元伊勢巡り。佐々牟江宮と伊蘓宮、そして慶光院の話
倭姫命物語 第十二話 元伊勢巡り。佐々牟江宮と伊蘓宮、そして慶光院の話
はじめに
今回の倭姫命の旅では、元伊勢【佐々牟江宮】と、【伊蘓宮】の伝承地を紹介します。また、天照大神の御教えや、慶光院について触れます。
佐々牟江宮
『倭姫命世紀』には、倭姫命がこの地に御船を泊めた際、大若子命が「ここは白鳥の真野国」と申し上げたと記されています。この地に佐々牟江の社を造営して、天照大神を祀ったと伝えられています。
佐々牟江行宮跡
佐々牟江には「真名鶴伝説」があり、懸税の起源であることが『倭姫命世紀』に記されています。
※「懸税」とは、稲の初穂を茎のまま稲束にして神に奉納すること。



竹佐々夫江神社
所在地:三重県多気郡明和町山大淀3004
御祭神: 建速須佐之男命、大歳神、栲幡千千姫命
神社のある三重県多気郡は、倭姫命の時代は「竹」という地名だったようです。
※713年の好字令(好字二字令)により、諸国の国・郡・郷の名称は縁起の良い漢字2文字で表記するように定められました。「木国」が「紀伊国」、「明日香」が「飛鳥」などです。




竹大與杼神社
所在地:三重県多気郡明和町山大字大淀乙
御祭神: 建速須佐之男命、大山祇命、蛭子命、春日神
佐々牟江からさらに進むと、風もなく波もたたず穏やかに船を進めることができたため、倭姫命は喜び、その場所に【大与度社】を建てたと伝わります。



斎王尾野湊御禊場跡
竹大與杼神社から北東へ300m程行った大淀港に、尾野湊の禊場跡がありました。伊勢へ向かう歴代斎行が禊を行ったと場所と伝わります。


天照大神の御教え
「わたしはこの国にいたいと思う」
「是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」
この神風の伊勢国は、常世の国から波が次から次へと打ち寄せる国である。大和から見れば傍らにあるが、美しい国である。わたしはこの国にいたいと思う。
これは、『日本書紀』垂仁天皇紀に記されている、倭姫命が伊勢国に至った時に天照大神が仰った言葉です。その後、天照大神の教えに従い、倭姫命は伊勢国に祠を建て、五十鈴川のほとりに斎宮を建てたと記されます。
『倭姫命世紀』も『日本書紀』とほぼ同じですが、伊勢国に至ったときではなく、この佐々牟江宮でのこととして記されています。
伊蘓宮
『皇太神宮儀式帳』は【玉岐波流磯宮】、『倭姫命世紀』では【伊蘓宮】と記される元伊勢伝承地です。なお、【伊蘓宮】の「蘓」という字は「甦る」「再び生まれる」という意味があり、「玉岐波流」とは、古典にみられる「命」や「幾世」などにかかる枕詞で、「魂極まる」「魂が甦る」という意味合いを持つ言葉です。
磯神社
所在地:三重県伊勢市磯町1069
御祭神: 天照大神
宮川の洪水により社殿が崩壊したため、現在社地に遷されたといいます。『延喜式』度会郡の「磯神社」に比定されています。









相鹿上神社
所在地:三重県多気町相可464。
御祭神: 天児屋根命 他
明治41年に近隣の神社十八社が合祀され伊蘓上神社の鎮座地に奉遷され【相鹿上神社】とされました。かつてこの地に鎮座していた【伊蘓上神社】が「伊蘓宮」のもう一つの比定地とされています。








「蘓」と「蘇」
「伊蘓宮」の「蘓」(よみがえ-る)という文字が気になり調べてみました。「蘇」という字が使われる場合もあるので、それについても調べました。
結論として、「蘓」と「蘇」は、意味も読みも同じ異体字であることがわかりました。
『中国笑話集』より
調べている途中、『中国笑話集』というサイトで「蘓」と「蘇」の話を見かけたので、紹介します。
ある家で客を招いて魚の料理を出したが、主人の魚は大きく客の席の魚は小さかった。
それを見て客が主人にたずねた。
「蘇州の「蘇」という字はどう書きましたかね」
「草かんむりの下に、左に「魚」の字。右に「禾」の字ですよ」と主人が言うと、客は、
「魚の字を右の方へ置くのもありますが、あれはどうなんでしょう」
「魚は左右どちらへ置いてもよいことに、なっています」
「そうですか」客はそう言って、自分の席の魚と主人の席の魚とを置きかえて、
「それなら、こうしてもよろしいですね」
中国笑話集 9-2
伊蘓宮(玉岐波流磯宮)の意味
話を戻します。なぜこの地で「玉岐波流(魂極まる)」や「蘓(よみかえ-る)」という意味深な文字が使われているのでしょうか。疑問に思ってあれこれ考えてみましたが、一つ思いあたることがありました。
慶光院の尼僧
慶光院について、ご存知無い方のために簡単に説明します。
慶光院は、伊勢国宇治にあった尼寺です。初世の住職は守悦上人、三世の清順上人上人、四世の周養上人らが、120年以上途絶えていた神宮の式年遷宮の再興に尽力したことで知られています。
朝廷や幕府の権力が弱まったことにより、室町中期の応仁の乱から戦国時代にかけて、神宮の式年遷宮は120年以上中断していました。
初代の守悦上人は全国で募財活動(勧進)を行い、洪水で流された宇治橋の再建を成し遂げました(1506年)。三世の清順上人も精力的に勧進を行い、1563年には実に129年ぶりに第40回【外宮】の式年遷宮が行われることになりました。その後、清順上人は志半ばで亡くなりますが、遺志を継いだ四世の周養上人も広く活発な勧進活動を行い、織田信長や豊臣秀吉からも支援を受けて、1585年には123年ぶりに両宮の遷宮が斎行されました。その後、1609年からは両宮あわせての式年遷宮が継続して行われ、今に至ります。
こうして現在も神宮の式年遷宮が続いているのは、ある意味、慶光院の尼僧らのおかげとも言えます。
ちなみに、令和15年には第六十三回神宮式年遷宮が予定されていますが、遷宮の予算は、前回と同じ558億円が見込まれています。貨幣価値も、仕様も今とは違ったでしょうけど、相当な金額であったと想像できます。
また、お金の面だけでなく、宮中と神宮では神仏習合の時代にあっても、神仏離隔を徹底していましたから、そのような中、仏教者でしかも女性である慶光院は、神宮側からなかなか許可を得られなかったなどさまざまな苦労があったようです。

磯神社のある磯町は、元伊勢伝承地であり、また、慶光院ゆかりの地でもあります。それで「式年遷宮が再興したこと」に関係して「蘓(よみかえ-る)」という字を用いたのではないかと、ふとそう思ったわけですね。
しかし、よく考えてみたら、『倭姫命世紀』が編作されたのは1200年頃で、慶光院の話は1500年代のことですから、時代が合わないんですよね。 残念ながらこの考えはボツで、結局のところよくわかりません。すみません m(_ _)m
おわりに
「伊蘓宮」の名と慶光院を関連付けようとして、うまくいきませんでした。それでも記事に書いたのは、実は私は慶光院の尼僧のことをリスペクトしていて、あまりメジャーではない慶光院のことを皆さんに知ってもらいたかったというのが本音です。
人の一生は長いようで短いものですから、自分の思うことを何か一つでも成し遂げられたら、それだけで十分なのかなとも思います。
私の場合は、好きな歴史の事を発信して、少しでも多くの方にこの国の成り立ちについて興味を持ってもらえたらと思い、このnoteを続けていきたいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。次回は宮川を遡り、瀧原宮へと向かいます。
おまけ
伊勢カフェ
三重県伊勢市通町109-3。週替わりランチプレート(カツオのたたき) をいただきました。ごちそうさまでした!


【参考文献】
日本書紀Ⅰ 井上光貞監訳 中公クラシックス
全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫
新版古事記 中村啓信 角川ソフィア文庫
神社のいろは要語集 神社本庁 扶桑社
倭姫命の御巡幸 岡田登監修 アイブレーン
ナレッジジャパン検索『日本人名大辞典』 『日本国語大辞典』『国史大辞典』ほか。
