古墳を訪ねる④ 箸墓古墳
『日本書紀』は、崇神天皇紀で箸墓古墳について以下のように記します。
この夜、倭迹迹日百襲姫命は、大物主神の妻となった。けれどもその神は昼は来ないで、夜だけやってきた。倭迹迹日百襲姫命は夫にいった。「あなたはいつも昼はおいでにならぬので、そのお顔を見ることができません。どうかもうしばらく留まって下さい。朝になったらうるわしいお姿を見られるでしょうから」と。大神は答えて「もっともなことである。あしたの朝あなたの櫛函に入っていよう。どうか私の形に驚かないように」と。倭迹迹日百襲姫命は変に思った。明けるのを待って櫛函を見ると、まことにうるわしい小蛇がはいっていた。その長さ太さは衣紐ほどであった。驚いて叫んだ。すると大神は恥じて、たちまち人の形となった。そして「お前はがまんできなくて、私に恥をかかせた。今度は私がお前にはずかしいめをさせよう」といい、大空を踏んで御諸山(三輪山)に登られた。倭迹迹日百襲姫命は仰ぎみて悔い、どすんと坐りこんだ。そのとき箸で陰部を撞いて死んでしまわれた。それで大市に葬った。
ときの人はその墓を名づけて箸墓という。その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。ときの人は歌っていった。
大坂踵登石群手逓伝越越難乎
大坂山に人々が並んで登って、沢山の石を手渡しして、渡して行けば渡せるだろうかなぁ
大市墓(箸墓古墳)






屯鶴峯
箸墓古墳は宮内庁治定で発掘調査が行われていませんので、『日本書紀』が記す〝大坂山の石〟が使われているかどうかわかりませんが、もし記述の通りだとすると、おそらく凝灰岩が露出している「屯鶴峯」から切り出したのだと思います。
まず地図をご覧下さい。箸墓古墳からするとほぼ真西にあたります。距離はだいたい20キロです。







當麻蹶速
二上山の麓、葛城市當麻に「當麻蹶速の塚」があります。『日本書紀』垂仁天皇紀で野見宿禰と相撲をとって敗れた人物です。勝った野見宿禰は當麻邑の土地をことごとく奪ったと記されます。力比べと言うより、この土地を巡る争いだったと思います。
野見宿禰は土師氏(古墳の造営や葬送儀礼に関わった氏族)の祖とされる人物で、新撰姓氏録には天穂日命の子孫と記されますので出雲国造家とも近しい関係です。なぜ當麻邑の人物と争い土地を奪ったかというと、先述の「屯鶴峯」が大いに関わっていると思います。石棺は凝灰岩でつくられることが多いですからね。



祖霊信仰
墓を造ることは、古代において重要な宗教的・社会的儀式であり、集団の一体感を強める役割を果たしていたと考えられます。仏教が普及する前には、「死者は祖霊となって一族や子孫を守護する」という祖霊信仰が縄文・弥生時代からあったと言われています。
余談ですが、現代では「先祖供養」は仏教寺院のイメージがあります。しかし、仏教は死後の魂が次の生へと輪廻転生し、最終的に解脱することを目的としていて、本来的には先祖供養の教えはありません。日本では、仏教を受容する過程で古来の祖霊信仰と習合し、独特の先祖供養が形成されたと考えられます。
弥生時代になると富の蓄積が可能になったことから、後期になると各地で指導者や有力者の大きな墓が造られるようになりました。字数が多くなるのでここは端折りますが、前方後円墳が突然造り始められたのではなく、弥生墳丘墓の延長線上にあると理解できます。
前方後円墳は宗教施設
前方後円墳は、単に権力者の地位を誇示するものではなく、祖霊信仰の要素が強くあって、一族を護る祖神を祀り、彼らからの霊的な加護を受けるための重要な宗教施設だったと考えられます。
血縁を基盤とした集団は、氏上をトップに、氏人、部曲、奴婢で構成され、そこに社会的地位に応じて朝廷から「姓」が与えられるようになります。これが5世紀頃に成立する「氏姓制度」ですが、制度自体は未完であったとしても前方後円墳が全国に築かれていく3世紀中には既に血縁集団が祖霊を信仰し、祭祀を行う行為は始まっていたと考えられます。
箸墓は大三輪氏の祖先伝承?
平城京へ遷都直後の『日本書紀』編纂者たちは、内裏(平城宮)の北側に何基も連なっている前方後円墳(佐紀盾列古墳群)を目にしていたでしょうし、編纂の時点ですでに大型の古墳は造られなくなっていたものの、現在知られているだけで全国に5000基近くある前方後円墳の存在は当然理解していたと思われます。国の正史を編纂する際に、その事実に触れないわけにはいかなかったと思います。
箸墓古墳の築造の様子は『古事記』には記載されない一方で、『日本書紀』には詳細に記されています。編纂者たちは箸墓古墳が最初の前方後円墳と認識し、その歴史的意義を伝えようとしたのでしょう。
681年天武天皇の命で始められた『日本書紀』の編纂事業の中で、691年に持統天皇が18の氏族に祖先の纂記(氏族の系譜や事跡などを記した文書)の提出を求めます。箸墓の逸話は、大三輪(大神)氏の祖先伝承を採用したのではないかと想像します。
出雲が最初の統治者だった
『日本書紀』編纂者が、天孫より先に「出雲が各地を統治していた」という歴史認識を持っていたことは、国譲り神話や神武天皇紀の記述で明らかです。
昔、伊弉諾尊がこの国を名付けて「日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といわれた。また、大己貴命大神は名付けて「玉垣の内つ国(美しい垣のような山に囲まれた国)」と言われた。
神武天皇紀の一節ですが、伊弉諾尊・伊奘冉尊の国生みのあと、大和における最初の統治者は大己貴神を祀る一族だと伝える一文だと思います。
系譜は説明すると長くなるので、過去記事を参考にしていただければ幸いです。
大和の戦略
では、出雲の統治下にあった各地の豪族を大和政権はどのように従わせたのでしょう?
基本は、各地の豪族の娘を妃として迎え血縁関係を築いた。どうしても従わないものは武力で平定したということだと思いますが、「前方後円墳」の役割も大きかったと思います。
繰り返しますが、天孫より先に出雲が各地を統治していたことを前提に、統治下にあった各地の豪族に対して、
(以下わかりやすくするために、くだけた書き方をします)
「むかし天孫が東征して大和へ来られたあと、何代にもわたって大己貴神(大国主神)の一族と血縁を深めていったんだ」
「疫病が大流行した時、最初はどの神が祟っているのか分からなかった。皇祖である天照大神と地主神を一緒に祀っているのがいけないのかと思って宮の外で別々に祀ってみたけど、そうではなかったみたいで、占いをしたら、倭迹迹日百襲姫命に神が乗り移って、大物主神の意思だということがわかったんだ」
「大物主神が言うには、子孫の太田田根子に私を祀らせろと。さっそく太田田根子を探し出して三輪山で大物主神を祀らせたら、たちどころに治まったんだ。あっ、大国主神は出雲に祀られているでしょ。大和では大国主神は大己貴神と言われていて、大己貴神の幸魂奇魂が大物主神なんだよ」
「倭迹迹日百襲姫命は、その後も天皇をよく助け、武埴安彦の謀反なども姫の占いで未然に防ぐことができた。その後、姫は大物主神の妻になったけれど、実は姫も大己貴神の直系子孫なんだよ。天孫と大己貴神(大国主)の一族はこうして深ーいつながりがあるんだよね」
「天皇は亡くなった倭迹迹日百襲姫命の功績を讃え、大物主神が坐す三輪山の麓に〝箸墓〟という立派なお墓を造って姫を葬ったんだ」
「あなたたちも、箸墓のような墓(前方後円墳)を造って一族の祖霊を祀れば、きっと先祖の加護が受けられるよ! 造り方がわからない? 大丈夫! うちは前方後円墳の造営のコンサルもやってるから。この前方後円墳は大和連合の証だから、外敵に対する抑止力にもなるんだよ。むやみな戦闘を避けるために抑止力は大事だからね! それでも、もし攻められたらね、連合国皆で助けるとちゃんと契約書に明記しておくからね!安心だろう?」
「どう? フランチャイズに加盟しない? 戸口調査を実施して、男は弭調(獣肉・皮革などの狩猟生産物)、女は手末調(絹・布などの手工業生産物)を人数に応じて納めてくれるだけでいいんだよ」
こうしてフランチャイズのような形をとって各地の首長を懐柔し、全国規模の支配を進めました。こういうのを『古事記』は「言向和平」と表現しますね(笑)。
・・そして長期的に順次直営に併合していった
と、私は考えていますが、皆さんはどう思いますか?
箸墓古墳秘話?
京都の賀茂社では、かつて伊勢神宮に倣い斎院制度がありました。斎院の異称として「阿礼少女」という言葉があります。神霊の意向を示現する神聖な少女を意味します。
『古事記』は倭迹迹日百襲姫の母の名を「阿礼比売命」と記しています。神霊の意思を示す存在として政治に寄与したと考えられます。崇神天皇を大いに助けるエピソードが描かれる倭迹迹日百襲媛命もまた母同様「阿礼姫」であったのかもしれません。しかし、その後姫は大物主神の妻となります。
三輪山の麓に、妻となった倭迹迹日百襲媛命の眠る墓を造ったのは、大物主神の坐す三輪山と一対で都を守護するための宗教施設であったと考えます。
もう一つの役割は、全国統一の野望を持つ大和政権は、その象徴的な前方後円墳をモデルハウスのように活用したのではないでしょうか。都である纒向に各地の豪族を招き、大坂山の石を葺いて白く光る全長278mの巨大な建造物を見せつけられたら、豪族たちはみんなビビってひれ伏したんだろうなーと想像します(笑)


あとですね。箸墓古墳の造営には、最大級の弥生墳丘墓を造った吉備が関わったのではないかと考えています。箸墓古墳からは吉備の特殊器台が採取されています。造営したのは當麻蹶速だったかもしれません。で、箸墓より少し前にホケノ山古墳が造られているのですが、ホケノ山は、倭迹迹日百襲姫命と吉備津彦兄弟の母である意富夜麻登久邇阿礼比売命(日本書紀は倭国香媛)だったのではないかと、、。〝妄想〟じゃなくもう〝暴走〟状態(^_^;)
上手くまとめられず長々と書いてしまいました。まだ書きたらないこともあるので、崇神天皇の記事で補足します。最後までお読みいただきありがとうございました。
