エッセイ|舞台人たち
こんばんは。
今年の目標のひとつとして、「富士山に登る」を掲げたはいいものの、まだ準備らしい準備をする気配さえない自堕落な筆者です。
実のところ、富士山は中学生の時に登ったことがあるんですよね。(一応頂上まで行きました。)
あの時何が辛かったかといえば、下山がもうとにかく単調で、足もずっと踏ん張ってなきゃいけなかったという点に尽きます…。(筆者の友人のひとりはこのまま転がって下山したいとまで言っていました。樹海に突っ込んで死にますが。)
そんな、「もう二度と登りたくねぇ!」と当時は思った富士山にもう一度挑戦する気になるなんて、我ながらとても不思議な気分です。
というわけで、今宵は「身体」をテーマにしたエッセイをお届けします。
身体を使ってなにかをすること自体が苦手な筆者ですが、身体論にはめちゃくちゃ興味がある手前、このテーマは外せません。
さあ前口上はこのくらいにして、早速いってみましょう!
思い返してみると、裸というものを生でまじまじと見る機会ってほとんどない。
自分の裸は、あまりにもだらしなくて見るに耐えないと思ってしまうし、他人の裸なんて合法的に隅から隅までじっくり見ることのできる場所は、そりゃあ限られてくるだろう。
もちろん、裸に限らなければ、他人の身体を見るシチュエーションはぐっと増えてくる。
例えば、スポーツを観たり演劇を観たり曲芸を観たり、と日常生活の中で身体やそれが描く運動の軌跡に見入ってしまう場面というものは、案外珍しくもないものだ。
スポーツも演劇も曲芸も観て楽しむ習慣はなかったし、学生時代の頃から運動もろくすっぽできず、もっぱら頭でっかちに考えることが好きだった私にとって、身体はどこか遠い異国のような、馴染みのない距離あるものに過ぎなかった。
いや、それどころか、自律神経失調症を患いしばらく薬のお世話になっていた私からしてみれば、内臓を含めた身体の領域はコントロールがきかない暴れ馬のような、煩わしい存在でもあったように思う。
そんな恨みにも近い何かがこもった私の身体に対するまなざしを変えてくれたきっかけは、最近新潟県を中心に活動している「りゅーとぴあ劇場専属舞踊団Noism」の芸術監督を引退することを発表した、舞踊家である金森穣さんの素晴らしいソロダンスパフォーマンスを動画越しに見たことだった。
より正確には、それ以前に某人文雑誌の企画で身体論をテーマにした座談会に金森さんが参加しており、彼の発言や考えに触れたことが前段としてあって、と付け加えた方がよいかもしれない。
そのパフォーマンスについては、月並みな言い方だが言葉にすることがおこがましく思えるくらい圧倒的で、自分の身体が底から揺さぶられるような錯覚を覚えたほどだ。
それほどまでに、彼の身体と動きは、私がこれまで見知っていたはずの身体の概念をたちどころに“異化”してしまうに十分なものだった。
言ってしまえば、人間の身体の可能性、日常の雑事的諸目的から解放された身体のための身体の可能性を、ほとんどはじめて目の当たりにしたことで、私は身体に対する「独断のまどろみ」から目覚めた気がしたのである。
なんて、大袈裟な言葉を並べ立ててはみたものの、しょせんは生ではない動画による体験でしかなかったという事実が、当時の私に何とも言えない割り切れなさを感じさせたことは間違いない。
いやいや、たった一本の動画なんかでそうやすやすと長年培ってきた身体に対するまなざしをひっくり返すことなどできるものかよ! やっぱり、なにかの間違いなのでは?
そういった疑念が結局消えず、ならばと思い立ったある秋口の日、私は母とふたりで金森さんが演出振付を務めたバレエ公演を観に行くことにした。
そのためにわざわざ一番良い席を予約したり、ドレスコードとかあるのかしら? などと調べたりして、わくわくそわそわしながらその日が来るのを待ったことを昨日のことのように思い出す。
結果は…何とも微妙だった、としか言いようがない。
ダンサーたちの踊りや舞台全体の演出はそれはもう見事なもので、一糸乱れぬ群舞に次々と場面が切り替わって物語が紡がれるプロセスは観ていて飽きをこさせない工夫が随所に凝らされているように感じられた。
ところが、だ。
それらを楽しむために座った座席があまりにも悪かった。
せっかく高いお金を払って前から三列目くらいの場所を取ったのに、何故か前の方の列は段になっておらず、前の席の人の頭が邪魔で演目にあまり集中できなかったのである。
これならひとつグレードを落として、もう少し後ろの列から観たほうがよっぽど楽しめたかもしれない。
かくして、私にとってはじめての生のバレエ公演は、少しばかり苦い思い出として記憶に刻まれることになったのだった。
ところで、もうひとつ気になったことがある。
確かに、席さえ良いところを押さえればより満足できる観賞経験になったかもわからないが、それでも果たして私が金森さんのパフォーマンスを動画越しで見たあの体験を超える経験を得られたかどうかと問われると、正直なところ得られなかったんじゃないかという気がするのだ。
それは金森さん個人がどうとか、バレエ団の演舞の質がどうとかとはまったく関係がない。
あるいは生であるか動画であるかの違いさえ関係がない。
では、いったい何が関係しているのか。
私はそこまで考えて、はたと気付いた。
ソロであるか否か、だと。
──
舞踊評論家である海野敏によれば、バレエの歴史において「群舞」が欠かせない要素となったのは、19世紀前半の頃のことであったという。
この頃のバレエといえば、一般的にヨーロッパを中心に発展した「ロマンティック・バレエ」と呼ばれるものを指していた。
私たちが一度は耳にしたことがあるであろうロシアを中心として発展した「クラシック・バレエ」は、まだ影も形もない。
ロマンティック・バレエを主に楽しんでいた観客層は、それ以前にバレエの主な観客層であった「王侯貴族」ではなく、「貴族的な文化に憧れを抱いていた新興ブルジョワジーの男性たち」であったらしい。
さらに、バレエダンサーを見ても、それまでは男性に比べて特別注目されてこなかった女性ダンサーにスポットが当たるようになり、「ブルジョワジー男性の視線の下、女性ダンサー中心の時代が始まった」とされている。
なるほど、するとこの時代のバレエは急速に性的な含みを持つようになったということなのだろう。
現に海野は、「ブルジョワジーの男性たちを魅了したのは、神話・伝説をテーマとしてダンサーがパントマイムで物語を演ずる舞台ではなく、ロマン主義的なテーマで、女性ダンサーたちが薄い布地の衣装を着て軽やかに飛び跳ね、アクロバティックに回転して踊る姿だった」と解説してくれている。
個人的には、「アクロバティック」という要素も見過ごせない。
バレエの曲芸的要素が重要視されるというのは、やはり観客が演舞に快さを求めようとするからではないか。
群舞にしても、大勢で息を合わせて同じ動きをするなど、観る者にとって驚きと感動を与えるためのひとつのテクニックという側面があることは確かである。
以上のことを総合して考えてみると、私はどうやらそれらの持つ“エンターテインメント”性という点に引っかかりを覚えていたようなのだ。
もちろん、そういう要素があっちゃダメだと言いたいわけではない。
そうではないのだが、少なくとも私にとっての驚きと感動はそこにはなかった。
金森さんの身体の軌跡を動画で見た時から、私にとっての身体とは、“群れ”でいっせいに動いたり“アクロバティック”な仕方で凄技を演じたりするものではなく、そこに確固として存在する“身体自体の力強さ”に他ならなかった。
舞台に立つということは、何百人もの生身の人間の眼差しに直にさらされるということだ。これは舞台以外では味わえない体験だ。Instagramに一億人のフォロワーがいようとも、かれらは「いまここ」にはいない。自撮り動画では自信たっぷりに自分を表現できる人が、わずか一〇〇人の観客からニ〇〇の眼に見つめられた瞬間、実力を出せなくなる。それが舞台というものだ。生の人間がそこにいる、見ているというエネルギーはそれほどに強烈だ。そしてそのエネルギーによって光る人のことを、舞台人と呼ぶ。
金森さん、否、すべての舞台に立つ人たちにとって、観客の視線は太陽の発する熱光線にも等しい力を持っている。
そして、そのような「エネルギー」を自らの身体に浴びて「光る」存在をこそ、彼は月のごとく輝く「舞台人」と呼んでいるのである。
あの日、動画越しに私の目を釘付けにした金森穣の身体は、きっといくつもの眼差しに晒された末に生み出された、エネルギーの塊に他ならなかったのだろう。
故に、私が群舞に苦手意識を持つのは、私の視線の行く先をひとところに定めることができなくなってしまうからなのだと思う。
私は、どうしようもなく光り輝くひとりの「舞台人」を見たいのだ。
──
幾人もの視線を一身に浴びて輝き続ける舞台人。
もしも、そのような存在を突き詰めて考えるとするならば、それはどのような形態になるだろうか。
私が、その答えのひとつに思い当たったのは、ある一冊の本をきっかけとする。
菜央こりんの漫画『女の子のためのストリップ劇場入門』である。
その漫画の中では、女性である作者本人が、まさにこのエッセイの冒頭に書いたような“そういや、異性に限らず同性の裸ってまじまじと見る機会ないな”という軽い動機に導かれて友達とストリップショーを観に行った結果、とてつもない衝撃を受けるというエピソードが紹介されている。
確かに男性は得てして女性の裸を見たがるものだが、女性が女性の裸を見たがるものかどうかを考えたことはなかった私(男性)にとって、菜央の「キレイな女の人の身体見てみたいなあ…」という素直過ぎる欲求(当然、性的欲求から来るものではないのだろうが。)からして、まず驚かずにはいられなかった。
そして、彼女の漫画を読み終わり、私はこう思ってしまったのだ。
何も隠すことさえできない裸でありながら、観客たちの視線を受け続けなければならないストリップダンサーとは、金森さんが言っていた「舞台人」としての“矜持”に足先から頭まで貫かれた存在に違いない、と。
それから少し年月が経ち、私は友人と一緒にはじめてストリップ劇場へと足を踏み入れた。
漫画に紹介されていた、比較的初心者でも楽しめる劇場をピックアップし、意気揚々と現地へ向かったのである。
結論から言おう。
少し、期待はずれだった。
先に断っておくと、感銘を受けたところも多々あったことは事実だ。
舞台に立っていたダンサーたちは、身に纏っていた布地を少しずつ脱ぎ捨て最終的には裸になりながらも、実に堂々とした美しい踊りを披露してくれた。
さらにダンサーを照らし出すためのライトや演出、BGMもここは異世界かと思わせるほど豪華で、観客を心からもてなそうとする心意気のようなものが溢れていた点についても、心から大きな拍手を送りたい。
けれど舞台を観終わって、残念ながら私の胸の内に、あの苦い経験となったバレエ公演と似た心情が去来したことをなかったことにはできそうにない。
それはまさに、“エンターテインメント”としての舞台だった。
つまるところ、初めに訪れた劇場がたまたまそのような色を強く押し出したところであった、というだけの話なのだろう。
初心者でも入りやすい、という漫画の文句が示す通りである。
そのひとつの経験だけをもって、全体をこうだと決めつけ断じてしまうのは、当たり前のことだが決して褒められたこととは言えない。
だから、というわけではなかったのだが、たまたま別の時分に別の劇場に行くという機会を得た私は、今度はそれほど期待することなく舞台を観賞した。
すると、なんということだろう。
そこに立っていたのは、紛れもなく「舞台人」たちだった。
私は少し泣きそうになりながら、彼女たちの圧巻のパフォーマンスに舌を巻き、己が未だ身体に対して不明であったことを恥じ入らなければならなかった。
こんなに凄い身体芸術に貢献している彼女たちストリップダンサーが、未だに世間から心ない偏見の目で見られる傾向にあることに、胸が詰まる思いがする。
あの有名な「天岩戸」の神話において、天津神であったアメノウズメが、暗闇(「妙」)の中、胸も性器も露わな姿で踊ることで、神々の「面」がパッと白くなって(「面白し」)笑いだした(「咲う」)、という物語を思い出してほしい。(世阿弥は「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」と記している。)
彼女の踊りを通して「わらう・わる(笑う・咲う・割る)」神々によって、岩戸に隠れたアマテラス(太陽)は顔を出す(「花」)。
まさに暗闇を「さく(咲く・割く・裂く)」、だ。
もしかしたら、「舞台人」は観客の存在によってはじめて輝くばかりでなく、暗闇に篭り不明に苦しむ観客の視線の中にこそ本当は光の源が宿っていることを気付かせてくれる、そんな稀有な存在なのかもしれない。
動画を通して金森さんの身体に出逢い、その可能性へと思いを馳せることになった私にとって、彼女たちの身体に出逢えたこともまた、かけがえのない身体経験のひとつなのである。
参考文献
海野敏『バレエの世界史 美を追求する舞踊の600年』(中公新書、ニ〇ニ三年)
金森穣『闘う舞踊団』(夕書房、ニ〇ニ三年)
菜央こりん『女の子のためのストリップ劇場入門』(イブニングコミックス、ニ〇ニ〇年)
安田登『見えないものを探す旅 旅と能と古典』(亜紀書房、ニ〇ニ一年)
以上になります!
いかがでしたでしょうか!
皆さんもぜひ一度ストリップ劇場に足を運んでみてください。(18歳以上の方限定。)
人間の身体ってこんなに美しいんだと感動すると思います。(他の舞台芸術も!)
というわけで、今回はこの辺りにしておきましょうか。
よろしければ、フォロー・スキ・感想等もよろしくお願いいたします。
それでは皆さん!
さようなら〜。
