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石上神宮の創祀

大和朝廷の全国統一 第九話 第十一代 垂仁すいにん天皇 ④



1. 石上いそのかみ神宮の創祀に関する二つの記述


1-1 『先代旧事本紀』の記述

先代旧事本紀せんだいくじほんぎ』「天孫本紀」によれば、

  第十代崇神天皇の御代に、伊香色雄命いかがしこおのみこと布都ふつ大神(布都御魂ふつのみたま大神)の社を大倭国やまとのくに山辺郡やまのべのこおり石上いそのかみ村に遷して建てました。饒速日命にぎはやひのみことが天から授けられた天璽あまつしるしみずの宝(布留御魂ふるのみたま大神)を同じ場所に共に納め、石上大神いそのかみのおおかみと名付けた。

先代旧事本紀 現代語訳 安本美典・志村裕子 批評社を元に意訳しています

と記されています。


1-2 『日本書紀』の記述

 『日本書紀』の第十一代垂仁天皇紀本文には、

(本文)
  五十瓊敷入彦命いにしきいひびこのみことが、茅渟ちぬ菟砥うとの川上宮で一千口の剣を作り、石上神宮へ納めた。五十瓊敷入彦命に石上神宮の神宝を掌らしめた。


(異伝)
 五十瓊敷入彦命が菟砥《うと》の河上にいた際、河上という名の鍛冶を召して大刀一千口を作らせた。最初は忍坂邑おっさかのむらに納めたが、後に石上神宮へ移した。「春日臣かすがのおみの族で、市河という者に治めさせよ」という神託があった。これが物部首もののべのおびとの始祖である。

(中略)

五十瓊敷入彦命から妹の大中姫命おおなかつひめのみことを経て、物部十千根大連もののべのとおちねのおおむらじが治めるようになった。これがいま(日本書紀編纂時)まで物部連もののべのむらじが神宝を管理することの所以である。

日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックスを参考に意訳しています

と記されます。 


1-3 解説

 物部氏に伝わる神宝を祀ったことを創祀とする『先代旧事本紀』に対して、『日本書紀』は「朝廷の武器庫」を強調していて、そこが両書の違いがあらわれていて面白いところです。

『日本書紀』異伝にあるように、その後物部氏(石上氏)が神宝を管理し、物部氏の総氏神とされたことは事実です。また、『日本後紀』には、桓武かんむ天皇の延暦23年(804)に石上神宮の兵仗へいじょう(武器)を都(平安京)の近く山城国葛野郡に移す際に、延べ157,000人余りの人員を要したという記載があり、かなりの規模の武器庫だったことが伺えます。

『先代旧事本紀』の記述を優先した記事を過去に書いていますので、今回は『日本書紀』「異伝」に記される内容から、石上神宮の創祀を考えてみようと思います。



2. 『日本書紀』を深掘りすると


2-1 五十瓊敷入彦命とは

 五十瓊敷入彦命いにしきいりひこのみことは、垂仁天皇の第一皇子です。母は日葉酢媛命ひばすひめのみこと。弟は第十二代景行けいこう天皇で、妹には伊勢神宮の創祀にかかわる倭姫命やまとひめのみことがいます。

2-2 茅渟ちぬ菟砥うとの河上宮はどこ?

 大阪府阪南市の玉田山公園には「菟砥河上宮跡」の碑があリましたが、2021年に公園が廃止され、現在は立ち入ることができません。


3.誉津別王の逸話の主に行きつきました

3-1 鳥取神社

 看板に土地所有者が掲示されていたので、近くの鳥取神社を訪れました。 

鳥取神社
近在の村の神様が合祀されています


3-2 波多神社

境内に波多神社がありました。そしたら、なんと鳥取氏の祖神を祀る神社ではありませんか!

あの「秦」氏の神社ではありません
拝殿
由緒書


3-3 誉津別王の逸話

  垂仁天皇紀には、狭穂姫さほびめの子で言葉を発しない王子、誉津別王ほむつわけのみこの逸話が描かれます。『古事記』と『日本書紀』では話の内容が異なりますが、『日本書紀』には、

(※意訳しています)
 誉津別王が白鳥(鳴鵲くぐい)を見て初めて言葉を発します。天皇は「この鳥を捕まえて献上できる者はいないか?」と尋ね、鳥取造ととりのみやつこの祖である 天湯河板挙あめのゆかわたな(天湯河桁命とも)が名乗り出ました。彼は鳥を追いかけ、ついに出雲で捕まえて献上します。そしてその報奨として鳥取造の姓を賜りました。この時他に鳥取部ととりべ鳥飼部とりかいべ誉津部ほむつべ品遅部ほむちべ)も定めた

日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス

と記されます。

 天湯河板挙あめのゆかわたなが、祖神の角凝命つのこりのみことを祀ったのが波多はた神社です。角凝命は、神魂命かみむすひのみことの子で、天湯河板挙は神魂命の後裔です。神魂命は『古事記』や『日本書紀』では出雲神話に登場し、『出雲国風土記』にも記される出雲の神です。

 誉津別王ほむつわけのみこの逸話は少々難解で、解釈がさまざまあります。私は「出雲で霊鳥とされる鵠を、大和にたてまつった(つまり大和への服従)」を示しているのではないかと考えています。出雲が大和に服従した件は、後日記事にします。


4.石上神宮の創祀と物部氏


 話が違う方向に行ってしまいました。石上神宮の話に戻します。

4-1 春日臣 市河

 『日本書紀』異伝には、「春日臣かすがのおみの族で春日市河かすがのいちかわ」が登場します(冒頭の日本書紀引用文参照)。しかし、ここは少し不可解です。春日臣は6世紀頃から和珥氏の本流が名乗った別姓であり、春日市河は神功皇后の時代に活躍した建振熊命たけふるくまのみことの孫ですから、どちらも時代があいません。ただし、内容から察すると、『日本書紀』編纂時に纂記さんき(氏族の系譜をしるした文書)を提出した18氏族の中で、おそらく春日氏(和珥氏)の伝承を載せたものと推察できます。

 そこで物部氏もののべうじ和珥氏わにうじの関係について考えてみました。

4-2 和珥氏と物部氏の古墳群

『和爾地域周辺の古墳時代』から画像を拝借しました

 現在の西名阪自動車道の北側に和珥氏の古墳群があります。そして南側には物部氏の古墳と言われる「石上・豊田古墳群」・「別所古墳群」があります。物部氏の古墳群には100m超の首長墓が3基あるものの、いずれも6世紀の築造と推定されています。一方、和珥氏の古墳群は時代によって場所が移りますが、櫟本いちのもと地区には4世紀初頭から大型の前方後円墳が築かれていきます。


4-3 和珥氏と物部氏は共に軍事氏族

 和珥氏と物部氏は、共に軍事氏族という一面を持ちます。特に大和朝廷初期においては、崇神天皇の御代に謀反を起こした建埴輪安彦たけはにやすひこを討った彦国葺ひこくにぶくや、神功皇后の三韓征伐に従軍し、帰路に武内宿禰と共に麛坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこを討った武振熊たけふるくまなど、和珥氏の将軍の活躍が記されます。


4-4 和珥氏と物部氏の関係

 異伝の「石上神宮の神宝を春日臣かすがのおみの族で、市河という者に治めさせよ」という神託があり、これがいまの物部首もののべのおびとの始祖である」という記述を元に考えるならは、物部首の一族は和珥氏から派生したことになります。

  石上神宮は物部氏の総氏神とされますが、石上神宮周囲の古墳を見ると、大和政権中枢の軍事大族 物部氏の本拠地としては見劣りします(物部氏の本貫地は河内国或いは奈良盆地の西側か)。物部氏の本拠地ではないが、朝廷の武器庫である石上神宮を守っていたと解釈するのか、或いは、古墳群が近接する和珥氏と物部氏は近しい関係ととらえるか。

 ちなみに『古事記』や『日本書紀』は、第五代 孝昭天皇と尾張氏の娘 世襲足媛よそたらしひめの間に生まれた天足彦国押人命あまたらしひこくにおしひとのみことが和珥氏の始祖と記しますので、和珥氏は母系では尾張氏と繋がります。そして『先代旧事本紀』では物部氏と尾張氏を同祖としていますので、それらを考え合わせると、和珥氏は、物部氏・尾張氏とかなり近しい関係にあったのてはないでしょうか。


5.五十瓊敷入彦命の逸話の意味


    『日本書紀』垂仁天皇紀に、天皇は、五十瓊敷命と大足彦尊おおたらしひこのみこと(景行天皇)の兄弟に「おまえたちは、それぞれほしいものを言いなさい」と言い、五十瓊敷命は「弓矢を得たい」、大足彦尊は「皇位を得たい」と行って望み通りのものを与えられたという逸話が記されます。

 そして、五十瓊敷命は茅渟の菟砥河上で剣一千口を作り、その時に十の品部とものみやつこ(楯部たてぬいべ倭文部しとりべ神弓削部かむゆげべ神矢作部かむやはぎべ泊橿部はつかしべ玉作部たまつくりべ神刑部かむおさかべ日置部ひおきべ大刀佩部たちはきべ)を賜ったと記されます。(いずれも職工で、「部」というのは集団という意味)

 五十瓊敷入彦命の逸話は、見方を変えれば、これは物部氏のことを言ってるんじゃないかとさえ思えます。物部氏は、河内国に勢力を持ち、多くの品部を擁し、剣神を奉斎する軍事氏族です。それに「皇位をのぞむ」大足彦尊と、武器をのぞむ五十瓊敷入彦命の関係は、まさに皇統と物部氏の関係をあらわしているといえます。

※五十瓊敷入彦命は岐阜の伊奈波いなば神社にも伝承があります。今回のお題とは外れますので、いずれ彦坐王に関する記事で紹介しようと思います

伊奈波神社


6.おわりに


 今回は『日本書紀』の異伝から石上神宮の創祀について考えました。途中、あちこち話が飛んで、分かりにくかったかも知れません。また、物部氏や和珥氏の系譜については様々な解釈がありますので、あくまでその中の一つとしてお考えください。

最後は、先日久しぶりに石上神宮を訪れたので、その時の写真で締めます。


6-1 石上神宮境内

楼門
拝殿(国宝)
神杉

石上布留いそのかみふる神杉かむすぎかむさびて恋をも我はさらにするかも 柿本人麻呂

 草薙剣の荒魂を祀る境内摂社 出雲建雄神社
内山永久寺の鎮守社を移築した出雲建雄神社の拝殿(国宝)


6-2 布留の高橋

布留の高橋

石上布留いそのかみふる高橋たかはし高々たかだかいもが待つらむけにける 作者未詳

大国見山?
布留川
ハタの滝(本流)
ハタの滝(支流)
案内板


6-3 桃尾の滝(布留の滝)


6-4 石上神社

 桃尾の滝の南に位置します。伝聞ですが、石上神宮の元宮とも。


最後までお読みいただきありがとうございました。


【参考文献】
日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
日本後紀全現代語訳 上 森田悌 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
先代旧事本紀 現代語訳 安本美典・志村裕子 批評社
『古語拾遺』を読む 青木紀元監修 右文書院
風土記 吉野裕訳 平凡社
和爾地域周辺の古墳時代 天理市教育委員会
石上・豊田古墳群と別所古墳群 天理市教育委員会
石上神宮冊子 石上神宮
ナレッジジャパン 


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