎い祀られたわけです。
(中略)
猿田彦大神は、日本人の祖先神と申しますか、国つ神の祖神であり、言葉の上では、「鼻が高く、行く先が見え、眼光けいけいと輝き、物の先駆けとなり、力強く精力絶倫、何事にも負けず、いかなることも成し遂げる不撓不屈、健康無比で、しかも有能な神通力、霊力を発揮できる神様」とされ、万有一切を神化せしめ、あらゆる罪、咎、穢れ、方災を除ける大祓の「根本神」であった。











おわりに
人は先が見えないと不安に感じるものです。そのため、天孫・瓊瓊杵尊を導いた猿田彦神や、神武天皇を導いた八咫烏など、行く先を照らし導いてくれる神は、古今を通じて人々に人気があります。
今の日本も、行く先が見え、物の先駆けとなり、何事にも負けず、いかなることも成し遂げる不撓不屈、有能な人に国を導いてほしいものですね!
椿大神社へ行くと、毎回これ買って帰ります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【参考文献】
日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
先代旧事本紀 現代語訳 安本美典・志村裕子 批評社
椿大神社二千年史 椿大神社宮司 山本行隆著 たま出版
神社のいろは要語集 神社本庁 扶桑社
特選神名牒 八幡書店
倭姫命の御巡幸 岡田登監修 アイブレーン
ナレッジジャパン検索『日本人名大辞典』 『日本国語大辞典』『国史大辞典』ほか。
