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2025年 読んでよかった本


はじめに

2025年は、人生で一番本を読んだ年だったと思う。ポッドキャストを始めてから今まで以上にインプットが必要になったし、なにより、本を読むと「生活にメリハリが生まれる」ことに気づいた。

自分の場合、本を読むときは必ず椅子に座り、できるだけ姿勢を正した状態で読むようにしている。逆に、スマホでバラエティ番組を見たり、SNSを見たりする時なんかは、ソファで寝そべりながらダラダラくつろいでも良いことにする。

椅子に座って背筋を伸ばすと、適度な緊張感が生まれる。交感神経が優位になり、すると脳への血の巡りが良くなって、集中力や理解力が高まる。読書に最適な状態を保つことができるらしい。

つまり、椅子を「今から集中してインプットする場所」、ソファを「ダラダラする場所」として脳に教えてあげることで、オンとオフのスイッチの切り替えを明確にする。この切り替えが曖昧だと、脳が今「集中すべき」なのか、はたまた「休んでいい」状態なのかを混乱してしまい、中途半端に身体に疲労が溜まってしまう。思考を整理するためには、まず習慣や行動を意識することが大切なのだ。

・・・という話を、自分はGeminiに教えたもらった。自分の普段の生活習慣を入力して、その上で「なぜ、例年よりも効率よく読書ができているのか?」というその理由をAIに考えてもらった。本を読まなくても膨大な情報を仕入れることができる時代。それなのに「人はなぜ本を読んでしまうのか?」

幼少期から特別熱心な読書家でもなかった自分にとって、本とは、別に読まなくてもいいのに読んでしまう不思議なものだった。昔から文学・小説にあまり触れてこなかった自分は、その代わりにずっと漫画を読んでた。周りの大人たちに「漫画ばかり読んでると頭悪くなるよ」なんて言われながらも、本来読まなくてもいい漫画をずっと読んでた。『銀河鉄道999』や『ベルサイユのばら』も読んだし、コロコロコミックも読んだ。今思うとあれは、幼い頃に読み聞かせて貰ってた絵本の延長だったのだと思う。絵本と漫画がプラットフォームのかたちとして極めて近かったからこそ、文学や小説よりも自然に没入することができた。

今は本も車も映画も、若者たちはどんどん「脱・プラットフォーム化」している。代わりに「推し活」やマッチングアプリを通じて、誰かに適応・トレースする「入・ヒト化」へと消費のかたちを変えつつある(「脱」の対義語って「入」で合ってるのかな)。自身が崇拝する、好きな存在を軸に、自分の消費行動を決めるのだ。ゆえに物語を欠かすことができない。

本も車も映画も、若者たちはプラットフォームそのものの恩恵を噛み締めているというより、むしろファッションとしての機能を希求している。エドワード・ヤンや北野武、『海がきこえる』に代表されるリバイバル上映の相変わらずの盛況をみるに、都市の暮らしをシャープかつフレッシュに映し出す作品の魅力に、ファッションの側面から、あるいは都市を生きている上で誰もが感じる「孤独」や「衰弱」の側面から自身の物語との共鳴を発見した若者たちが、体験してこなかった時代へのノスタルジーによる躁鬱とニューエイジな劇伴に麻酔され、マガジンハウスとともに行進する光景が頭に浮かぶ。

エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』

ネットフリックス最後の銃弾である『ストレンジャー・シングス』が終結し、ワーナーが買収され、大阪万博が建築家やプロデューサーの名前をもとに称賛を受け成功を収めた2025年を振り返ると、人々の消費行動の興味はプラットフォームからヒトに対するものへとシフトチェンジし、それぞれの物語を見つけることのできない者はあっけなく淘汰される時代になった。

たとえば、今年の人文メディア周辺の出来事を振り返ってみても、「人文」というプラットフォームや磁場そのものではなく、書き手や評論家など「ヒト」それぞれに対する興味の方が明らかに目立った。もちろんこの流れが続けばシーン全体の体系は作れないだろうし、後々振り返ってまとまった歴史の流れを捉えることも困難になる。そこでもう一度、ある種の「プラットフォーム」を取り戻そうとする運動が必然的に発生する。今話題の「令和人文主義」もまさしくその一つのように思う。「ヒト」に集まったアテンションを「界隈」として回収し直す。そこには業界全体の勢いをプッシュする利点もあるわけだが、同時に、それぞれの著書や作品での主張を散逸させてしまう危険性もある。「チーム友達」をやるのは想像以上に難しい。その中の誰かが「お金稼ぐ、私はスター」と叫ぶならば、なおさらだ。

人はもう簡単にプラットフォームを信用できなくなっている。WBCの地上波放送もなくなり、日々いくつもの配信サイトが消滅と合併を繰り返しているのだから当然なわけで。
そんな中、個人の、ダイレクトメディアの時代への突入が囁かれている。ダイレクトメディアが台頭し、不安定で不確かな発信が一層増えかねない状況だからこそ、発信者ではない、受け手の人間に対しても、理解と判断の主体性が求められる。でないと、人は簡単にSNSを彷徨いながら罵詈雑言を撒き散らすゾンビになってしまう。

だからこそ本を読むのだ。今年Netflixで『オフライン ラブ』という恋愛リアリティ番組があったが、本こそまさに「オフライン」である。一度刊行されてしまえば、誰にも手直しすることのできない本。世との隔離性。世と最も常時接続されている人間が、世と最も隔絶している本を読むこと。つまり両極端を併せ持つこと。人間にしかない動物性が発揮される瞬間。アナログレコードの復権に「配信不可能な音盤(山下達郎や権利関係が複雑な作品)を再流通させる」という意義があったように、アナログの紙の本にも可能性はある。となると、なおさら古典作品を読まねばという気持ちが高まるわけだが。今年、新刊の流行小説の読書量を意識的に増やして思ったことだが、もはやあれは「SNS」時代を表象することが目的化しているように思う。現代社会の様々な事象からいくつかを引用し、そこからストーリーを構成する。そこには写し鏡としてのリアリティはあれど、根本的な概念や思想、ステートメントの更新が乏しい。「そもそもあの古典作品読んどけばいいのでは?」と思うことが増えた。

古典とは、常に引用・参照され続ける体系として「プラットフォーム」としての側面もありながら、同時に、歴史に残ってきた故に強大な作家、つまり「ヒト」との対峙を余儀なくされるものである。人類の偉大なる発明。とにかく自分はそんな古典のオーラに当てられまくった一年だった。大変だったけど、めちゃくちゃ鮮烈な体験だった。来年もたくさん本を読んでいこうと思う。獣のごとく勉強したい。

というわけで以下では、今年読んで良かった本をいくつか挙げていこうと思う。絶版になっている昔の本も多いですが、ご了承ください。買えない本を見つけることもまた鮮烈な読書体験のひとつなのだから。


2025年読んでよかった本

『発想の周辺―安部公房対談集』(新潮社)

いきなり絶版です。SKE48の大大名曲『1!2!3!4! ヨロシク!』に「恋ってさ、しようと思うとできなくて、今はいいやって思うと、現れるんだって」という歌詞があるが、まさにこの本も、以前からずっと欲しいな〜と思っていたもののなかなか見つからず、そのことをすっかり忘れた頃になって偶然古本屋で発見した。見つけた瞬間、まるで本が光って見えたのことを覚えている。
 その名の通り、作家・安部公房が様々な論客と対談したものをまとめた一冊なのだが、その対談ラインナップがめちゃくちゃ豪華。石川淳、三島由紀夫、大江健三郎、岡本太郎、芥川比呂志、石原慎太郎、勅使河原宏、針生一郎、ミシェル・ビュトール……すごい。
 対談の内容もとにかく濃密で、たとえば岡本太郎とは『宇宙・人間・芸術』というフィッシュマンズみたいなタイトルで、ひたすら宇宙旅行の話をしている回では、科学技術の合理性の追求のために生まれた近代的なグロテスクともうひとつ、我々人間がイマジネーションとして持っている精霊、幽霊、亡霊、鬼…みたいな神秘や迷信のたぐいの、原始的なグロテスクの二種類があると語る。しかしこのままだと人間はその二種類のグロテスク、つまり「仕組みがあらわになりすぎことで抱く恐怖(グロテスク)」と「仕組みが分からないことで抱く恐怖(グロテスク)」を混同しかねないと危惧していいる。労働者を単なるデータや配線として扱うような産業構造も、社会システムへの不信を悪魔的神話に変換してしまうような陰謀論も、宗教による混乱も、それら全てが同じようなグロテスクとして取り巻き、扱われている現状は、まさに岡本が危惧していた世界そのものに思える。

 対談というものは、速記がはじまったところで、すでに終っているべきだという説がある。対談を、対立する意見の勝負だと考えれば、そのとおりだろう。たしかに速記原稿が上ってからの加筆修正は、対立点を曖昧にするし、勝敗をうやむやにしかねない。極端な場合、証拠隠蔽にもなりかねない。
 だが、そんな対決だけが、対談のすべてではないはずだ。対談という形式はむしろ、対話に向いているような気がする。対話には争点や勝敗よりも、発想の展開が問題だろう。だから、速記の開始どころか、さらにさかのぼって、相手を選んだ時にすでに終っていると言うべきなのかもしれない。
 じっさい対談のあと、記憶に残っているのは、話し合った内容よりも、むしろ相手の人格や性格である場合が多いようである。ぼく自身も、自分の発想の構造をさらけ出してしまったような不安におそわれることがしばしばだ。しぜん対談の機会も少くなってしまう。いくら対決したい相手に事欠かなくても、対話の相手はそうめったにはいないのである。

『発想の周辺―安部公房対談集』安部公房 あとがき「対談嫌いの弁明」

『詳説世界史B』(山川出版社)

なんと教科書。高校で理系選択だった自分は世界史というものにまともに向き合ったことがなく、突然誰かに「〇〇革命」とか言われても、イマイチピンと来ない…みたいな経験をすることが多かった。音楽や映画の本や批評を読解する上で、世界史の知識を求められることもしばしば。ジャンル問わず、優れた論者の脳内には、当たり前のように世界史の体系がインプットされていて、彼らはごく自然に歴史の事象を引用・参照しながら言論を展開する。「今起きているこの事件は、16世紀にあった〇〇という運動と酷似していて〜」みたいに語ることで、論拠の肉付けにもなる。それに出くわした時、ひとまず教科書を手引きに考えてみる。あとは例えば、韓国フェミニズム文学を読み、三島由紀夫を読んだ後に、一度教科書に立ち戻り、思考をリセットすることもあった。分からない言葉を引くための辞書としても、自身の思考の方向性をフラットにするための道具としても、教科書ってやっぱりよく出来てるな〜、大事だな〜と痛感した。


田村隆一『ぼくの中の都市』(出帆新社)

戦後日本の現代詩を牽引した詩人・田村隆一の随筆集。彼なりのユニークな視点から東京の都市論が綴られている。山下達郎の大名曲『僕の中の少年』、あるいは『内村プロデュース』から生まれたユニット・NO PLANの大大名曲『君の中の少年』を彷彿とさせるタイトル。ポッドキャスト『コンテンツ過剰接続』で乃木坂46の特集をする際、東京の都市性を考えるための副読本として古本屋で購入した。田村隆一は詩人でありながら、詩誌『荒地』の創始者メンバーとして編集にも携わっていた人物であり、周辺の文藝人たちと共に詩の雑誌を作っていたという点は、現代のZINE文化にも共通するものを感じる。そしてまたこの本自体も、田村の論考のほかに、対談、詩、さらには書評まで様々なフォーマットの文章が並んでいる。まさにZINEだ。

 アメリカのある都市では、「サイレンス」というレコード(シューク・ボックス)があって、客が静けさを欲するときは、コインを入れて、三分間の「サイレンス」を買うという話を聞いたことがある。三十分の静けさがほしかったら、コインが十枚必要になる。
 日本にも、「サイレンス」を買う時代がくるかもしれないが、日本の都会では、その商法はきっと失敗するだろう。
 なぜなら、都会に集まってくる人たちは、喧騒と過密が大好きなのだから。彼らは、「サイレンス」を買うよりも、喧騒と過密を買っているのだ。

田村隆一『ぼくの中の都市』

しかし現代は「サイレンス」に金を払う時代になった。プラットフォームに表示される広告を消すためには、有料プランに課金する必要がある。駅ナカにはテレワークのためのカプセルボックスが設置され、商業施設には静かな環境で仕事や読書をするためのコワーキングスペースが増えている。かつて「喧騒」と「過密」こそが都市の象徴だったのが、コロナやインバウンドの隆盛によってそれらはむしろ忌避される対象となり、今では都市の人々の要請に応えるように「静けさ」専門の場所と「馬鹿騒ぎ」専門の場所がしっかりと区分けされるようになった。偶然性を手放し、必然性によって作り出される都市。その行先について考える上で、手助けとなる一冊。


隈研吾『隈研吾:レクチャー/ダイアローグ』(INAX出版)

こちらもまた都市について考える上で手引きとなるだろう。今年はまさに隈研吾がデザイナーとして監修に入ったTAKANAWA GATEWAY CITYや、早々に賛否両論を巻き起こした沖縄ジャングリアの開業、なによりも大阪万博の成功によって、人々の関心が「建築」に強く集まった一年。また『メガロポリス』や『ブルータリスト』を筆頭に、「建築」を題材にした映画も目立った。

この本もまた、隈研吾が気鋭の建築家や社会学者たちと対談したものがまとめられた一冊となっている。中には、大阪万博の大屋根リングの設計で話題となった建築家・藤本壮介との対談も収録されている。最初キャリアが精神病棟の設計から始まったという藤本の当時の葛藤や、仕事の中で「ゆるさ」を実現するための方法論の育て方などを語っている。対談の題は「ゆれながら建築を考える」。生み出した方法論や様式を確立化する一方で、そこに安住しているようではいけない。そのアンヴィヴァレンスの中でゆれながら活動を続けることが大切だと隈は説く。東京とニューヨークを横断し、相対化することによって、その「あわい」から都市の建築のあり方を捉えようとする。それは藤本が大阪万博の大屋根リングのテーマとして込めた「ひとつであり、同時にたくさんである。たくさんであり、同時にひとつである。」へと確実に繋がっている。

森美術館「藤本壮介の建築:原初・未来・森」展で撮ったメモ

また、あとがきにこんなことが残されていた。

収録した対談の半分程は、信頼する編集者のひとりである萩原富雄さんにセッティングしていただいたが、忙しい人間同士なので、結果として「深夜対談」が多くなった。深夜になると、いい具合に疲れていて、いろいろなことがどうでも良くなっていることが多く、そのどうでもよさがよい結果を生んだような気がする。

隈研吾『隈研吾:レクチャー/ダイアローグ』あとがき

ポッドキャストを深夜に収録している立場として、非常に強く頷ける。


飛鳥部勝則『抹殺ゴスゴッズ』(早川書房)

『殉教カテリナ車輪』『バベル消滅』の飛鳥部勝則による15年ぶりの長編小説。令和と平成、二つの時代が交錯して語られるゴシック・ミステリー。令和の世では、高校生・詩郎が空想した神「怪神コドクオ」が突如実体化し、彼を襲う不良たちを虐殺するという怪異が発生する。一方、平成の世では若き日の父・正也が、不気味な旧家と地下金鉱を舞台にした「怪人蠱毒王」による連続密室殺人に巻き込まれる。妄想から生まれた神と過去に実在した怪人、そして父と子の因縁が複雑に絡み合い、名画や宗教にまつわる濃密な衒学と猟奇性が横溢する物語となっている。

物語の冒頭で詩郎が謎多き女子高生に遭遇するのだが、弱っている彼女を助けると、いきなり吐瀉物をぶっかけられ、接吻を余儀なくされる。まさに『チェンソーマン』のゲロチューだ。また、自らの身体に取り憑く怪神を飼いながら敵と戦う設定に関しては、ほぼ『呪術廻戦』といえよう。怪異や暴力団との抗争、詩郎を取り巻く不思議で魅力的な女性たちとの逢瀬、それらをミステリーの論理的展開とエログロでアヴァンギャルドに描きながら、青春劇としての瑞々しさも欠かさない。現代の漫画を代表する『チェンソーマン』『呪術廻戦』の二作品と通底するテーマを、小説というフォーマットで更新する、650ページの力作。何よりこれは「創作」についての作品でもある。作中のとある人形師の葛藤が描かれるこの部分。

「子供の頃から長きにわたって、闇の果実から滴る果汁のように甘美な黒い妄想を抱き続けてまいりやした。夢は常に夢にすぎませんでしたが、しかし制作者たるもの、その現実以上に濃密な妄想を脳裏に刻み、夢をうつつと信じ、さらには他者たる受け手にも己同様に黒い夢を現実と信じさせる、それ以上の何ができましょうや。悪夢の黒い翼を受け手の脳裏に広げさせる、それ以上のどんな手柄がありましょうや」

飛鳥部勝則『抹殺ゴスゴッズ』

濱口竜介, 三宅唱, 三浦哲哉『演出をさがして 映画の勉強会』(フィルムアート社)

現代日本映画を牽引する映画監督・濱口竜介と三宅唱、映画研究者・三浦哲哉の三人による「映画の勉強会」。ロベール・ブレッソンやビクトル・エリセ、トニー・スコットや侯孝賢(ホウ・シャオシェン)といった巨匠たちの作品を通して「演出」とは何か?について対話しながら、探っていく。ここまで聞くとよくある映画批評のように思えるのだが、本作が違うのは、3人がとにかく陽気に語っているという点である。つまりこれは三宅香帆が提唱する「ごきげんな批評」を実践した一冊なのだ。昨年末に公開された佐久間宣行との対談で三宅香帆は次のように述べている。

三宅香帆「もともと私は批評や評論というジャンルが好きなんですが、「世の中の人たちはあまりこのジャンルが好きではなさそうだ」と思っていて。その理由を考えた時に、漠然とですが、批評や評論ってなぜか文体として“機嫌が悪そう”な印象があるのでは、と……。書いてあることは面白いのに、「批評=機嫌が悪い人の言葉」というイメージが先行して手に取らない人も多いのでは、と感じているので、私は“ごきげん”な批評家を目指したいです」

よみタイ【佐久間宣行×三宅香帆 特別対談/前半】 なぜ働いているとごきげんではいられなくなるのか

これは映画批評の世界においても同様で、語り手のジェンダーバランス以前に、とにかく皆「機嫌が悪そう」に語っているなと感じることが多い。ある程度難しいことを喋っているのだから仕方ないといえばそれまでなのだが、自身の観客のみならず、意図せぬ受け手にも言葉を届けることができなければ、いつまで経っても世界は変わらない。そのためには「この人の話なら聞いてて楽しそう」と思わせなければならない。

この本も、従来の映画批評本のように、基本的には「演出」や「編集」について語っているのだが、会話のリアクションがいちいち素朴なのである。侯孝賢『ミレニアム・マンボ』についてのくだりでは、

濱口「二十一世紀の侯孝賢は李屏賓(撮影監督)との共依存みたいな感じはけっこうするかな。」
三宅「まあ、誤魔化しのようなカメラポジションでも、スー・チー(本作の主演女優)ぐらい最高の被写体なら全然いいんですけどね!この映画のスー・チー、ほんと好き。本当に良くない?
濱口「かわいいもんなあ。声、こんなふにゃふにゃしてんだなって。

濱口竜介, 三宅唱, 三浦哲哉『演出をさがして 映画の勉強会』

濱口竜介の唐突の「かわいいもんなあ」、読んでて思わず爆笑してしまった。「ふにゃふにゃ」もいい。これを「柔和な佇まいの女優である」なんて批評らしい言葉に変えてしまえば、一気に堅苦しくなる。「ふにゃふにゃ」の方が女優の魅力がダイレクトに理解できる。このほかにも、「かっこいい」とか「最高」とか、とにかく語り手のご機嫌な口調が文章全体から伝わってくる。ビックリマーク(!)を多用しているのもいい。あと、他の作品と比較するときに、トム・クルーズや『闇金ウシジマくん』といった誰でもわかる例を引っ張ってきてるのも受け手に優しい。それでありながら、いざ議論の核心を突く時は、鋭く、ソリッドに決める。『コンテンツ過剰接続』の「映画的」回でも話したように、濱口の他の著作も読んではいたのだが、自分でもコンテクストや筆者の手癖の複雑さに挫折しかけた。しかしこの本に関しては、ある程度「映画」というものに興味のある人間ならば、誰でも気軽に読み進めることのできる一冊だと思う。取り挙げる作品も最低限の範囲で重要な作品に絞っている(といっても、自分もそれら全てを観ているわけではないんだが…それでも全然読み進められる)。まだ発売されたばかりなので、これから是非。


舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』(講談社文庫)

ここ数日で読んだばかりの一冊。発売は2004年。選んだ理由はシンプルで、乃木坂46の遠藤さくらがブログで紹介していたから。遠藤さくらが紹介する本はもれなくすべて傑作である。人が本を選ぶように、本もまた人を選ぶ。傑作に選ばれ続けるのが、遠藤さくらという人なのだ。自分もそうなりたい。そのために頑張らなければいけないと、強く思う。

なので小説の内容について調べることもなく、遠藤さくらが選んだ本というただ一点の理由だけでもって、すぐKindleで買って読んだ。(本作以外にも、あずまきよひこ『よつばと!』の写真を載せている)。

ページを捲ってすぐの書き出しで、思わず自分は腰を抜かした。この一年、まさに自分がずっとずっとずっと考えて続けていることが、そのまま綴られていた。

愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。暖かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。
(中略)
 祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいと思うことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願う。希望を持つ。

祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。

舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』

震えた。彼女はこの文章をどのような気持ちで読んだのだろう。思い返せば、彼女が属する4期生の世代は、とにかく悲惨な出来事ばかりだった。デビューしてしばらく経ち、ようやく自分たちだけでステージに立てると思いきや、コロナでライブが開催できなくなった。怪我やスタッフのハラスメントによってアイドルを辞め、キャリアを諦めた同期もいた。そして今年は同期から二人が卒業していく。そんな境遇の中で、彼女はこの文章から何を思ったのだろう。何を祈るのだろう。「過去について祈るとき、言葉は物語になる」本当にそう思う。本を読んだときに、その本について考えるだけでなく、その本を読んだ人たちについて考えること。過去・現在・未来にあるそれぞれの境遇や暮らしの営みに想いを馳せること。そこにどんな友情や恋愛、孤独な葛藤や闘争があろうが、それらはすべてが等しく尊いと気づくこと。それもまた「祈り」の一つだ。

なので小説の内容はよく覚えていない。とにかくずっと、ぼーーっとしながら読んでいた。そして読み終えたあと、この本を読んだ彼女のことを考えた。2025年の最後に、とても稀有な読書体験だった。偶然が必然になる瞬間を手繰り寄せていく、私たちにできるのはたったそのくらいのことだと思う。日々黙々とできることを、やり続けるだけ。するとやがて光は差す。2025年も「祈り」と共に、引き続き活動を続けていこうと思う。やるしかないんですよ。

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