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最後の日に、口も綺麗にしてもらって良かった(訪問診療の話)




昔、歯科衛生士として訪問歯科診療をしていた。

あるお宅に、5〜6年ほど毎月通っていた。
ご主人はALS(筋萎縮性側索硬化症)という指定難病で、奥さんが在宅で介護されていた。

最初は虫歯治療の依頼だった。
治療や歯石取りが終わったあとも、月に一度の口腔ケアで関わりが続いた。

当時はまだ、ご本人が話せる時期だった。
治療のあとに「ありがとうございます」とお礼を言ってくださることもあった。


訪問看護さんも口腔ケアをされていると聞いていたので、

「今日はこういうことをしました。次にケアされる時は、このあたりを意識して磨いてください」

とメモを書いて置いてきていた。

あとで奥さんから、

「訪問看護さんが、あのメモ助かりますって。参考にしながらケアしてるって言ってましたよ」

と聞いたときは、少し嬉しかった。
口の中を拝見すると、乾燥気味ではあったけれど、歯垢は少なく、頑張って取り組んでくださっているのが分かった。

やがて、ご主人は自力で呼吸することが難しくなって入院した。
退院後、再び訪問歯科診療の依頼が入った。

そのとき奥さんから、

「入院中に容体が悪化して、気管挿管したの。もう喋れなくなったのよ」

と聞いた。

正直、何と返していいか分からなかった。
でも、無言でケアすることはしなかった。

天気のこと。
季節のこと。
うちの子どもがまだ小さかったので、その話。

そんな、たわいのない話をしながらデンタルミラーと歯ブラシを動かした。
ご本人は不随意運動されることが多かったけれど、時々こちらに目を向けて、ニヤリと笑うような表情を見せてくれた。

最後に会ったのは、ある午前中の往診日だった。
先生と二人で口腔ケアに行ったその日の午後、ご主人は亡くなられたと、後日奥さんから歯科医院へ連絡があった。

私はその日休みで、別のスタッフからその話を聞いた。
いつかは、とは頭の片隅にあったものの、聞いた時はかなりショックだった。

そのあとしばらく、私は眠れなくなった。

「私、何かやっちゃったのかな」

そう思っていた。

吸引をお願いしなかったことが、ずっと引っかかっていた。
口腔ケアのあとに、必ず伝えていたあの一言を言っていたら、何か違ったんじゃないか。

そんなふうに、自分を責めた。

でも後日、葬儀を終えた奥さんから、コーヒーの詰め合わせが届いた。

一緒に働くスタッフに

「一番訪問していたあなたから、連絡した方がいい」と言われた。

内心ドキドキしながら連絡した。
一体何を言われるんだろうと思った。


奥さんは電話でこう言ってくれた。

「旅立つ最後の日に、口の中も綺麗にしてもらえて、主人は喜んだと思います。ありがとうございました。」


その言葉で、私は少し救われた。

ああ、私、悪くなかったんだ。

ずっとどこかに残っていたものが、少しほどけた気がした。


奥さんは、いつもよくしてくださった。

こちらで、気を遣わないでくださいと言っても、
お菓子や飲み物を持たせてくれたり、
冷蔵庫からカットしたすいかやら、いろいろ出して「コレ持ってって」と言ってくれたりもした。

ご主人頭が小さかったんです

ある日の訪問診療の時に
奥さんが、
ご主人の頭を撫でながら、

「小玉すいかみたいでしょ」

と笑っていた姿も、今でも覚えている。


重い病気の中でも、夫婦で笑える時間があった。

私はそこに、医療者としてだけじゃなく、人として少し一緒にいさせてもらっていたんだと思う。

現在は歯科衛生士もやめて療養中の身である。


実は先日、たまたまその家の前を通った。

そこで奥さんらしき人を偶然見かけて、一気に記憶が戻ってきた。

懐かしいような、胸がぎゅっとするような、不思議な感覚だった。


でも、それは「おかしくなった」んじゃなくて、
私の中にその時間がちゃんと残っていた、ということなんだと思う。

長く関わった患者さんやご家族のことを、ふと思い出すことがある。
それはたぶん、ちゃんと関わっていたからだ。


そして今は思う。

あの時の私は、悪いことをしていなかった。
ちゃんと関わって、ちゃんと悩んで、ちゃんと仕事をしていた。


うつ病になったことも、恥ではない。
弱さでもない。


頑張りすぎていた人の、反応だったんだと思う。


だから私は今も、堂々としていていい。

訪問歯科で関わっていた時間は、ただの処置ではなく、その人の生活の一部に触れる時間だった。

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