かまどの煙を見たのはどこだ
大和朝廷の全国統一 第三十八回 仁徳天皇② 高津宮はどこにあったのか
はじめに
前回、私は「民のかまど」の話を、仁徳天皇の仁政をたたえる美談としてだけではなく、国家運営の物語として読みました。
人こそが最大の資産だった時代、為政者は、国を支える力として民をどう保つかを考えなければなりませんでした。そのように読むと、「民のかまど」は優しさを語る逸話というより、統治のあるべき姿を伝える物語として見えてきました。
すると次に気になってくるのは、仁徳天皇が「民のかまど」を見たという宮、すなわち難波高津宮です。
その宮はいったい、どこにあったのでしょうか。
高津宮を訪れる
しかし、この問いは思った以上にやっかいでした。
実際に現在の高津宮(大阪市中央区)に立ってみても、「ここに宮があり、ここから民のかまどを眺めたのだ」と身体で納得できるような必然性を感じることができなかったのです。
しかし、その理由を調べていくと、この違和感も無理のないことだと思えてきました。
神社の由緒によれば、仁徳天皇を祀る社は貞観八年(866)、「旧都の遺跡を探索して」創建されたと伝えられています。つまり、古代の宮がそのまま残っていたわけではありません。さらに天正十一年(1583)、豊臣秀吉の大坂城築城にともなって現在地へ遷座したとされています。
大阪市の説明でも、最初は大阪城付近にあったものが秀吉の築城によって移されたとし、この高台から「民のかまど」の煙を眺めたという伝承については明確ではないとしています。
ここまでの話は、現在の高津宮を否定するためのものではありません。高津宮は、古代の宮そのものの現場というより、仁徳天皇や高津宮の記憶を今に伝え継いでいる大切な場所だという認識で、私は深い敬意を抱いています。




幾重にも上書きされた町
高津宮だけではありません。
考えてみれば、大阪という町そのものが、歴史の中で幾重にも重ね書きされてきた土地です。
上町台地は大阪平野では数少ない高台で、古代から近代に至るまで、政治・宗教・軍事の中心として繰り返し選ばれてきました。前回取り上げた難波堀江や難波津のある大阪城周辺も、古代の景観がそのまま現在へ残っているわけではありません。

上町台地の立地を視覚的に理解するため、海面を約10メートル上げた想定図を見てみましょう。大阪は海抜の低い土地が多いです。かつてあった河内湾→河内潟→河内湖が想起されます。



上町台地北部は、古代の上にまず中世が重なります。石山本願寺の時代があり、その上に秀吉の城下町が築かれ、その後の徳川時代。さらに戦災と戦後復興によって町の姿は大きく変わりました。
高津宮も昭和二十年三月の空襲で神輿庫を除いて焼失し、戦後に復興されています。また、すぐ近くにあり、神武天皇東征に由来をもつ生國魂神社も、石山合戦によって焼失したのち、秀吉の築城にともなって現在地へ移され、戦災を経て鉄筋コンクリート造で再建されています。

大阪歴史博物館の大阪大空襲と戦災焼失区域図
大阪は、奈良や京都のように、古建築そのものが過去への入口となってくれる町ではありません。地形、遷座の記憶、伝承、そして発掘成果を重ね合わせていかなければ、古代はなかなか姿を現してくれないのです。
難波宮跡が教えてくれること
そう考えたとき、私の頭に浮かんだのは難波宮跡でした。大阪城の南側には、前期・後期二つの難波宮が重なって発見されています。

前期難波宮は第三六代孝徳天皇の時代。後期難波宮は奈良時代に第四五代聖武天皇によって再建された宮と考えられています。
つまり、この上町台地北部は、初代神武天皇東征にちなむ生國魂神社の由緒があり、第十六代仁徳天皇時代の難波堀江の記憶があり、さらに難波宮という確かな宮跡まで重なっている土地なのです。時代ごとに姿を変えながらも、この場所は政治の中心として繰り返し選ばれてきました。
大阪歴史博物館の展示を見ると、その感覚はいっそう強くなります。前期難波宮は、日本最古の本格的な大陸式宮殿として紹介され、その姿が復元されています。



また、博物館の外には、法円坂遺跡の倉庫が再現されています。


重要なのは、この法円坂遺跡で建っていた倉庫群は、7世紀の孝徳朝や8世紀の聖武朝の宮より前の時代、5世紀のものだということです。この大規模な倉庫遺跡の存在も勘案した上で、研究者たちは仁徳天皇の難波堀江を、この地の北に流れる大川に比定しているわけです。
仁徳天皇の高津宮を想像する
そう考えると、仁徳朝の難波高津宮もまた、この法円坂遺跡やのちの難波宮が営まれるこの付近のどこかにあったと考えた方が、地形の感覚としてははるかに自然なのではないかと考えるのです。もちろん、これは史実として断定するものではありません。
難波津のすぐ近くで五世紀の大型倉庫跡が見つかっています。さらに安定した台地の上には、その後も難波宮、石山本願寺、大坂城、そして現在の大阪府庁まで置かれていきました。
古代から現代まで、政治や行政の中心として選ばれ続けてきた土地の意味を、そのまま古代へと巻き戻して考えてみることは、決して不自然な想像ではないように思えるのです。
ここで、もう一度地形に目を向けてみます。

もし、難波宮跡あたりに仁徳天皇の難波高津宮もあったとすれば、北には難波津が広がり、東には河内湖と湿地帯が見え、その開発の様子も一望できたでしょう。
大阪市中央区の「高津」という地名は、高津宮の遷座以降に付けられた名称だと思いますので、私には、仁徳天皇難波高津宮の「津」は、古代の「難波津」を意識した呼び名であって、津(港)を見下ろす高い場所にある宮だったのではないかと想像します。
そこは直接外海には面さず、難波堀江を通り、内側に船着場(難波津)がある。そこへ水運と開発、人と物の流れが交わる場所を置く。港へ集まる船。河内湖の開拓。人と物が行き交う流れ。そのすべてを仁徳天皇は高台から見渡していたのではないか。
東には河内湖開拓の様子、麓に民の暮らす家があり、かまどの煙が立ち上がる――。
もし「民のかまど」の物語が、為政者が国の基盤(インフラ)と民の力を見つめていたことを伝えようとしているのなら、その舞台もまた、そうした景観と深く結びついていたように思えるのです。

おわりに
ここまで述べてきたことは、もちろん私の想像です。
しかし、全く根拠のない空想とも思っていません。
歩いて感じた地形、法円坂遺跡などの発掘成果、『記紀』の記述、そして大阪という町が重ねてきた歴史を合わせて考えた、一つの仮説です。
現在、仁徳天皇のような古墳時代の君主を単なる「大王」と表現することが少なくありません。それは学術的な配慮によるものだということは理解しています。
けれど、仁徳天皇の時代まで来ると、難波堀江、法円坂遺跡、百舌鳥・古市古墳群など、『記紀』の記述と考古学的な事実が重なり合う場面が数多く現れてきます。考古学が示す成果を踏まえたうえで、『記紀』の伝える記憶にも、もう少し耳を傾けてよいのではないかと思うのです。
1300年前の編纂者たちは、難波堀江や仁徳天皇の国づくりの記憶を、誇りをもって書き残しました。その思いに耳を傾けながら、地形を歩き、遺構を訪ね、伝承を読み直していく。私は、そんな読み方をこれからも続けていきたいと思います。
次回は、大阪に今なお圧倒的な姿で残る百舌鳥・古市古墳群を、あらためて別の視点から考えてみます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
おまけ
今回は大阪の記事なので、大阪にゆかりのある店を「おまけ」のネタにしようと調べたら、近くに神座があったので、期間限定 「冷たいおいしいラーメン」をいただきました。

お知らせ
㊗️🎉 飛鳥・藤原宮都、正式に世界遺産登録されました!(7/26追記)
飛鳥・藤原の宮都シリーズ第二弾、『大道(おおじ)を歩く――蘇我馬子、聖徳太子、推古天皇の飛鳥』を発売しました。
飛鳥から横大路・竹内街道を歩きながら、古代の人々の息づかいをたどる一冊です。
前作『飛鳥の風の人』が人物を中心に描いた小説だったのに対し、今回は、道と土地を歩きながら歴史を考える紀行文です。noteの記事と同じように、私なりのとらえ方で書いています。
特に第三章の磯長編では、推古天皇や聖徳太子たちが眠る土地を歩きながら、飛鳥の意味を、一般的な解釈とは少し違った角度から考えました。
ぜひ、お手に取っていただければ幸いです。
こちらもよろしく
【7/28追記】第三弾 『渡す人―藤原の宮都―』は、TALESで連載することにしました。こちらもよろしくお願いします。
