近江洲に大湖を開く
大和朝廷の全国統一 第四話 第十代 崇神天皇 ④
『海東諸国紀』
今回は李氏朝鮮の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟が記した『海東諸国紀』「日本国紀」から崇神天皇を考えてみます。
開化の第二子なり。元年は甲申。始めて璽剣を鋳す。近江洲に大湖を開く。六年己丑、始めて天照大神を祭る。七年庚寅、始めて天社・国社・神戸を定む。十四年丁酉、伊豆国船を献ず。十七年庚子、始めて諸国に令して船を造らしむ。(以下略)
※「伊豆国船を献上ず」と書かれていますが、伊豆国から献上された船というのは、崇神紀では無く応神天皇紀に記される「枯野船」のことで、崇神天皇と応神天皇を間違えているのではないかと思いますが。。
『海東諸国紀』とは、申叔舟(1417-1475)が1471年に日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・通交の事情を記した書です。1471年というと、中国は「明」の時代、朝鮮は「李氏朝鮮」、日本は室町時代、応仁の乱(1467-1477)の最中です。
『日本書紀』は720年に奏上されていますから、それから750年後の事ですね。内容は、古代に関しては『日本書紀』の要約と言えます。ただ、「朝鮮から見た日本」という視点が垣間見えるのが興味深いです。
崇神紀で言うと、「近江洲に大湖を開く」という表現です。近江(滋賀県)の大湖と言えば「琵琶湖」ですね。おそらく「大和と朝鮮半島の国(任那)との交易がはじまった」ことを独自の表現で表したのではないかと考えます。『日本書紀』崇神天皇紀に、「六十五年秋七月、任那国が蘇那曷叱智(垂仁天皇紀では一説によると都怒我阿羅斯等、またの名を于斯岐阿利叱智干岐と記される)を遣わして朝貢してきた」という記述にかかる表現だと思います。
※「任那国」は『日本書紀』に記される「伽耶」諸国の国の一つ。
都怒我阿羅斯等
以下、一般的に知られているので都怒我阿羅斯等の名前で話を続けます。
ツヌガアラシトは聖王がいると聞いて日本にやって来ます。ところが穴門(山口県下関周辺)に着いた時、その国の伊都都比古に「自分はこの国の王である。他に王はいない。他所に勝手に行ってはならない」と言われます。よくよくその人となりを見て、これは王ではないと思ったツヌガアラシトは伊都都比古の元を抜け出し、彷徨いながら日本海に出て、出雲を経由して角鹿(福井県敦賀市)へやってきたとされます(日本書紀垂仁紀を意訳)。
『日本書紀』の記述から、この時代「長門には大和朝廷とは非友好的な勢力がいた」ことがわかります。崇神紀で吉備津彦が四道将軍として西道に派遣され吉備を平定したと記されますが、長門(山口県下関周辺)までは支配が及んでいなかったようです。
「角鹿(福井県敦賀市)」に着いたツヌガアラシトは、おそらく琵琶湖の北岸の港(塩津港か?)まで徒歩で進みます。距離は約30キロ。もちろんこの頃の記録は残っていませんが、江戸時代の庶民が旅する時、普通に1日40キロメートル程歩いたといいますから、昔の人は現代人よりもはるかに健脚で、おそらくこの時代も1日で歩ける距離だったのだと思います。
そして再び琵琶湖を船で南下し、瀬田川(宇治川)を下って、当時あった小椋池へ。小椋池から木津川を遡って大和へ来たと思われます。
朝鮮半島から(出雲を経て)角鹿、そして琵琶湖を船で往来する大和への交易ルートが開かれたことを「近江洲に大湖を開く」と表現し、「大和と朝鮮半島の国(任那国)との交易がはじまった」ことを記したのではないかと思います。
このことを実現するためには、敦賀から大和への道中の安全が確保されることが前提となります。『日本書紀』は崇神天皇紀で、丹波へ四道将軍の一人丹波道主を派遣したことを記します。『古事記』では父にあたる彦坐王(日子坐王)を派遣したことになっています。
他の記事でも使い回している系図ですが、ご覧いただくとわかる通り、彦坐王(日子坐王)の子や孫は、丹波の他、山背(京都府)、近江(滋賀県)、三野(岐阜県)に分布しており、つまり彦坐王の伝承が伝わる地域を平定したことで、朝鮮半島から角鹿(敦賀)、そして角鹿から大和への道が開かれた(確保された)と考えることができます。

3世紀前半から中頃の時代
私は崇神天皇は3世紀前半から中頃の時代と考えています。弥生時代から古墳時代に移るまさにその時です。この前提で話をすれば、奈良の遺跡からはその頃の朝鮮半島や北部九州と交流を示す遺物はほぼ出土していないとこれまで何度も書いてきましたが、もう一度書きます(笑)
奈良県桜井市。大神神社や長谷寺などがあり、ある意味ここから日本がはじまったと言っても過言ではない場所です。その桜井市のキャラクターは「ひみこちゃん」です。その場所に住んでいると自分達の唯一無二の歴史遺産がどれほど大切なものかわからないのか、なんと安易な町おこしだろうと思います。まぁ、それはさて置き、桜井市の埋蔵文化財センターには、纏向遺跡から出土した土器などが展示されています。
纏向は『日本書紀』には、十一代垂仁天皇と十二代景行天皇の宮があったと記されるところです。十代崇神天皇の宮は少し離れた三輪山の南西 磯城瑞籬宮ですが、纏向遺跡にある箸墓古墳の逸話などが記されますし、年代的に纏向は崇神天皇の頃から造営がはじまったように思います。
下段は桜井市の埋蔵文化財センター展示の画像ですが、纏向遺跡から出土した「外来土器」をご覧ください。


【纏向に集う人々】の説明文では、「西は九州から・・」と書いていますが、実際は土器のカケラが数点見つかっているだけです。これは人の交流があったというより、リレー的に持ち込まれた土器の破片だとも考えられます。なぜなら纏向遺跡に先立つ唐古・鍵遺跡でも同じだからです。
あまりに少ないので円グラフには表示されません(笑)

それより【外来土器の地域】をご覧下さい。『日本書紀』に記される四道将軍の地域とピッタリではありませんか?


厳密に言うと四道将軍が派遣された地域プラス出雲ということになります。ツヌガアラシトも出雲を経由して角鹿(福井県敦賀市)へやってきたと記されていました。『日本書紀』は崇神・垂仁天皇紀で四道将軍とは別に出雲に関する記述があります。それはまた別の記事で詳しく書きたいと思います。
朝鮮半島南岸と北部九州相互の遺跡から出土する土器から、紀元前4世紀にはすでに北部九州と朝鮮半島南部の間に人の往来があったことがわかります。そして3世紀に入ると、朝鮮半島南岸の遺跡から出土する弥生土器が、北部九州の他に、山陰・瀬戸内・九州南部のものが出土するようになります。これは中国の史書が記す倭国大乱があった後の話になります。倭国大乱は女王を共立しておさまったと記されますが、私は朝鮮半島との鉄の交易を共立国にも認めたからおさまったのではないかと考えています。
実際に朝鮮半島側で畿内の遺物が出土するのは4世紀になってからですので、崇神天皇や垂仁天皇の頃の大和朝廷と任那(伽耶)との通交は出雲や吉備の海人族が、現代で言うなら商社の役割を果たしたのではないかと考えます。
大和と九州がこの頃まだ直接的な交流がなかったことは以前銅鐸の話でも書きましたが、この時代にその銅鐸が突然姿を消し、代わって銅鏡がつくられるようになります。これは時代の大きな変化と考えられています。そしてそのことをもって為政者が変わったとする説があります。確かに大きな変化ではありますが、それが為政者の交代を意味するものでは無いことをこの記事のまとめとして書きたかったのですが、字数が多くなってしまったので、続きは次回とさせていただきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
