元伊勢 伊賀国編
倭姫命物語 第七話 伊賀国編

隠市守宮
『倭姫命世紀』は、「崇神天皇64年、伊賀国の隠の市守宮で(天照大神を)二年斎き奉る」と記します。
三重県名張市は、室生赤目青山国定公園の玄関口に当たり、自然に恵まれた地域です。「なばり」の名は、「隠る(隠れる)」からきていて、『日本書紀』天武天皇紀に、大海人皇子(後の天武天皇)が挙兵して東国へ向う途中、「夜半に隠郡につき、隠の駅家を焼いた」と記されていますので、飛鳥・奈良時代からの古い地名のようです。
隠市守宮比定地① 宇流冨志禰神社
所在地 名張市平尾3319 延喜式内社 主祭神 宇奈根命。神社の南を流れる名張川は、ここより先で大きく蛇行します。御祭神の宇奈根命は、川の曲る元にして水・河川の神、五穀豊穣の神であるとされます。





隠市守宮比定地② 蛭子神社
所在地 名張市鍛冶町97 御祭神 八重事代主命 他五柱 宇流冨志禰神社から西へ約400mのところにあります。古くは山の物と海の物との交換の市が立ち、商売繁盛の神として近郷から多くの参拝者が訪れたそうです。



伊賀国穴穂宮
「穴穂宮」は、『皇太神宮儀式帳』・『倭姫命世紀』に共に記録されています。『世紀』には、崇神天皇66年に穴穂宮へ遷り、4年間奉斎したと記されます。また、伊賀国造は、篦山と葛山の神田と神戸、そして鮎を獲ることのできる淵と梁(仕掛け)を献上したとも記されています。
神戸神社
所在地 伊賀市上神戸317 御祭神 大日孁貴命(天照大神) 他十九柱 古くは穴穂宮と称していたそうですが、明治41年村内諸社を合祀して神戸神社と改めました。




照皇宮神明社
木津川と前深瀬川の合流地点にある照皇宮神明社も倭姫命の仮宮跡と伝わります。明治40年に大村神社に合祀され、現在の社は、近在の人々が社地跡に鎮守の神として再び祀ったものといいます。





敢都美恵宮
都美恵神社
元は穴師谷にあったが洪水によって流されたため、1645年に現在の社地に造替されました。社号も元は「穴石神社」でしたが、大正11年に都美恵神社に改称されました。「都美恵」とは「柘植」の古語とされています。






まとめ
敢国神社
元伊勢伝承地ではありませんが、伊賀国の一宮である 敢国神社について触れておきます。 彦背立大稲輿命(武渟川別命の弟)を祖とする阿閇氏の氏神社です。兄 武渟川別命の子孫が阿倍氏を名乗り、弟 彦背立大稲輿命の子孫が阿閇氏を名乗りますが、いずれにしても兄弟の父である大彦命を祖とする皇別氏族です。
「皇別氏族」とは、天皇や皇族の子孫を起源とする氏族です。大彦命は第八代孝元天皇の皇子で、『日本書紀』には、四道将軍として北陸道へ派遣されたことが記されます。稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文に見える「意富比垝」に比定する説があります。




もし、「都美恵」が「柘植」であるとすれば、「敢都美恵宮」は「阿閇の柘植の宮」という意味になるのでしょうか。
伊賀は古くから朝廷の直轄地か
『古事記』によると、第三代・安寧天皇の皇子である師木津日子命には二人の子がおり、その一人は伊賀の須知、那婆理、三野を治める稲置の祖先であると記されます。稲置は、律令制以前に存在した皇室領を管理した地方長官です。
穴穂宮で紹介した延喜式内社 大村神社の主祭神は垂仁天皇の皇子である息速別命でした。また、『先代旧事本紀』「国造本紀」では、成務天皇の御代に、垂仁天皇の皇子である意知別命(『日本書紀』は祖別命)の三世孫、武伊賀都別命を国造に定めたと記されます。
このように皇別氏族の記録がある一方で、物部氏などの豪族の伝承が見当たりません。このことから推察すると、伊賀は古くから朝廷の直轄地だった可能性が高いと思われます。
悪神登場!
敢都美恵宮を出て大和街道を東へ進み鈴鹿山脈を越えると伊勢へ向うことができます。にもかかわらず、倭姫命一行はここから大きく迂回して淡海(滋賀県)・美濃(岐阜県)を巡って伊勢に入ります。
『皇太神宮儀式帳』には、倭姫命が壱志の藤方の片樋宮に遷った際に、阿佐鹿の悪神を阿倍大稲彦命が平定したという記述があります。どうやら行く手を阻む国神がいたようです。
阿倍大稲彦命は、阿閇氏の祖・彦背立大稲輿命のことだとされ、あらぶる神とは、『倭姫命世紀』に伊豆速布留神と記されます。ただし、地元では、その伊豆速布留神は猿田彦命の別名だと言われているようなんですね。猿田彦はご存知の通り珈琲屋さん・・、ではなくて、「記紀」神話で天孫降臨の際に瓊瓊杵尊を導いた国神です。
都美恵神社から大和街道を北東へ30キロほど行くと、全国の猿田彦大神の総本宮とされる椿大神社が鎮座します。。
話がどんどん広がってしまいますので、この件は『伊勢国風土記』に記される出雲建子命、伊勢津彦、天櫛玉命(饒速日命)などと共に、倭姫命物語シリーズの最後でまとめて書きます。
伊賀へ行って思ったこと
今回、伊賀の元伊勢伝承地を巡ってみて、ある印象を持ちました。それは、木津川の上流河川(柘植川・服部川・名張川など)の傍に伝承地があるということでした。
奈良の弥生遺跡から出土する外来土器のなかで、東国のものが最も多いのは知られています。東国と大和を結ぶ古道には、大和街道、初瀬街道、伊勢本街道など複数ありますが、山越えの道のイメージが強く、私は、大和と東国間の人や物資の交流は、主に海路によるものだと考えていました。
しかし、木津川とその支流を使った移動・運搬も重要だったのではないか、と感じるようになりました。活字とにらめっこしていてもわからない、実際に現地を歩き、見て・触れて・感じることの大切さを改めて実感しました。
次回は・・
さて、前述の通り、倭姫命はこの後、淡海(滋賀県)へ向かいます。『倭姫命世紀』によると、伊賀穴穂宮には崇神天皇66年に遷って天照大神を4年奉斎しました(68年に崇神天皇が崩御されます)。次の敢都美恵宮へ遷ったのが垂仁天皇2年のことで、そこで2年間奉斎した後、垂仁天皇4年に淡海国(滋賀県)甲可日雲宮へ遷ります。その垂仁天皇4年というのは、『日本書紀』に、狭穂彦王の謀反が記されています。『倭姫命世紀』を著した度会氏は、そのあたりのことをどのように考えていたのでしょうか?
次回は淡海の伝承地をお届けします。お楽しみに!
おまけ
名張市役所の地下にある食堂で日替わりランチ

【参考文献】
日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
倭姫命の御巡幸 岡田登監修 アイブレーン
三重県神社庁 参拝案内図
ナレッジジャパン検索『日本地名地理体系』 『国史大辞典』『日本大百科全書』ほか。
