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先生にとってのお客は「子ども達」!(早乙女哲哉 著「天ぷら みかわ 名人の仕事」を参考に) 



早乙女さんは、「料理」という分野において、「天ぷら」という方法を用いて仕事をしている。

それを自分に合わせてみたら、

自分は、「教育」という分野において、「森の幼稚園」という方法を用いて仕事をしている

と言える。

ただここで難しいのが、”お客”の定義である。早乙女さんにしてみれば、お客というのは文字通りお客であり、早乙女さんの天ぷらを食べに来た人を指す。単純である。

一方で、教育分野における”お客”は考える余地がある。まずは、”保護者”をお客として捉えるパターン。保護者をお客として捉えると、コチラとしては保護者に向けて仕事をしないといけない。とすると、保護者の望みは「ウチの子どもを良くしてくれ」ということなので、子どもと接する時に、子どもの奥に保護者が透けて見えるのである。こちらの行動の全てが、保護者の満足を得る為の行動となり、子ども達への意識というのが無い感じがする。

天ぷらで例えるのであれば、『保護者が子どもを連れて来店して、「うちの子を美味く揚げて下さい」って注文➡コチラは子どもを調理して保護者に提供➡子どもの揚がり具合を保護者が見て満足かどうかを判断』って感じ…笑

この形態は教育分野の中でも、「塾」に該当するのではないかと思った。保護者が「我が子の成績を上げてくれ」と子ども達を連れてくる。塾の先生はあの手この手を使って、子どもの成績を上げる。保護者は子どもの成績が上がったか下がったかで、その塾を判断する。

あと、音楽、外国語、スポーツに特化した幼稚園とかもコチラのタイプだと思う。「うちの子をここに通わせてあげてるんだから、ちゃんとうちの子に身につけさせなさいね!」みたいな態度を保護者は取ると思う。つまり、保護者がお客であり、子どもがそれを出来るようになれば、満足するのである。

もう一つのパターンは、”子ども”をお客として捉えることである。つまり、保護者は子どもを店の前まで送るだけの存在ということである。で、子どもがお店に入店してきて、席について、「美味しい天ぷらをちょうだい」と言うのである。そしたら、こちら側は天ぷらを用意して、子ども達に食べさせる。美味しいかマズいかの判断は子ども達がする。この流れにおいて、こちら側は保護者のことは考えず、目の前にいるお客(=子ども)に集中している。

自分としては後者の感覚である。つまり、自分は子どもの為に働いているという感覚を持っている。森の幼稚園は別に、「ウチに子どもを預けたら、将来こういう風に成長します!」みたいなことは謳っていないので、保護者が塾や特化型の幼稚園みたいな目線でコチラを判断してくることは無いと思う。なので自分としては、子どもを満足させるためにはどうすればいいかを考えてきた。

個人的には、天ぷらを食べ終わった子ども達が家に帰った時に、「今日食べた天ぷらは美味しかった」と言えば、保護者はそれで満足ではないかという気がする。我が子が幸せそうなら、その親も幸せを感じるのは道理だと思う。

保護者との関係性としても、保護者が子どもを迎えに来た時に、こちら側が「今日は海老の天ぷらを美味しく食べてましたよ」とか「にんじんの天ぷらを食べるの嫌がってました」って状況を伝えることが出来るし、天ぷらのプロとして、「ご家庭で天ぷらする際は~の油を使った方が良いですよ」とか「食材は~産がおススメですよ」というアドバイスが出来る。

(👆これはつまり、幼稚園でいうところ”家庭教育のサポート”の例。「今日は~で遊んでました」という状況報告や教育のプロとしての保護者へのアドバスを伝えることで、家庭教育を支援できる。)


早乙女さんと自分の状況をもう一度整理すると、

まず、料理という分野の中には、天ぷらもあれば、寿司もあれば、ラーメンなど様々な種類がある。その中で、早乙女さんは「天ぷら」を選択されて、仕事をしているのである。

で、教育という分野には、森の幼稚園もあれば、シュタイナー教育もあれば、塾など様々な種類がある。その中で、自分は「森の幼稚園」を選択して、仕事をしているのである。

天ぷら屋さんの性質上、お客というのは、数ある料理の中から「天ぷら」を食べたいと思って来た人を意味する。

森の幼稚園の”お客さん”として、自分は「子ども」と定義する。なぜなら、教育の恩恵を受けに来ているのは紛れもなく「子ども」だからである。保護者の存在は、数ある教育方法の中から「森の幼稚園」を選び、その子を通わせているというだけに過ぎない。先生が行うサービス(=仕事)を得るのは、送り迎えをしている保護者ではなく、先生と共に時間を過ごす子ども達である。

もちろん、保護者の方から教育についてのアドバイスを求められたら、先生として答えるし、コチラも家庭教育のサポートして、園での状況や教育情報を保護者に提供することは出来る。ただ、それはあくまでも付随的なモノであって、メインはやはり子ども達に対してどういう仕事をするかである


お客を定義することが出来たので、やっと話を進めることが出来る…笑

最初にお客を定義をした理由は、早乙女さんが語る「プロ」という言葉の定義に、お客という言葉が入っているからである。教育分野においては、お客は2通り考えられるので、最初に定義しておかないとごっちゃになってしまう。

早乙女さんのプロの定義がコチラ☟

私はね、料理のプロというのはあくまでも、おいしいものを食べたい人とか、いい気分になりたい人のお手伝いができる人―——そういう意味でしかプロだと思っていない。うん、プロっていうのはそんな程度だと思う。その分野のエキスパートとして、お客さんのお手伝いをしてあげられる、そういった人たちがやっぱし作家でありアーティストなんだと思うね。もう「一流の料理人だ」っつーてね、そのなかでも「オレは特別だ」みたいな顔してるやつがいるけど、そんなデカい顔をするようなものじゃないんだよね。どんなに手段的なものをそろえようと、どんなにテクニック的なものに自信があろうと、そこまで自分を高めたところで、ようやっとプロとして皆さんのお手伝いができる、というくらいなものなの。それを偉そうに「これはオレの作品だ」みたいなことをいってねぇ(笑)。たしかに料理も作品なんだけどさ、そりゃ私も作品であるという意識は持っているけどね。だけど作品なんてそんな程度のモン。お客さんがいい気分になるためのお手伝いをするという程度のものなんだ。

『天ぷら「みかわ」 名人の仕事』早乙女哲哉 P.15~16


ということなので、上記の言葉を借りれば、森の幼稚園で働いている教育のプロは、「”子ども”が良い気分になる為のお手伝いをする」人ということになる。


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お客の定義が出来て良かった。この定義については、これまで結構悩んでいて、保護者と子どものどちらにした方が良いのかと漠然に悩んでいたのだが、こうやって記事に書くことによって、言語化できたのが嬉しい。

仕事の対象が明確になれば、その対象に対して「創るモノ」のイメージも鮮明に描くことが出来る。で、自分が子ども達に対して創っているモノは、「森の幼稚園」と「自分という先生像」だと思っている。


「森の幼稚園創り」は、同僚の先生達との共同作業なので、自分一人で突っ走っていくことは出来ない。そこは他人との兼ね合いが大事になってくる。共創することによって、その森の幼稚園の特色や文化を構築していく。

だけど、「自分という先生像創り」は、自分の森の幼稚園の先生としての生き方の問題であり、自分で創るものだと思う。子ども達に対して、自分は先生としてどう向き合うのか。子ども達はそれを元に自分を判断してくると思う。だから、子ども達に対しては、この自分という先生像を売っている感覚。


で、この本のテーマには「モノづくりとは何ぞや?」というのがあって、早乙女さんがそれについて語られている部分がある。次の記事で、それを参考にしながら、自分の先生像創りをよりブラッシュアップして、より良い先生像を作れたら良いなと思う。

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早乙女さんの本を読み返したのは、Ciceroの映画を見たのがきっかけである。

この映画の感想として、「モチベーション維持って大変」というのを挙げた。で、あり得ないと言われた「ドイツ語」と「ジャズ」を見事な芸術に昇華させるほどの才能に溢れたCiceroがそういう状態に陥ったのを見て、個人的にめちゃくちゃ不安を感じたのである。

こんなにも音楽が好きで、音楽を創る才能に溢れた人が、よもや音楽から離れてしまうことがあるなんて…

自分としては森の幼稚園の先生としての仕事は出来るだけ長く続けたいからこそ、Ciceroのように離れてしまうことは避けたいと思った。

そこで思い出したのが、早乙女哲哉さんである。早乙女さんは15歳から修業を始めて、もう半世紀以上仕事を続けられている。その方の考え方を知ることが、自分の不安を解消することに繋がるのではないかと思った。

もちろん、成功、失敗、挫折、時代の変化など周りの影響を受けて厳しい状況に陥ることはあると思うけど、そんな時でも自分の拠り所となる「モノづくりの基本」があれば、何とかやっていけるのではないかと思った。

あと、山田玲司の切り抜き動画を見ていて、「技術なんて時間をかければ誰でも身に付くんだから、そこで勝負していたって先はない」みたいなことを言っていて、その通りだなと思った。先生としての“教育テクニック”(褒める、叱るとか)を身につけたところで、それは小手先のテクニックであり、もっと重要なのは「先生としてどう生きていきたいか」だと感じた。

そういう自分の先生像を創る際に、モノづくりの基本をしっかりと踏まえたいと思ったのである。

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