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17年ぶりに帰省して高岡御車山祭を観て考えたこと

父の余命があと2年ほどと言われ、17年前の後悔を繰り返したくないと、仕事の合間を縫って、日帰りで帰省した。

若くして出産した娘を助けるため、初孫の私を預かって面倒を見てくれていた祖母との対面は、亡骸となってからだった。母が何度も帰ってくるようにと連絡してくれていたのに。


初めて乗った北陸新幹線では、新高岡駅で降りた。17年前にはなかった駅だ。

新高岡駅から城端線に乗り換えてひと駅の高岡駅で降りた。
なんのことはない、子どもの頃祖母の家に行くために乗っていた城端線にひとつ増えた駅が、新高岡駅だったのだ。

城端線に乗り換える新高岡駅。17年前にはなかった駅だ。


高岡駅では、弟が改札口まで迎えに来てくれていた。

その日は高岡御車山祭の日だったので、弟と祭を見に行こうと事前に打ち合わせていた。

あいにくの小雨だった。
弟は開口一番、「テンションだだ下がり」「祭を観に行く気がなくなった」「雨の日の服、もっとらん」と不機嫌だった。
17年ぶりに会った姉への第一声がそれか、とおかしかった。

とにかく、急いで高岡駅からまっすぐにのびる末広通りを下り、片原町の交差点に向かった。
12時開始の「高岡御車山勢揃式」を生まれて初めて拝観することができた。

安土桃山時代から受け継がれ、高岡工芸の粋をつくした豪華絢爛な七機の曳山とそれらを露払いとして先導する獅子頭が一堂に会して、奉曳(ぶえい)が始まる。

七機の曳山は、それぞれに保存、運営する町が決まっている。
曳山のある町は、高岡市の中でも特別な地域で、その町に住んでいる人しか、曳山に関わることができないというクローズドな世界だった。

四半世紀以上前の話になるが、弟は曳山に乗ったことがあった。
その時両親がどういうコネクションを使ったのかを、私たちは知らない。

当時としては、とてつもない越境だったと思う。

その証拠に、弟が小学生になって「曳山に乗ったことがある」と放った一言が大問題になった。
弟はクラス中から、「町の人間じゃないのに乗れるはずかない」と「嘘つき」呼ばわりされたというのだ。

弟にそんな悲しい過去があったことを、私は今回の帰省で初めて知った。

弟と2人で、曳山の奉曳について歩いている時、七機の曳山にまんべんなく子どもが乗っていることに違和感を覚えた。

私の実家もそうだが、ご近所は年金暮らしのシニア世代がほとんどで、子どもを見かけることは少ない。

弟から聞いた話では、私たちの通っていた小学校は、少子化と校舎の老朽化から統廃合され、校名も場所も変わったらしい。

私の疑問を弟に投げかけたら、いまはその町の地縁血縁だけでやっていないらしいということだった。

弟が通っていたスポーツジムで、屈強な男性が、曳山の引き手としてスカウトを受けたエピソードを教えてくれた。

そして、その男性はジムで知り合った仲間にも声をかけて人材紹介していたとかいないとか。

子どもの頃、胸を躍らせながら追いかけていた曳山が、いまは担い手を探しているという。

私の中の祭の記憶と、目の前の現実が、うまく結びつかなかった。

曳山に笛や太鼓のお囃子は見当たらず、中にはシンセサイザーが置かれているらしいと、弟が教えてくれた。

テレビの向こう側の話だと思っていた少子高齢化が、曳山にあった。


高岡滞在8時間のうち、父と過ごせたのは3時間ほどだった。

病気のこともあり、老いて自由に出歩くことが出来なくなった父は、自宅に居ながらケーブルテレビで、高岡御車山祭をいちばんよいアングルで眺めていた。

前田利長公が高岡城築城のために、金沢から移住した時におともした刀鍛冶が我が家のルーツだと父から聞いている。

父のあと、弟の代が終われば、私の生家はそこで途切れる。


北陸製菓のビーバー、日の出屋製菓の昆布おかき、立山のワンカップ。パッケージデザインの変更に、時間の流れを感じた。

帰りの北陸新幹線は、ひとり居酒屋新幹線だった。子どもの頃食べていたビーバーと昆布おかきに立山で乾杯しながら、今日の出来事を振り返った。


高岡御車山祭を続けるために、かつて閉じていた世界が、外の人を受け入れていた。

人手不足への対処というだけではない。
「誰が担い手になれるのか」という前提そのものが変わっていた。


そのことに気づいた時に、あれ、私の職場と同じじゃないかと思った。


私はいま、ビルメンテナンス業界に身を置いている。

都内にある商業施設の環境整備を24時間体制でサポートする仕事だ。
その中で、日中巡回清掃の責任者をやっている。

私の職業人生は、会計事務所の所長秘書から始まった。
その後、経理、財務、法務、人事、総務、広報、経営企画と、会社の裏側を支えるデスクワークをひと通り経験してきた。

いまの職場は、若い頃から現場で働き続けた人たちが、正社員になっている世界だ。そんな中での私の採用は、異例だったと思う。

最終の役員面接では、「所長が推薦してきた人だから、採らないわけにはいかない」と言われた。

入社後、前任者から私の採用理由は、「事務作業ができるから」だったと聞かされた。

現場の常識を知らない私が、現場責任者になった。
現場一筋の人たちの中に、デスクワーク畑の人間がひとり放り込まれた格好だった。



この業界との接点は、前職でビルメン企業の労務を担当したことにある。自分にとっては初めての業界だった。

その会社の代表は、紙文化からデジタルへのシフトに力を入れていた。勤怠打刻を所謂昭和のタイムカードからアプリを使ったスマホ打刻に切り替えて、1年ほどだった頃に私が入社した。

「打刻を間違えた」「有給申請の仕方がわからない」などと、毎日のように現場スタッフから直接本社の労務担当である私に問い合わせの電話がかかってきた。

スタッフたちに会社携帯は貸与されていないので、通信費の自己負担を避けるために、個人携帯にこちらから折り返し電話をかける。

「いま耳につけているスマホを、一旦テーブルに置いてください」
そうやって画面をスピーカーに切り替えて貰うところから、勤怠打刻の説明を始めていた。

70代、80代のスタッフを相手に、私はすっかり携帯ショップの店員だった。

そのようなやり取りを繰り返していくうちに、ビルメン業界が、健康で働く気力があれば、いくつになっても働けるところだと知った。


その実体験が背中を押し、「未経験者歓迎」「丁寧に教えます」といういまの職場の求人広告に応募した。

日中清掃のスタッフは、私以外は全員時間給で働いている。

10年、20年勤続は珍しくない。

勤続年数の浅いスタッフは、ほぼ外国籍のメンバーで構成されている。

現場スタッフの採用で気づけば、面接に来るのはアラ還世代ばかりだった。

外国籍スタッフに関しては、リファラル採用がメインだ。

日本で働く場所を探した末に、ひととのつながりを頼って、私の職場に辿り着いた人たちがいる。

外国籍スタッフは、ほとんどがダブルワークで働いている。

早朝からシフトに入り、日中勤務を終えて、急いで夕方から別の仕事に駆け込む人もいる。

現場にいると、この業界を支えているのが、シニアと外国籍スタッフたちであることは嫌でも見えてくる。

その構造を変えることは容易ではない。
であるならば、その構造の中で人が力を発揮できるやり方を考えたい。


孫ほど歳の離れたスタッフ同士が並んで、トイレットペーパーを運んでいる。

日本語がほとんど話せなくても、トイレ清掃は誰よりも速く、手際のいいスタッフがいる。

日本人だから、若いから、それでいいという話ではない。国籍や年齢に関係なく、その人のポテンシャルを引き出すのが、私の仕事だと思っている。


スタッフを適材適所に配置して、チームワークでシフトをまわせたら、最高だ。


高岡御車山祭も、私の清掃現場も、気づけば昔とは違うメンバーたちで回っている。

私自身もまた、閉じた世界に外から入った側だったのかもしれない。


同じ形のままでは、続かないものがある。


そんなことを考えていたら、荻窪の春木屋を思い出した。


春木屋には、一年に一度は必ず行く。東京ラーメンの老舗だ。

食べるたびに、前の年とどこか少し違う気がする。それでも、「春木屋の味だ」と確認しに行っている。



変えながら、変わらずに続いていく。



続くということは、案外そういうことなのかもしれない。




【画像クレジット】
サムネイル画像:(C)高岡観光ナビ


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