「芸術の心」と「科学の心」:AI時代にも「過程」を手放さないために
もし「どこでもドア」が実用化されたら「旅」はなくなるでしょうか? 『実世界内の移動は無駄が多いので、車や鉄道の利用は禁止します』 冗談のような話ですが、効率を重視するあまり「過程」が削られていった例は、すでにたくさんあるように思います。
AIが自分で考え、人間より優れた作品、例えば、希望を与えてくれる楽曲や身近に飾りたくなる絵画を制作する日はすぐにやってくるでしょう(当面の間はそれを人間が作ったことにしておく必要があるかもしれませんが)。
そのとき、芸術家は必要なくなるのでしょうか?
小説を書くのが趣味の(バリバリ理系の)長女に「AIが進化したら小説家はいらなくなると思う?」と聞くと、こう即答されました。「小説は読むことじゃなくて書くことに意味があるんだよ」。
わたしも同じように考えていました。
「芸術の意味は作品ではなく創作過程にある」
これは「作品の背後にある物語が作品に命を与える」みたいな話ではありません。だれかの生み出したものではなく「自ら表現しようとすること」が芸術の核心だ、という意味です。
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わたしは科学を仕事にしています。でも、AIが進化するとほとんどの科学者は必要なくなるのでは?と思わなくもありません。効率よく社会に貢献することを考えるなら、今の科学の場は問題設定も手法も人や予算の配置も無駄だらけです。その無駄を一掃して科学をAIにまかせれば、わたしたちの生活はすごいスピードで便利になっていくはずです…
本当にそうでしょうか?
たしかに、これまで科学は人類の知識を増やし、多くの病気を克服し、生活を便利にしてきました。その一方で、生み出された物や情報によって新たな危険や困難が生まれ、生きることに直接関係のない作業が増え、科学が生み出した兵器が人類の繁栄を脅かすまでになりました。
科学は必ずしも安全や幸福だけを与えてくれるわけではありません。むしろ、これからは負の側面が目立ってくるかもしれません。
では、科学の価値って?
科学も芸術と同じで、結果にたどり着く「過程」に意味がある。
そう考えるのも間違いではない気がするのです。
実際、わたしは科学の「過程」に生きがいすら感じています。
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「芸術なんて興味ない」
「難しいことを考えるのは嫌い」
そんなふうに思っている人も多いでしょう。でも、きっと人は自分で考え、なにかを生み出すことが好きなのです。大事なのは小さなハードルを越えて「傍観者」から「表現者」になることです。
だとしたら、よい研究成果とは目の前の問いを解決しつつ「より魅力的な問い」を示した研究で、よい芸術作品とはそれに触れた人の表現意欲をかき立てる作品なのかもしれません。
そして、芸術家と科学者の役割は、自ら結果を出すことだけではなく、だれかの「生み出す意欲」を刺激し、芸術と科学の「過程」を共有することだとも言えそうです。
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そもそも、「最終的には消えてしまう」わたしたちは、「過程」を生きる存在です。その大切な「過程」をAIに明け渡さないために、自分の心の中にある(油断すると眠ってしまいそうな)「芸術家的魂」と「科学者的魂」を目覚めさせておくことはとても大切なことだと思います。
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カメラを持って道を歩く。
風に揺れる木々を見る。
遠い海を想う。
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「科学」と「写真」を中心にいろんなことを考えています。