つながった! 二つの皇統、大和と丹後。そして重心移動の物語
神功皇后の伝承地を巡る⑳ つながった!――二つの皇統、大和と丹後。そして重心移動の物語
ヘッダー画像 : 開化天皇陵(奈良市)
はじめに
四世紀後半の神功皇后の時代を追いかけてきたこのシリーズも、ここにきて一つの大きな流れが見えてきました。それは、断絶ではなく、二つの流れが合流していく物語でした。
忍熊王の反乱、廣田・生田・長田の神々、そして大和の杭(以前の記事で触れた、政権の楔としての役割)。一見ばらばらに見えるこれらの出来事が、一本の川の流れのようにつながってきたのです。
その核心にあったのは、開化天皇以後に見えてくる「二つの皇統勢力」の並立でした。
第九代 開化天皇の後、大和には〝二つの皇統勢力〟が並立していた!?
日本の歴史には、「南北朝」という時代がありました。足利尊氏が光明天皇を擁立した北朝(京都)と、吉野へ逃れた後醍醐天皇の南朝に朝廷が分裂した約60年間(1336〜1392年)です。
その動乱期とはちょっと意味が違うのですが、古代においても、〝二つの皇統勢力〟が並立していた時代があったのではないか。というのが私の考えです。
第九代・開化天皇には三人の皇子が記されています(日本書紀)。
崇神天皇(母 : 物部氏の伊香色謎命)
彦湯産隅命(母 : 丹波の竹野媛)
彦坐王(母 : 和珥氏の姥津媛)

皇位を継いだのは崇神天皇ですが、彦坐王と、その子である丹波道主(一説には彦湯産隅命子とも)の系譜も、丹波・近江・山城・美濃・伊勢などに広く伝承を残しています。

そのため三世紀頃の畿内では、大和盆地を中心とする崇神系統と、北近畿・中部地方に広がる彦坐王系統という、二つの皇統勢力が並立していた可能性が考えられます。
もちろん史料上、皇統は一系統として描かれています。しかし地理的に伝承を追っていくと、彦坐王の後裔と記される者が幾重にも浮かび上がってくるのです。

三つの反乱は「奈良盆地北部」で起きている
『記紀』には、初期大和政権の時代に三つの反乱が記されています。
崇神天皇の時代 埴安彦
垂仁天皇の時代 狭穂彦
神功皇后紀 忍熊王
興味深いのは、これらがすべて奈良盆地北部に関係する地域で起きていることです。

奈良盆地は四方を山に囲まれた天然の要害です。南の吉野・紀伊山地は特に険しく、東西も峠が限られています。
しかし北側だけは、標高100mほどの平城山丘陵が続き、敵の侵入を防ぐのが難しい地形です。しかし、そのことよりも、奈良盆地の北はどこへ続くかを考えた場合、それは山背国を経て、木津川・巨椋池・宇治川(瀬田川)を遡れば、近江へ。そして日本海へ通じます。また、陸路でも、伊吹山と鈴鹿山脈の間(東山道)を通れば、美濃から東国へ通じます。そして、それらは、まさに、彦坐王の子孫の伝承が多く残る地域なのです。
こうした点を踏まえると、奈良盆地の北側は、二つの勢力が接する“最前線”だったのではないかと考えられます。
丹後・近江という、もう一つの中心
これまでの記事で幾度も触れてきましたが、弥生時代から古墳時代初めにかけて、日本海側は大陸との交流において重要な役割を果たしていたと考えています。
丹後の弥生遺跡では、大陸との交易を示すガラス製の腕輪や鉄製武器などが出土しています。また弥生終末期最大級とされる赤坂今井墳墓もこの地域にあります。

この墳墓で使われた朱は、三重県の丹生鉱山のものと分析されています。すでに広域の交易ネットワークが存在していたことを示す資料です。
近江でもまた興味深い遺跡が見つかっています。守山市の伊勢遺跡は巨大な祭祀遺跡として知られ、近くから日本最大級の銅鐸も出土しています。『記紀』は、下の画像に見える〝近江富士(三上山)〟の麓にある御上神社の神職を指す「御上祝」の娘が息長水依比売(上記系図参照)。彦坐王はその娘を娶り、生まれたのが丹波道主(丹波比古多多須美知能宇斯王)であると『古事記』は記します。


さらに近江の銅鐸に使われた鉛は、中国華北産のものとされ、朝鮮半島経由の北九州とは異なる交易ルートを示している可能性があります。
九州でもわずかに銅鐸は出土しますが、それは小型の「朝鮮鈴」に近いものです。

こうした状況から、日本海側の交易ネットワークが当時重要な役割を担っていたと考えることができます。

丹後勢力は当初独立した有力勢力だった可能性があります。しかし、四道将軍・丹波道主の平定後、大和政権の広域政治の中に組み込まれ、結果、丹後で巨大前方後円墳の築造が始まったと考えられます。
三世紀、纏向の登場
三世紀になると、大和盆地で大きな変化が起こります。奈良県桜井市の纏向遺跡です。
ここでは巨大な人工水路「纏向大溝」が造られ、さらに日本最初期の前方後円墳が次々と築かれます。





この纒向遺跡からは、全国各地の土器が出土しています。多い順に、東海、山陰・北陸、河内、吉備の土器です。ここは、各地の勢力が集まる?集められた? “結節点”であり、まさに流れが一つになろうとする場所でした。

この纏向に宮があったと『記紀』が記すのが、第十一代・垂仁天皇と十二代・景行天皇です。
狭穂姫の物語
垂仁天皇の時代に語られる、狭穂彦と狭穂姫の物語は大変興味深い物語です。反乱を起こした兄とともに死を選ぶ皇后・狭穂姫は、最後に天皇へ進言します。
丹波道主の娘、日葉酢媛を後宮へ迎えるように――。
その言葉どおり、垂仁天皇は日葉酢媛を娶り皇后とします。
もしも私が『記紀』の編纂者だったら、この婚姻話には重要な意味を持たせます。
大和の皇統と彦坐王の皇統統合の象徴で、物語・系譜・政治が一気につながる名場面として。

垂仁天皇と日葉酢媛の子が景行天皇であり、さらにその時代には景行天皇の子・ヤマトタケルの伝説も語られます。そして統合の象徴として、娘の倭姫命は、天照大御神を伊勢へ導きます。
『記紀』は、景行天皇の九州行幸、日本武尊の熊襲討伐・東征、出雲の神宝の検校、伊勢の祭祀、石上創建などを描きます。そうした記述から、この時期に大和政権は、全国に支配地域を拡大していったことが読み取れます。
神功皇后の時代と「重心移動」
その少し後に登場するのが神功皇后です。年代には諸説ありますが、私は毎度申し上げている通り、四世紀後半頃を想定しています。
この時代になると、大和政権は、宗像から瀬戸内海を経て大陸・朝鮮半島へ向かうルートを掌握していきます。
神功皇后が三韓征伐の帰りに、紀伊や難波を経て忍熊王を討つプロセスも、日本海から瀬戸内へ――政権の“向き”が変わる瞬間だったのかもしれません。
交易と政治の重心は次第に瀬戸内海側へ移り、日本海側の役割は相対的に小さくなっていきました。
丹後で巨大古墳の築造が止まるのも、こうした政治・交易構造の変化と関係していると言えるでしょう。

エピローグ
時代は流れ、五世紀の雄略天皇の御代になります。この時代、伊勢の神宮には新たな神が迎えられます。
それが丹後に由来する豊受大神です。
内宮禰宜・荒木田氏の『太神宮諸雑事記』には、「この宮(外宮)の禰宜には、天村雲命の子孫である神主氏(度会氏)を別に定め置く」と記されています。
天村雲命は天火明命の系譜、すなわち尾張氏と同祖ということになります。

かつて丹後に勢力を持った氏族の系譜が、伊勢の祭祀の中に姿を変えて残ったのかもしれません。
栄えた土地も、やがて静かに歴史の中へ溶けていきます。
丹後に伝わる「浦嶋子」(丹後風土記逸文)の物語は、そんな栄枯盛衰を今に伝えているようにも思えます。
二つの皇統は、争って消えたのではありません。一つの流れとなり、形を変えて生き続けたのです。その後に政権の重心が静かに移っていった――それが、私がこのシリーズを通して辿り着いた一つの結論です。

断絶ではなく、合流。
その流れが、今も静かに続いています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
お知らせ
そして流れは、伊勢へ続く
大和と丹後、二つの流れが合流し、やがて伊勢の祭祀へと受け継がれていく。
今回たどり着いた結論は、Kindleでお届けする倭姫命の物語『神の引越し』へ、そのままつながっています。
4月15日、Kindleにて発売予定。
初めてのKindle出版となりますが、日本語版・英語版・中国語(繁体字)版の三言語でお届けする予定です。
詳細は、入稿完了後の次回記事(4月11日)であらためてご案内します。
二つの流れが、なぜ最後に伊勢で一つになったのか――その答えを、倭姫命とともに歩く一冊でお届けします。
絶妙なプロモーションでしょ😂
余談
学術的な立場から見れば、今回の結論には、史料の根拠や推論の飛躍について、さまざまな指摘もあると思います。
それは当然のことです。
学術は、史料をもとに一つひとつ積み上げていく営みだからです。
ただ一方で、歴史は、数学のように唯一の答えが出るものではありません。
とくに古代史は、残されている史料そのものが限られており、そこにはどうしても“空白”が生まれます。
その空白に対して、どう向き合うのか。
学術は、証拠のあるところまでで立ち止まります。
私は、その先にある「流れ」を考えます。
学術は、個々の事実を精密に積み上げていくもの。
私は、それらがどのようにつながり、どこへ向かうのかを見ています。
多くの研究は、断絶や変化に注目します。私は、その中に流れを見ています。
どちらが正しい、という話ではありません。見ている場所が、違うだけなのだと思います。
学術は「真実(Fact)」を掘り下げ、私はこれからも「真実味(Truth)」を紡いでいきたいと思います。
