見出し画像

予感は当たる。それは悲痛なほどに、とても清々しいほどに。

1月末から東京と大阪でトークイベント2本、次の週に2つのパーティーでDJ、その他にも仕事の打ち合わせなどなど、最近は有り難いことに本当に忙しくさせてもらい、その影響もあってか、数日前から少し体調を崩していた。熱はないのだが、どこか全身の倦怠感が抜けない。病院に行って検査をしても、インフルでもコロナでもない。まあ仕方ない。この週末は少し休めるかな…と思っていた矢先のこと。

金曜の午前、実家から電話がかかってきた。体調を崩して深く睡眠していたこともあり、その電話には出れなかった。着信があったことに気づいたのは、およそ昼過ぎのこと。

祖母が死んだ。

数日前から何となく予感はしていた。最近は良くも悪くもよく勘が当たる。コンテンツ過剰接続の大阪トークイベントの配信チケットの最終売上枚数は終演直後に予想した枚数とほぼピッタリだったし(買ってくださった方々、本当にありがとうございます)、直近に予定していたが「うーむ…なんだかうまくハマりそうにないな〜」と思っていた仕事は、直前になってバラシとなった。

祖母は今年に入ってからというものの、長年患っていた病気が重症化し入退院を繰り返していた。最近になってまた入院した祖母から、最後にLINEが送られてきたのは先週月曜のこと。ウサギとクマのスタンプがひとつずつ。たったそれだけだった。文章はなにもない。一瞬戸惑ったが、おそらくそれは彼女の意思表示などではなく、ただのスマホの誤タップで、もう既に文章を打つ気力など残っていない状態であることを察するに時間はかからなかった。それでもどうか既読だけ、せめて読んでくれさえすればと思いながら、いかにも孫らしい、テンプレな返信を送ったものの、とうとう既読がつくことはなかった。享年87歳。分かっちゃいるけど。分かっちゃいるけども。ね。

祖母は、会いに行くといつも家の中を走り回って、せっせせっせと働いていた。昨年末に祖母の家の雪対策を手伝いに行った時も、元気に庭を歩き回り、雪囲いの紐を次から次へと結いていた。祖母が縛った紐は、僕がやったものよりも遥かに強く縛られていて驚いた。野菜やら果物やら沢山のお土産を持たせてくれて、帰りには近くの料理屋で蕎麦を食わせてくれた。祖母の頼んだ天ざる蕎麦の天ぷらは、ほとんど全部僕が食べることになった。

おそらく祖母は最後まで僕が何の仕事をしているのか、ちゃんと知ることなく死んで行ったと思う。ろくに定職にもつかず、次から次へと職場を変え、挙句の果てには「ライター」とかいう訳の分からないことをやり始めた僕のことを、ほとんど会う度に仕事が変わっていた僕のことを、祖母はどこまで分かっていたのだろう。どう思っていたのだろう。とんだ孫不幸者である。「銀行員」とか「医者」みたいな、周りに胸を張って自慢できるような仕事に就いてなくてごめん。これからはもっともっと訳の分からない仕事をする人になると思うけど、見ててね。

身内を失う経験は、祖父が死んだ時(おそらく僕は4,5歳くらい)以来久しぶりで、あまりにも幼すぎたゆえに当時の記憶はほとんどない。数年前に友人が死んだが、新幹線を乗り継いでようやく着いた時には既に遺灰になっていたので、顔を見ることすら叶わなかった。その点、今回はちゃんとお別れをすることができたので本当に良かった。とはいえ、僕が着いた時には既に死後24時間以上経過していたので、体は想像以上に冷えきって、手を握ろうとしても硬直して動かせなかった。たった2ヶ月前、わたしに天ぷらを取り分けてくれたその手は、本当に、ほんとうに信じられないほど冷たく、その冷たさが死という現実をどこまでも強く物語っていた。この冷たさの感触は今も残っているし、しばらくは忘れないだろう。

その夜、台所に向かうと煮物の醤油の匂いが漂ってきた。通夜の日の酒席で料理の支度やお酌に駆り出されるのは決まって女性で、特に田舎は今もその風習が色濃く残っている。僕は、母や親戚の女性たちと共に台所に篭城し、余った細巻きや冷えた揚げ物などをみんなでつまみながら、男たちのいる酒席に持っていく熱燗の出来たてを誰よりも先に飲んだりしながら、従属と抵抗の狭間で出来ることを探した。やむをえず瓶ビールを持ってお酌して回りに行くわけだが、そこでは「男なら30までには結婚しないとねぇ」とか「子供つくって見せに来てくれるのを楽しみにしてるよ」といった何人もの老人たちの純粋無垢な期待の言葉を浴びせられ、その度になんとなくの笑顔で返して回った。まあ人がひとり死んでいる上に、みんな酒をぐいぐい飲んでいるわけなので、この場に冷静な人間は誰もいないのだから仕方ないし、俺はそんなことでは傷つかない。ほんとうに大切なことはもっと他にあるから。

通夜の日は最期に祖母の顔を見ようと、たくさんの人たちが訪ねてきた。中には、ほとんど絶叫しながら泣き崩れてる人もいた。ところが、その絶叫のすぐ隣の部屋では、親戚の小さい子供たちが集まり、キャッキャとはしゃぎ笑いながらUNOをやって過ごしていた。僕はこの「悲鳴」と「笑顔」がひとつ壁を隔てて共存している光景が、心の底から衝撃だった。死んだ者がいて、それに心から悲しむ人がいて、そのすぐそばではなんてことない、くだらないことで笑い合う人たちがいる。これがほんとうの世界なんだと思った。ほかの誰に強制/矯正されることもなく、それぞれがそれぞれの輪郭を保ったまま、それぞれの感情を表出できること。それができるだけずっと続くようにと願うこと。ここに"ほんとう"はあると思う。

式次第が全て終わっても、僕は最後まで涙を流すことはなかった。別に「絶対に泣くまい」と思っていたわけではないのだけど。ただ唯一危なかったのは、祖母の遺体の上に着物を被せようと、小さな子供たちが6人くらいで棺桶の周りを囲み、それぞれが布の端を手に持って、せーので着物を広げた、その瞬間。ショット。あのたった一瞬に「生」と「死」、なによりも生命の輪廻が強く集約されていて、あれは忘れないと思う。

最近は斎場の火葬の技術も進化し、あまり煙が出ないようになっているらしい。式場のスタッフにそれを聞いて驚いた。やはり葬式といえば、斎場の煙突から白いもくもくした煙が出てくる光景(映画とかでよく見る)を想像してしまう。タバコ吸いながら煙突の煙を眺めるやつ、やりたかったな。あと収骨のときに、箸で拾い上げた骨がやたら重くて驚いてたら、人工関節のボルトだった。葬式ってとても不思議。葬式ってフェイクとリアルじゃん。みたいな見立てを葬式に参列しながら一瞬でも考えてしまうくらいには、つくづく孫不幸者です。ほんとうに呆れた。ああ、なんだか少し清々しい気分。

人が死んだら音楽を流すってのが筋なわけで、帰りの車で聞いた折坂悠太「朝顔」は、ちょっとほんとうにすごかった。

最後にひとつ聞きそびれた事 ふと呟いてる
「あの日なぜ逢えたの?」
お祭り囃子の人波の向こうで
手招く誰かを覚えている

折坂悠太「朝顔」

僕の頭の中にある祖母とのもっとも古い記憶は、たぶん小学生くらいの時、近所の夏祭りに連れてもらったこと。人混みの中、やはり迷子になってしまった自分のことを、祖母は何とか見つけてくれた。おそらく一生懸命走り回ったせいか、きつく息切れしながら、ぎゅっと強い力で僕の手を引く祖母の、怒りとも安堵とも言えぬその表情がずっと脳裏に焼き付いていて、それが時々、暖色の炎のようにゆらゆらと、今でも夢に出てくる。だからそうだね、これからもどうか変わらず、夢のなかで会えたらいいな。

追記:これからの時代は「ゾス」と「祈り」じゃ!ガハハ!みたいなことを言ってたら、「葬式」というまさに「ゾス」と「祈り」の究極みたいな体験をする羽目になりました。葬式の合間にふとできた時間でノートPC開いて請求書作ってる時の自分、完全にゾスと祈りだった。

いいなと思ったら応援しよう!