生き物としての自分に帰る〜歩くことを大切にして得た25年目の答え
〜歩くことは、自己回帰である〜
最近、私は不思議な体験をしている。
鞍馬山で出会った声明のCD。
グレゴリオ聖歌。
比叡山の読経。
深川不動の護摩。
そして庭の水琴窟。
どれもまったく違うものなのに、なぜか同じ感覚が身体の奥から湧いてくる。
それは、「懐かしい」という感覚だ。
頭で理解する前に、身体が先に反応する。
声明の低く長い響き。
護摩の太鼓が腹に伝わる振動。
水琴窟の一滴の音が静寂に溶けていく瞬間。
その時、私は何かを得るのではなく、何かを思い出しているような気がする。
静かに、自分に帰る。
そんな感覚だ。
現代の私たちは、たくさんの情報の中で生きている。
何をすべきか。
どう見られているか。
もっと頑張らなければ。
もっと成功しなければ。
気づけば頭の中は忙しく、身体は置き去りになる。
けれど、祈りの響きの中にいると、そんな考えが少しずつ静かになっていく。
そして最後に残るのは、「私はここにいる」という感覚だけだ。それは宗教を超えた、生き物としての感覚なのかもしれない。
私は二十五年以上、ポスチャーウォーキングを伝えてきた。多くの方は、美しく歩きたいと思って来られる。
もちろん美しさは大切だ。
けれど私が本当に伝えたいのは、美しい歩き方そのものではない。
歩くことで、自分の身体に帰ること。
頭で考える自分ではなく、評価される自分でもなく、役割を背負った自分でもなく、ただ、生きている自分に帰ること。
足が地面を踏む。
背骨が伸びる。
呼吸が入る。
その瞬間、人は生き物としての本来の感覚を取り戻していく。
私は最近思う。声明も、グレゴリオ聖歌も、護摩も、水琴窟も、そしてポスチャーウォーキングも、目指している場所は同じなのではないだろうか。
もっと上へ行くことではない。もっと何者かになることでもない。ただ、自分の中心へ帰ること。
静かに。深く。そして自然に。
人は本来、歩く生き物である。
天と地の間にいるもの。
だから、人間。
二足で地球に真っ直ぐ立ち、天に頭のてっぺんを向ける。
すると一本の光の柱が背骨を貫くように通り、身体の奥のスイッチが入る。
夏至。一年で最も高く太陽が昇るこの季節に一つ皆さんに提案したい。
真っ直ぐに立ち、真っ直ぐに歩き、身体の中に光を通してみよう。
そして、自分の身体で生き抜くと決めるのだ。
歩くことは単なる移動ではなく自己回帰である。
どこかへ行くためではなく、生き物としての自分に帰るために、
背中に光を通して、足の裏を地球にピッタリつけ、
歩いて、自分に帰るのだ。
2026年6月15日
私は65歳の誕生日を迎えた。
一周回って、戻ってきて5年が過ぎた。
私の自己紹介
60歳で縁あって、ロサンゼルスに住む米国人男性と再婚して
日本とロサンゼルスの2拠点生活が始まった。
なぜ私はこの土地に来たのか、この年で。
神様や、ご先祖様は、私に何をさせたいのだろう?なんの役割があるのだろう?
その答えを探していた。
私はポスチャーウォーキングという
心と体の姿勢が美しい歩き方を考案し、指導する立場となって25年経つ。
日本人の歩き方を綺麗にする!と心に誓って(しまって)から
この道をまっすぐ歩いてきた。
そして、今滞在している、ここロサンゼルスの青い空の下でこれを書いている。
この65歳の誕生日前後に、次々に気づくことあり、あちらこちらで心に留まったことが繋がって、答えが出た。
歩くことは自分に完全に帰る道であること。
この思いに共感してくださる方は、きっと自分とは何か?を求めてきた方だと思う。
これから姿勢を正すことで人生が変えられる、お役に立てたらとても嬉しいです。ノートは今日が初めての投稿です。
ポスチャースタイリスト®|ポスチャーウォーキング創始者KIMIKO
