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渡来人の技術で説明してしまう危うさ

大和朝廷の全国統一 第二十九話  応神天皇①

ヘッダー画像 : 応神天皇陵(誉田御廟山古墳)


プロローグ


古墳時代の大阪平野。
 そこには、突如として現れる巨大古墳群が広がっています。その規模は、私たちの想像をはるかに超えるスケールです。

世界遺産百舌鳥・古市古墳群のパンフレット。仁徳天皇陵(上)と履中天皇陵(下)

 これまで、こうした古墳を語る際、議論の多くは「誰が造ったのか」「誰の墓か」という点に集中してきました。
しかし、私は一点、決定的に欠けている視点があると思っています。

それは、

どうやって造ったのか

ここで言う「どうやって」は、測量技術でも、土木技術でも、鉄器の普及といった話でもありません。

「人の話」です。

巨大古墳に対するよくある解説ではこう語られます。

「渡来人によってもたらされた高度な技術が巨大な古墳の築造を可能にした」

この一文は間違いではありません。事実の一面は捉えています。しかし、語られる〝場所〟や〝タイミング〟によっては、誤解を生む危うさを孕んでいます。

技術があったとしても、それを形にする「圧倒的な数の人間」がいなければ、土の一盛も動かせない。

にもかかわらず5世紀の河内の巨大古墳を目の前にして「渡来人の技術が⋯」と言われると、まるでその時代に突然技術革新が起きたかのように感じてしまいます。

けれど実際には、前方後円墳の始まりはもっと早いのです。


前方後円墳の始まり : 継承される「カタチ」


 5世紀に河内で造られた巨大古墳群の話を始める前に、時代を200年ほど遡ってみましょう。

奈良盆地の東南、桜井市に広がる纏向まきむく遺跡。ここは3世紀の遺跡で、前方後円墳が初めて造られた場所とされます。

纒向石塚古墳
ホケノ山古墳
ホケノ山古墳から見た箸墓古墳の後円部
Gemini作の箸墓古墳イメージ図 

 最初は前方部が短い「纏向型」と呼ばれる形でしたが、3世紀半ばの箸墓古墳で、私たちがよく知る〝ザ・前方後円墳〟の姿が整います。箸墓古墳は墳丘長約280m。現存する古墳の中でも11番目の規模を誇り、この巨大古墳こそが、「古墳時代」の幕開けを告げる号砲でした。

つまり、「このカタチ」は、河内の巨大古墳よりも100〜150年も前から存在していたのです。
そしてその間に、劇的な技術革新があったわけではありません。

さらに、この時期には大和だけでなく、全国各地でも古墳は築かれています。

そう考えると、「河内で」「渡来人が」という単純な説明だけでは、現象は説明できません。


「渡来人によってもたらされた高度な技術が巨大な古墳の築造を可能にした」とする、その「高度な技術」を、漫画にしましたのでご覧ください。

Gemini作 この技術、縄文時代からの定住生活で培われた測量や、弥生の環濠集落での土木経験がすでにあったと思います。滋賀県の伊勢遺跡では、円周上に等間隔に建物が並んでいますし、その他にも.…。


箸墓古墳と三輪山の関係

   箸墓古墳は三輪山(あるいは北隣の穴師山)から昇る冬至の太陽を意識したという説があります。

こうした暦観測についても、「渡来人がもたらした」と語られることがあります。

しかし、弥生時代の段階で、奈良盆地ではすでに三輪山と二上山を用いた太陽観測が行われていた痕跡が確認されています。

つまり、これもまた古墳時代のはじめに突然もたらされた知識ではなく、弥生からすでにあった知の延長線上と見る方が自然でしょう。

三輪山
おお遺跡」。三輪山と二上山(写真)を望む場所にあり、春・秋分には二上山の峰の間に夕日が沈みます。



独り言

渡来人万能説は、歴史を単純化しすぎているのではないでしょうか。

わたしは、渡来人と一括りに語るのは危ういと思っています。「渡来人と言っとけば無難」なんでしょうけど、今回の話でも、「渡来人がもたらした高度な技術」とは、どういった技術?それはいつの時代?  皆さん漠然とその言葉を使っていますが、「渡来人」とは一つの集団ではなく、時代ごとに背景も規模も目的も異なる“複数の波”の総称にすぎません。

Gemini作イメージ。  稲作は縄文時代晩期に伝わっていたと考えられます。鉄は5世紀までは主に輸入していたと考えます。


前方後円墳の「カタチ」

 では、この独特なカタチはどこから来たのでしょうか。

大陸・朝鮮半島では、2世紀頃から有力者の墳墓をモニュメント化する動きがあり、弥生終末期の日本列島でも同様に様々な墳墓がつくられました。

出雲の四隅突出型。方墳、円墳、方形台状墓──そうした中で、吉備の楯築たてつき墳丘墓にみられる「双方中円形」は、前方後円墳に一番近い形ではないかと私は思っています。『魏志倭人伝』に、「倭人が死者を葬る際にひつぎはあるが、かく(棺を収める外箱)はない」と記されています。しかし、その「槨」があるのが楯築の埋葬施設の特徴です。纏向のホケノ山古墳にも槨があります(と、言うことは・・)。

また、吉備の土器や、祭祀に用いられた特殊器台・特殊壺、そして独特の文様である「弧帯文」が大和の古墳・遺跡で発見されています。

楯築墳丘墓の現地案内板拡大画像
特殊器台 岡山県古代吉備文化財センター
ホケノ山古墳の「石囲い木槨」復元模型 橿原考古学研究所博物館展示


 また、奈良県橿原市の瀬田遺跡で発見された「陸橋付き円形周溝墓」(2世紀後半)は、前方後円墳の原型ではないかとも言われています。

奈良文化財研究所ブログ記事


 これらを踏まえると、前方後円墳とは、外から突然もたらされたものではなく、3世紀の時点ですでにあった要素を統合し、洗練させたカタチであり、それは「祭祀の共有」であったと考える方が自然ではないでしょうか。

そして何より重要なのは、

〝このカタチが全国へと広がっていった〟という事実です。

祭祀の連続性:王朝交代論への違和感


​ 
戦後、歴史学の空白にイデオロギーが入り込み(と、私は考えている)「河内王朝説」や「三王朝交代説」「騎馬民族征服王朝説」といった議論が展開され、歴史を〝断絶〟で捉える見方が広まりました。

そうした考えに私は違和感を覚えます。

なぜなら、古墳の「カタチ」は継承され続けているからです。  

もし異なる宗教観や文化を持つ集団が王朝を奪取して河内に古墳を築いたのであれば、有力者の墓の形がここまで一貫しているでしょうか。

また、前方後円墳を豪族の権力の象徴や氏族のシンボルとするなら、各地で異なる形が現れても不思議ではありませんが、

実態としては、同じカタチが広がっている

大和政権と結びついた祭祀が共有されていたと考える以外に、他にどのような解釈ができるのか……。

そうして考えていくと、やはり前方後円墳は、「大和政権と関わる祭祀施設」と考えるのが一番妥当ではないかと思えるのです。

何より、当時の人口を考えると、各地の豪族が、それぞれでこうした事業を支えられたのか――この素朴な疑問は、どうしても拭えません。


労働力というミッシングリンク


​労働力の視点から見てみましょう。

 巨大古墳の築造には、延べ数十万から数百万人の労働力が必要だったとされます。
それが一度ではなく、各地で継続的に行われる。

当時の人口は150万〜200万人程度と推定されています。
この中で、日々の食糧生産を維持しながら、これほどの事業を支えることが可能だったのか。

​可能だったから、現在も前方後円墳が全国に4,700基も残っているわけですが(笑)、在地の人々の動員だけで説明するには、どうしても無理があります。

ここで重要なのは、
「技術」ではなく、「人の流れ」です。

そこで浮かび上がるのが、「渡来人」という言葉の裏側にある、もう一つの真実です。

別の角度から『渡来人』という存在を捉え直してみたいと思います。

「渡来人」という言葉の裏側


​​ 『記紀』には、応神天皇の時代、多くの人々が集団で渡来し帰化したことが記されいます。阿智使主あちのおみ東漢氏やまとのあやうじ)十七県、弓月君ゆづきのきみ(秦氏の祖とされている)百二十県など。当時の「あがた」が何人かは諸説ありますが、おおよそ数百から数万人単位の人々が海を渡ってきたと考えられます。もっとも、一斉に渡ってこれるほどの船があったかどうかと考えると、繰り返し断続的にやってきたのかもしれません。

​なぜ人々は海を渡ってきたのか。背景には、朝鮮半島の動乱があります。しかし私は、その機を見た大和政権による「組織的な人材スカウトと、大規模な入植政策」だったと考えています。

決して、渡来人が勝手にやってきて技術を披露したわけではありません。大和政権側が、

プロデューサーとして: 阿智使主あちのおみが連れてきたという七性の漢人、だん高向たかむく氏)・李(刑部おさかべ氏)・皀郭きゅうかく(坂合部氏)・朱(小市氏)・檜前ひのくま氏)・皀(長幡部(ながはたべ氏)・高(檜前氏)、あるいは王仁わに西文氏かわちのふみうじの祖)といった「高度な知識を持つ層」を招き入れ、

労働力として: 弓月君が率いたと記される「多くの民」を、開発の遅れていた原野(河内平野など)へ戦略的に配置した。

​ つまり、巨大古墳という「カタチ」自体は日本古来の祭祀を継承しながら、そのスケールを支える「人口」と「管理システム」を、外部からのリソースを導入することで爆発的に強化したのが大和政権だったのではないかと考えます。

Gemini作 イメージ図

「仕組み」としての前方後円墳


 ​前方後円墳とは、

「人を動員し、組織し、維持する力の可視化」です。

土を運ぶ者、形を整える者、食糧を供給する者。
そのすべてを統合する「仕組み」があって初めて、あの巨大な墳丘は成立します。

つまり、


共有する祭祀の場であると同時に、権力の象徴であり、社会を動かすシステムそのものでもあったのです。



Gemini作 イメージ


エピローグ:歴史は、川の流れのように


​ 応神天皇の時代以降、多くの人々が海を越えてやってきました。
しかし、それは単に人が流れ込んだという話ではありません。

重要なのは、
その流れをどう扱ったのかです。

現代にも、少し参考になるかもしれない話を一つ。


『日本後紀』延暦23年4月27日条(804年)に、和家麻呂やまとのいえまろが亡くなったこと(薨伝)が記さています。

中納言従三位和朝臣家麻呂が死去した。従二位大納言を贈った。家麻呂は贈正一位高野朝臣弟嗣の孫で、先祖は百済国の人である。性格は朴訥で才学を欠いていたが、天皇の外戚であることにより、擢きんでて昇進した。渡来系で公卿になったのは家麻呂が最初である(後略)。

森田梯訳 『日本後紀 上』講談社学術文庫

※天皇の外戚 : 光仁天皇の夫人 高野新笠は百済の武寧王の子孫と伝わる桓武天皇の母。和家麻呂は高野新笠の甥にあたります。

ここに「渡来系で公卿になったのは家麻呂が最初」と記されています。

それは応神天皇の時代から数百年を経た後のことでした。

つまり──
人は受け入れても、

統治の中枢は容易に開かれなかった。


労働力や技術としての受け入れは早いが、統治の中枢への参加が非常に遅かったのは、統治の正統性が「血統」「宗教」「伝統」「儀礼」など、長期的に形成される要素に依存するからです。

日本に限らず、ローマ帝国・唐・宋・オスマン帝国・中世ヨーロッパなど、  どの地域でも共通して見られる事象です。



    応神天皇そのものを語る前に、「渡来人の認識への疑問」、「渡来人の技術で説明してしまう危うさ」について述べましたが、いかがだったでしょうか。

次回は、「大和から河内へ王墓が移った理由」について書きます。「王墓が河内へ移ったから、王朝交代があった?」という安易な思考ではなく、河内へ王墓を築くには相応の理由があったということを述べます。ご期待ください。


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最後までお読みいただき、ありがとうございました。


おまけ

古市古墳群へ行ったある日の昼食。応神天皇陵近くの羽曳野市役所の駐車場に車を停めて、パンを食べてから古墳を巡った。

アオゾラベーカリーさんの、ちくわパンとあんぱん



【参考文献】

『日本書紀 Ⅰ 』井上光貞監訳 中公クラシックス
『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『新版古事記 』中村啓信 角川ソフィア文庫
『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典・志村裕子 批評社
『特選神名牒』上巻・下巻 八幡書店
國學院大學 神名データベース
ナレッジジャパン検索『日本国語大辞典』 『日本歴史地名大系』『古語大辞典』ほか。
掲載神社の由緒・社伝
画像は全て筆者現地撮影

執筆にあたり、AI(Gemini 、ChatGPT、Copilot)を活用してブレインストーミングを行いました。

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