見出し画像

歎異抄の旅(20)変わらぬ幸せはどこに? 悲恋の尼寺、『平家物語』ゆかりの祇王寺を訪ねて

『平家物語』ゆかりの祇王寺(ぎおうじ)は「悲恋の尼寺」として有名です。
 20歳前後の女性が中心となって開いた寺です。今から約800年前に何があったのでしょうか。「悲恋」とは?
 祇王寺に伝わる4人の女性の生き方を見つめ、『平家物語』と『歎異抄』の関係を確認する旅に出ましょう。
 JR京都駅から、電車で18分ほどで嵯峨嵐山駅(さがあらしやまえき)に着きました。駅の南側が、京都を代表する観光地・嵐山です。国内だけでなく、世界から大勢集まる超人気スポットです。
 祇王寺は、そんなにぎやかな観光地の反対側、駅から北西へ約2キロ進んだ静かな山のふもとにありました。

「幸運って、何ですか」
    4人の女性が選んだ道

 嵯峨嵐山駅から祇王寺へ向かって歩いていると、人力車に追い越されました。
「はて、明治時代に戻ったのかな?」と錯覚しそうになりました。
 それは、今はやりの「観光人力車」でした。車夫が解説をしながら名所・旧跡を案内してくれるのです。

祇王寺へ向かう道。人力車が走っている
カフェの駐車場にて

 古都の風を肌で受けながら、ゆったり旅をするなんて、うらやましいな……と感じた次第。
 祇王寺の前に着いて驚いたのは、「寺」というより、小さな「草庵」というイメージだったことです。

約800年前に、4人の女性が開いた祇王寺(京都市右京区嵯峨鳥居本)
祇王寺の山門

 広い庭園があります。緑の苔に覆われ、カエデの落ち葉が敷き詰められていました。
 祇王寺は、紅葉の名所としても知られています。私が訪れたのは11月下旬だったので、最も美しい時期を過ぎていました。

祇王寺の草庵と庭園

 それでも、庭園を一周する小道を歩くと、心が落ち着いてきます。慌ただしい時間の流れから解放され、自分の心を見つめるには、とてもいい場所です。
 夕暮れ時だったので、草庵には、温かい明かりがともっていました。4人の女性と平清盛の像が置かれています。

庭園を一周する小道を歩いて草庵に着くと、丸い窓から温かい明かりがもれていた

 では、『平家物語』の「祇王」の章を要約してみましょう。
     ※    ※
 平清盛が、天下を思いどおりに動かす権力を握っていた頃のことです。
 宴会などで歌謡や舞を披露する芸能人(白拍子)の中で、最も評判がよかったのが、祇王(ぎおう)と祇女(ぎじょ)という名の姉妹でした。
 姉の祇王が、平家の屋敷を訪れた時のことです。天女が羽衣をまとったような可憐な17歳。その美しさは、武者の多い邸内で、輝きを放っていました。

白拍子の祇王御前 イラスト・黒澤葵

 清盛は、一目見るなり、祇王に惚れ込んでしまい、そのまま屋敷にとどめてしまったのです。その代償として、祇王の母に、立派な家を造って与えただけでなく、毎月、百石の米と百貫の金銭を贈り続けたのです。
 貧しかった祇王の家族は、一躍、裕福になり、楽しい日々を過ごすようになりました。
 都には、
「祇王御前は、えらい幸運をつかんだものだ」
「玉の輿に乗るとは、このことだ。今や、清盛公の側室だからな」
と、たちまちウワサが広がりました。

 それから3年たった頃、芸能界に、キラリと光る新人が現れました。加賀国の出身で、名は仏御前(ほとけごぜん)。16歳の女性です。
 都では、
「これまで、こんな上手な舞は見たことがない」
と、彼女の人気は高まる一方でした。
 仏御前は、積極的な女性です。
「誰に褒められようと、この国を動かしている清盛殿に評価されなかったら一番とは言えないわ。お招きがなければ、こちらから押しかけて、私の舞を見ていただきましょう」
と、祇王に負けないほど美しく装って、平家の屋敷へ向かったのです。

清盛の屋敷に押しかけた仏御前

 清盛は、
「都で評判の仏御前が参りました」
と聞き、激怒します。
「厚かましいにもほどがある。ここに、祇王がいることを知らないのか。追い返せ!」
 すると、そばにいた祇王が、清盛をなだめます。
「そんなに冷たく追い返されては、若い彼女が、どんなに落胆し、恥ずかしい思いをするでしょう。私も、芸の道に生きていますので、人ごととは思えないのです。どうか、会うだけでも会ってやってください」
 心を動かされた清盛は、
「そうか、おまえが、それほど言うなら、会ってやろう」
と、態度を変えたのでした。
 仏御前は、追われるように車に乗って、門から出るところでしたが、呼び戻され、広間へ連れてこられました。

 遠い上座から、清盛は言います。
「今日は、会うつもりはなかったが、祇王が、あまりにも勧めるので、会ってやるのだ。顔を見るだけでは、つまらん。今様(いまよう・歌)を一つ、歌ってみよ」
 仏御前は、「承知しました」と清盛に一礼したあと、そっと祇王を見つめ、瞳で感謝の気持ちを伝えました。
 彼女の澄み切った声が、広間に響きわたります。
 歌い終わると、シーンと静まり、誰もが、心地よい余韻を味わっていました。
 仏御前を見る清盛の目が変わってきました。
「そなたは、今様が上手だな。舞もきっと素晴らしいだろう。誰か鼓(つづみ)を打て。仏御前の舞を見ようではないか」
 舞こそ、彼女の得意中の得意。鼓に合わせて、艶やかに舞い始めました。その美しい姿には、16歳の少女とは思えない気品があります。
 恍惚とした顔つきで見入っていた清盛は、仏御前に、この屋敷にとどまるよう命じました。祇王から仏御前へ、完全に心が移ってしまったのです。
 しかし、仏御前は喜びませんでした。
「何をおっしゃいますか。もともと私は、勝手にやってきて、一度は追い返された身です。お願いですから、早く帰してください」
 清盛は、
「そんなことは許さん。ははあ、祇王に遠慮しているのだな。よし、それなら、祇王に暇をやろう。直ちに実家へ帰らせることにしよう」
と無造作に言い放ったのでした。

 祇王は、いつか、こういう日が来ることは覚悟していました。
 しかし、まさか今日が、その日になるとは夢にも思っていなかったのです。
 清盛から、「早く出ていけ」と、しきりに催促が来ます。
 彼女は、自分に与えられていた部屋を片付けていました。3年もの間、住み慣れた屋敷を追い出されるのは、名残惜しいだけでなく、恨みや悲しみが込み上げ、涙が止まりません。
 いつまでも泣いているわけにもいかないので、祇王は、襖に一首の歌を書いて出ていきました。

萌え出ずるも枯るるも同じ野辺の草
 いずれか秋にあわではつべき
(新しく芽を出す草も、枯れていく草も、同じ野原の草です。やがて秋になれば、枯れてしぼんでいくのです)

 祇王が去ったあと、襖に残された歌を見た人たちは、しんみりと考え込んでしまいました。
「萌え出ずる草」とは仏御前
「枯るる草」とは祇王自身
を例えています。
「青々と勢いよく伸びる草花も、やがて茶色に変わって枯れていきます。私にも、その時が来たのです」
と無常の世を悲しんでいるのです。
 また、「いずれか秋に」の「秋」には「飽き」の意味がかけられています。
「仏御前よ。いずれあなたも、私と同じように飽きられて捨てられるのですよ」
と言い残したのでした。

 実家に帰った祇王は、そのまま倒れ伏して、ただ泣くばかり……。
 母や妹が、「どうしたの、何があったの?」と尋ねても、何も答えません。送り届けてくれた人に聞いて、やっと事情を知ることができたのでした。
 それ以来、毎月、実家へ贈られていた米百石、銭百貫も、止められてしまったので、急に、生活を切り詰めなければならなくなりました。
 逆に、今度は、仏御前の家族が、富み栄えるようになっていったのです。

 その後、祇王には、悲しいこと、悔しいことが続きました。
「この先、生きていたら、また苦しい目に遭うに違いない。もう、身投げをして死んでしまいたい」
 祇王が言うと、妹の祇女も、
「お姉さんが身投げをするならば、私も死にます」
と同意します。
 母は、これを聞いて悲しみ、祇王を諭します。
「おまえが身投げをすれば、妹も一緒に死ぬと言っている。二人の娘を失ったら、母一人、どうして生きていけましょう。私も一緒に身投げをします。
 でも、考えてみておくれ。親に身投げをさせるのは、親を殺すのと同じことになるのですよ。お釈迦さまは、親殺しの罪はとても重いので、来世は、必ず苦しい世界へ堕ちると教えられています。
 この世は、仮の宿のようなもの。長い長い生命の流れからいうと、人生五十年としても、一瞬の間でしかないのです。
 だから、この世で、どんな恥ずかしい目に遭っても、苦しい目に遭っても、来世で受ける苦しみと比べたら、どうでもいいような、ちっぽけなものでしかないのですよ」
 母は、こう言って、さめざめと泣くのでした。
 祇王は、
「申し訳ありません。自殺は思いとどまります。しかし、都にいると、またつらい目に遭うでしょう。今は、ただ、都の外へ出たいのです」
と言って、そのまま髪を切って尼になったのでした。この時、祇王、21歳でした。
 妹の祇女(19歳)も、母(45歳)も髪を切り、3人で一緒に、嵯峨野(さがの)の山里に粗末な庵を結び、浄土往生を願って、念仏の生活を送るようになったのです。

 かくて春が過ぎ、夏の盛りが過ぎて、秋の風が吹き始めました。
 彼女たちは、夕日が西の山の端にかかるのを見ても、
「日の沈んでいく所は、西方浄土。いつか私たちも浄土に生まれて、つらい思いをせずに過ごしたい」
と願わずにおれません。
 ある日、夜が更けてから、トントントンと玄関の戸をたたく音がしました。
 こんな時間に訪ねてくる人がいるはずがありません。祇王が、おそるおそる戸を開けてみると、そこに立っていたのは、なんと、仏御前ではありませんか。
「あなたは、清盛殿の屋敷にいるはず。どうして、ここへ……」
 驚く祇王に、仏御前は、涙を抑えて語り始めました。
「私は、薄情な人間になりたくないので、これまでのことを、お詫びにきました。
 もともと私は、清盛殿から呼ばれてもいないのに、勝手に推参して、追い返された身です。それを、祇王御前のおとりなしで呼び戻されたのに、私の気持ちに反して、強引にお屋敷にとどめられました。私は、ずっと、あなたに申し訳なく、心が苦しかったのです。
 あなたが襖に書き残された歌を見るたびに、まことの言葉だな、と思う日々でした。
 今は、天下を取った清盛殿のそばで、豪邸に住んで、美しい服を着て生活しているけれども、こんな喜びは、いつまで続くのだろうか、と疑問がわいてきたのです。
 お釈迦さまは、
『人間の命は尊い。たった一度しかない人生を無駄にしてはならない。いつまでも変わらない幸せになりたければ、仏教を聞きなさい』
と教えられています。
 もし、生きている間に、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)に救われることがなかったら、この世も、未来も、苦しみの連続になってしまうでしょう。
 それなのに、一時の楽しみにごまかされて、生きる意味を考えようとしない自分が、とても情けなく思えてきたのです。今朝、思い切って、清盛殿の屋敷を飛び出し、このような姿になってまいりました」

 こう言って、仏御前は、頭からかぶっていた衣を取りました。
 なんと、髪を切って、尼になっていたのでした。
 仏御前は、泣きながら訴えます。
「これまでのことは、どうか、お許しください。私をここに置いてください。皆さんと一緒に、弥陀を深くたのんで念仏して、往生の願いを遂げさせていただけないでしょうか」

 祇王も涙を抑えて答えます。
「私は、あなたのことを、恨んでばかりおりました。しかし、今の話を聞いて、日頃の恨みは消え去りました。
 私の出家の動機は、あなたに比べれば、取るに足らぬものでした。わが身の不幸を恨み、逃げるように山にこもってしまったのです。
 あなたは違う。わずか17のお年で、この世の儚さを見つめて、浄土往生を願っています。仏教を求める者の、本来あるべき姿を、あなたから教えてもらいました。さあ、中へ入ってください」

 4人は、この庵で一緒に暮らし、朝夕、仏前にお花、香を供え、心安らかな日々を送るようになりました。法然上人(ほうねんしょうにん)から仏教を聞かせていただくことを楽しみとし、弥陀(みだ)を深くたのんで念仏を称えていたのです。
 遅い、早いの違いはありましたが、彼女たちは、みな、浄土往生を遂げたといわれています。
(『平家物語』 巻一「祇王」より)
     ※    ※
 4人の女性が、念仏を称えて暮らした草庵は、後に「祇王寺」と呼ばれるようになりました。
 祇王御前や仏御前が、清盛に見初められて、豪邸に住み、経済的に恵まれるようになったことを、都の人々は「幸運をつかんだ」と、うらやましく思っていました。
 果たして、それは幸運だったのでしょうか。

 祇王寺は、「悲恋の尼寺」と呼ばれています。しかし、『平家物語』の原典を読むと、権力者に翻弄された悲しい女性たちが、生きる意味を見つめ、いつまでも変わらない幸せを求めた場所であることが分かります。
『平家物語』の作者が、祇王のエピソードを通して伝えたかったことを、『歎異抄』は、次のように言い切っています。

(原文)
 煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。 

『歎異抄』後序


〔意訳〕
 火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである。

*火宅……火のついた家のこと
※意訳は『歎異抄をひらく』(高森顕徹著)より

夕暮れ時の祇王寺。この地で、4人の女性は、どんな思いで暮らしていたのだろうか

いいなと思ったら応援しよう!