日本武尊と多度大社のご祭神 天津彦根命-知られざる関係を探る
大和朝廷の全国統一 第二十五話
はじめに
今回は、日本武尊が伊吹山の神に惑わされてから、能褒野で生涯を終えるまでの足跡を辿ります。そのルートの途中に多度大社があります。一見すると関連性の薄い天津彦根命と日本武尊ですが、両者の関係を考えてみました。今回は日本武尊伝説の新たな視点を提供したいと思います。
6カ所の伝承地
『古事記』に記される地名
1.玉倉部の清水(居醒井)
2.当芸野
3.杖衝坂
4.尾津崎(尾津)
5.三重の村
6.能煩野(能褒野)
※( )内は『日本書紀』の表記。2、3、5について日本書紀には記述がありません。
日本武尊が向かったのは、大和ではなかった?!
最初に地図で確認しておきましょう。伊吹山の神に惑わされた日本武尊は、山を下り玉倉部の清水で正気を取り戻します。その後、『日本書紀』は「尾張にお帰りになった」と記します。大和へ向かったわけではなく、宮簀媛のもとへ帰ろうとしたわけですね。
ところが、そのあとすぐ「宮簀媛の家には入らないで、伊勢に移って尾津に着かれた」とあります。なぜ寄らなかったのでしょうか。荒ぶる神を討伐できなかったことを恥じる気持ちがあったのでしょうか。それとも入れてもらえなかった理由があるのでしょうか。

1.正気を取り戻した玉倉部の清水
『日本書紀』より :
(酒に酔ったようであった)それで山の下の泉に休んで、そこの水を飲むとやっと気持ちが醒めた。それでその泉を居醒井という。日本武尊はここで始めて病気になられた。そしてようやく起きて尾張に帰られた。しかし宮簀媛の家に入らないで、伊勢に移って尾津に着かれた。
『古事記』より :
山から戻り下られて、玉倉部の清水に至り着いて、休憩していらっしゃる時に、御心地も少しずつお覚めになり、正気を戻された。そこでその清水に名づけて居醒の清水というのである。
玉倉部の清水伝承地
所在地 : 岐阜県不破郡関ケ原町玉
前回記事で紹介した米原市の「居醒の清水」が有名ですが、『日本書紀』の記述や地理的条件からは、こちらのほうが自然に感じられます。500m程の場所に腰掛台もありました。




2.たぎたぎしくなったので当芸野
『古事記』より :
玉倉部からお発ちになり、当芸野のあたりにお着きになった時に、「我が心はいつもずっと自由自在に空から鳥のように飛んで行くことができた。ところが、今我が足は心の欲するとおりに歩けず、たぎたぎしく(ぎくぎくと)なってしまった」とおっしゃった。そこでその地に名付けて当芸という。
当芸伝承地 大菩薩寺
所在地 : 岐阜県養老町養老
大菩薩寺境内に「当芸野」の石碑があります。


3.疲れ果てて杖衝坂
『古事記』より :
(当芸から)ほんのちょっとお行きになっただけで、たいそうお疲れになったので、御杖をつき、のろのろとお歩きになった。そこで、その地に名付けて杖衝坂という。
杖突坂の伝承地 日本武尊杖突坂碑
所在地 : 岐阜県海津市南濃町上野河戸


4.尾津崎の一本松、おまえよ
『古事記』より :
尾津崎の一本松の下にお着きになったところ、以前ここでお食事をした時に、そこにお忘れになった御剣が、無くならずにそのままあった。そこでお歌いになっておっしゃった。
尾張国に まっすぐに向かい合っている 尾津崎の一つ松 おまえよ 一つ松 おまえが人であったならば 太刀を帯びさせようものを 着物を着せようものを 一本松 おまえよ
『日本書紀』も同様の記述があり、「かつて東に向かわれたときに」とあることから、東征に向かう途中に訪れたと解釈できます。また、九州熊襲討伐の時に従ったと記される石占横立はこの土地の人物ではないかと言われています。木曽三川が合流する地点で、古くから港として開け重要な場所です。
御衣野尾津神社(草薙神社)
所在地 : 三重県桑名市多度町御衣野
ご祭神 : 倭建命、稚武彦命
近隣の草薙姓の人々が管理されているそうです。






式内尾津神社論社には当社以外にも、 (小山)尾津神社と(戸津)尾津神社があります。
これだけは知っておこう!
|式内社《しきないしゃ》とは、平安時代中期、927年にまとめられた『延喜式』の巻9・10「神名帳」に載る神社のことです。当時の国が認めた「官社」です。
神名帳に載っているということは、少なくとも1000年以上前から存在しているという証。歴史の重みから、一種の社格のように扱われています。
しかし、中世以降に衰微して所在が分からなくなった神社も多くあり、諸説あって特定し難い神社については、いくつかの候補となるものを「論社」と呼んでいます。
ちなみに『延喜式』などの「式」とは、律令制における法体系「律・令・格・式」の一部です。
令:国の大綱
律:刑罰に関する規定
格:臨時の法律
式:律令や格を補って施行するための細則
つまり『延喜式神名帳』は、単なる神社の一覧ではなく、当時の法体系の中に組み込まれた記録なわけです。
日本武尊の像と歌碑のある平群神社
所在地 : 三重県桑名市志知
主祭神 : 木菟宿禰
延喜式内社
「記紀」には記されませんが、日本武尊が足をとどめた地と伝えられ、歌碑や像が建っています。神社は木菟宿禰後裔の平群氏が味酒臣の姓を賜り、伊勢に移り住んで祖神を祀ったのが始まりとされます。




『日本書紀』に木菟宿禰は仁徳天皇と同日に生まれたと記されています。父の武内宿禰も成務天皇と同日に生まれたと記されています。後の雄略天皇紀の記述に、葛城山に天皇と区別出来ないほどの装束をした一言主神が登場します。これらの記述は、古代の一時期に葛城氏が絶大な権力を持っていたことの比喩だと解釈できます。平群氏も葛城氏の一族で、『日本書紀』編纂時に墓記を提出した有力十八氏族の一族*です。
*武内宿禰を遠祖とする葛城氏系では他に、石川(蘇我)、雀部、巨勢、羽田氏が提出しています。
5.県の名前のルーツ。三重の村
『古事記』より :
三重の村にお着きになった時に、また、「わが足は、まめ・たこ・むくみで三重のまがり餅のようになって、ひどく疲れてしまった」とおっしゃった。それで、その地を名付けて三重という。
三重県という県名は、この逸話がもとになっています。
足洗池
所在地 : 三重県四日市市西坂部町



6.日本武尊終焉の地、能褒野
『日本書紀』より :
能褒野について病気がひどくなった。俘にした蝦夷どもを伊勢神宮に献上された。吉備武彦を遣わして天皇に奏上された。「私は勅命を受けて、遠く東夷を討ちました。神恩を破り皇威に頼って、叛く者は罪に従い、荒ぶる神も自から従いました。それで甲を巻き戈を納めて、心安らぎ帰りました。何れの日か天朝に復命しようと思っていましたのに、天命たちまちに至り、余命幾ばくもありません。さびしく荒野に臥し、誰に語ることもありません。自分の身の滅ぶことは惜しみませんが、残念なのは、御前にお仕えできなくなったことです」と。こうして能褒野でお亡くなりになりました。時に年三十。
文字数が予定を越えそうなので、能褒野の御陵については次回紹介したいと思います。
多度大社と天津彦根命
所在地 : 三重県桑名市多度町多度1681
ご祭神 : 本宮 天津彦根命 別宮 天目一箇命
延喜式内社(名神大)、国幣大社
日本武尊の伝承地ではありませんが、前々回記事で日本武尊東征のあと、関東地方の勢力図について、『先代旧事本紀』「国造本紀」に記される国造を氏族で色分けしました。その記事の中で、天津彦根命の後裔氏族に興味を持ったと書きましたが、今回巡った伝承地「尾津」(の近く)には、天津彦根命を祀る多度大社があります。








多度大社は伊勢国最北端に位置し、北伊勢大神宮とも呼ばれており、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と詠われます。豊受大神宮(外宮)と同じく雄略天皇の御代の創建です。神仏習合の時代は神宮寺として真言宗の宝雲寺(現在、多度山宝雲寺)がありました。近年、上げ馬神事が動物虐待にあたるとして物議を醸しましたが、現在は改善策が施されているようです。
新しい視点、天津彦根神と日本武尊の関係
多度大社のご祭神でもある、天津彦根命は、天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれた五男三女神の一柱です。兄神には、天皇家のルーツとなる天忍穂耳命や、出雲国造家・土師氏のルーツとなる天穂日命がいます。
天津彦根命の後裔
後裔氏族は、凡河内氏、山代直、茨城国造、額田部連など(日本書紀)。また、天津彦根命の子神に、天目一箇神(新撰姓氏録)や御上神社のご祭神である天御影神(天目一箇命と同一神?)がいます。
日本武尊との関連を考えるために、『先代旧事本紀』「国造本紀」から、天津彦根命を祖とする人物がどのような国に定められたかを以下に示します。
師長国造 (神奈川県大磯・平塚市周辺)
馬来田国造 (千葉県木更津市、袖ケ浦市)
須恵国造 (千葉県富津市、君津市)
茨城国造 (筑波山東側、霞ヶ浦周辺)
筑波国造 (筑波山西側、つくば市一帯)
道奥菊田国造 (福島県いわき市南部)
道口岐閉国造 (茨城県ひたち市北部)
石背国造 (福島県那須川市)
石城国造 (福島県いわき市)
凡河内国造 (大阪府全域)
周防国造 (山口県東部)
これらを地図に落とし込むと以下のようになります。関東は、筑波が阿閇色命、あとは全て茨城国造である建許侶命の後裔の人物です。遠く離れた周防も建許侶命の子孫です。大阪は凡河内氏、山代(京都府)は天目一箇命の後裔。

地図はStart Point の「令制国 地図ジェネーター」を使用しています。
凡河内氏
凡河内とは河内の広い範囲という意味で、現在の大阪府全域と兵庫県の一部にまたがる地域を指します。この地域は後に摂津国、河内国、和泉国の三国に分かれます。分かれる前ですから、凡河内氏は古い時代に大阪湾一帯を本拠とした一族の名と考えられます。
凡河内氏には様々な説があります。安曇氏と同系とする説や、伊勢忌部氏が天目一箇命を祖とすることから、讃岐や阿波忌部氏との関係を指摘する説。「国造本紀」には山代直の祖が天目一箇命であると記されています。
私が注目するのは、滋賀県野洲市の御上神社のご祭神である天御影命です。天目一箇命と同一神とする考えがあります。どちらにせよ天津彦根命の後裔であることには変わりありません。

『新撰姓氏録』には、摂津国神別の山直氏の祖先に「天御影命の十一世孫、山代根子」とみえます。
また、京都府城陽市には水主神社があります。当地の豪族、水主直の祖である山代根子命(山背大国魂神)と、そこに至る祖神の九柱を祀ったのが始まりとされます(『延喜式』に十座と記されています)。
水主神社のご祭神
その水主直は、『新撰姓氏録』に「山城国神別天孫水主直火明命之後也」と記されています。そして神社に祀られる十柱の神は尾張氏の系譜にある神々です。
水主神社の祭神は、天火明命を祖として、一世孫の天香語山命-二世孫の天村雲命-三世孫の天忍男命-四世孫の建額赤命-五世孫の建筒草命-六世孫の建多背命-七世孫の建諸隅命-八世孫の倭得玉彦命-九世孫が玉勝山代根古命ですが、天火明命からさらに遡ると、
『古事記』や『日本書紀』第六・第八の一書では、天照大神-天忍穂耳命-天火明命と記しています。
天忍穂耳命と天津彦根命は兄弟神ですから、
天照大神-天津彦根命-天御影命(天目一箇命)と比べることができます。つまり天火明命と天御影命は同世代ということです。
九世孫と十一世孫で2世代のズレがあるのですが、『新撰姓氏録』山直氏の「天御影命の十一世孫、山代根子」の記述と、山代根子に至る神社ご祭神は概ね符合します。
また、『先代旧事本紀』は天火明命と物部氏の祖である饒速日命を同一神と記しています。
これが歴史的事実だと言いたいわけではありません。天津彦根命の後裔氏族と尾張氏や物部氏が近しい関係にあることが連想されると言いたいのです。
さて、その天津彦根命の後裔氏族が、先ほどの地図をご覧いただければわかる通り、関東地方の他に、九州への玄関口である周防国にあります。
これが「記紀」の日本武尊の東征・西征(熊襲討伐)の記述と合うように思えてならないわけですね。
おわりに
次回は日本武尊の最終回で御陵を巡ります。これがまた伝承地がたくさんあるんですよね。それとこれまでの記事で着目した点に一定の答えを見いだしてみたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
おまけ
多度大社前の車久米穀店で、「玄米揚げ餅」をいただきました。外はサクッ、餅はやわらかくてとても美味しかったです! 来年は午年ですから、白馬伝説や上げ馬神事で有名な多度大社に参拝されて、帰りにぜひ食べてみてください。
個人の感想です。ステマじゃないですよ(笑)

【参考文献】
『日本書紀Ⅰ 』井上光貞監訳 中公クラシックス
『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『新版古事記 』中村啓信 角川ソフィア文庫
『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典・志村裕子 批評社
『特選神名牒』上巻・下巻 八幡書店
Google Gemini Pro
ナレッジジャパン検索『日本歴史地名大系』 『日本大百科全書』『世界大百科事典』ほか。
國學院大學データベース
掲載神社の由緒・社伝
画像は全て筆者現地撮影
